2024年11月05日

令和六年度台湾台北教室への指導について(報告)


京都府舞鶴市字久田美1618番地
心身統一合氣道会弘心館道場
師範 奥 山 弘 邇

令和六年度台湾台北教室への指導について(報告)

標記の件、台湾への心身統一合氣道の指導は2009年から今回で23回を迎えました。今回の指導経過につきまして報告します。
                   記
日  時    令和6年10月18日(金)〜21日(月)まで。
場  所    中国文化大學 武道場・民生釈社区活動中心・武少林台北道場
目  的    ○原点に戻っての基本的項目について。
○心身統一合氣道指導(初心者向け・初段・二段・三段の体技)
○心身統一道の指導
        台北教室会員の家族との交流・台湾合氣道会との交流その他。
経 過
今回の台湾への目的は、原点に戻って「氣とは何か。心とは何か。心が身体を動かすとは如何なることか。心身統一道とは何か。心身統一の四大原則とは。心身統一合氣道とは何か。心身統一合氣道の五原則とは。操体感覚20項目について
説明。特に理念は「争わざるの理」、目的は「人格の涵養を図る」について説明。
解説表武を通じて伝えました。

第一日、中国文化大學において修練実施。
第二日、武少林台北道場において修練実施
第三日、民生釈社区活動中心において修練実施
参加者総数……約150名



特に藤平光一先生が生涯の師として仰がれた植芝盛平翁。私が盛平翁から学んだ技を、私が142cmに身をかがめて190cm、体重120kgを相手にして一瞬に崩したとき、この技は、藤平光一先生の技と同じなのです。則ち、力を完全に抜くとできるのです、と言いますと大きなどよめきがありました。
それ以降は、参加者の観る目が違いました。
私は台湾での指導は、如何なる人も排除は致しません。すべて来るを拒まず、といたしております。
そして、物事には真理がある、との言葉通り真理が示すものには全ての人の心を引き付けます。台湾の合気道を学んでおられます方々、熟考の上私のもとに参加されますのはそれ所以であります。
最後に参加されました人からメッセージが届きました。その内容は次の通りです。
「先生 昨日の稽古で色々刺激を受けて、大変勉強になりました。今回の講習を受けて、心は行動に影響を与えることを実感し、貴重な経験をいたしました。
また、心とは何か? 合氣道とは何か? 新しい視野で考えさせることが出来ました。本当にありがとうございます。これからも探究と修練を続け、次回会う時少しでも成長が出来るよう頑張ります。 呉」
この言葉で今回の湾台北教室の指導は成功裏に終ることが出来たと確信を得ました。
そして台北教室の会員の皆さんには、ワンゼネレーション30年先を観て活動をして下さい、と伝えております。
これを持ちまして報告とさせて頂きます。

以上

posted by 弘心 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月21日

令和六年度高野山夏季合宿について


標記の件、8月17〜18日実施いたしました。
心身統一合氣道会弘心館道場開設記念夏季合宿は、宿坊は天徳院。修練は高野山大学武道場にて実施いたしました。
参加者は、台湾台北教室が五名、弘心館道場から十一名。
夏季合宿はコロナ禍におきまして五年間実施することが出来ませんでしたが今年も弘法大師空海の根本中堂の地において実施できましたこと大変意義がありました。
修練にあたり誦句集を唱和、そして「心とは何か」「心は何処にあるのか」空海の言葉「悟りも真理も全ては自らの心の中にある(般若心経秘鍵)」「心の曇りを取り,ものを正しく見る(弁顕密二教論)」「善行が心を清くする(性霊集)」などを講話。
修練は「操体感覚について」から始まり、規定体技の基本技・通常技を六時間実施いたしました。
最後に弘心館道場の理念は争わざるの理、目的は、自らの人格の涵養を図ることを確認させて頂き、大変有意義なうちに無事おわることができました。
又、奥之院(弘法大師御廟)への参拝、空海入定の地を肌で感じ、空海とともにすごした二日間、参加者の皆さんには心から感謝の意を申し上げるとともに、天徳院、高野山大学の関係者の皆さんに心から感謝とお礼の言葉を申し上げ帰途につきました。
その後、参加者の皆さんから、心身統一合氣道の修練の意味、自らの生き方がはっきりしました、との感想を頂き、感無量な想いをいたしました。

以上
posted by 弘心 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月16日

我が熱血時代



山岳道路ほか50路線、橋梁の架け替え20橋梁、都市公園の整備、都市緑地、児童公園、近隣公園等の整備、河川改修、公園墓地整備、都市計画道路、同和地区整備、商店街再開発、放置自転車対策と整備計画の策定、全国で初めての機械式駐輪場の計画と実施、国鉄南地区都市再開発事業の基本構想・基本計画・実施計画と事業実施、阪急電鉄高槻市駅前再開発事業計画・実施、阪急電鉄立体交差事業計画と実施、摂津峡公園整備計画・整備事業、最終処分場整備計画と実施、前島焼却場新設事業、総合センター新設事業計画と実施、地域防災計画の策定……。
高槻市長から招聘されて奉職、在職38年間、数え上げればきりがないほどの事業を手掛けてきた。
そして38年間で出会った人は、4721人。その中で多くのことを学んできた。
高槻市には何の地縁血縁もない者が多くの仕事が出来たのは、素晴らしい人達との出会いであった

シビル・エンジニアとしての自負は、学生時代に多くの専門知識を身に着けたことである。
都市計画・地域計画としての都市工学、道路工学、河川工学、港湾工学、材料工学、橋梁工学、応用力学、水理工学、土木施工、公園工学、鉄道工学、隧道工学、測量工学、機械一般、建築一般、電気一般…など今思い出しても懐かしい。
そして大阪と京都の中間に位置した高槻市は地の理から人口急増都市として全国でも珍しい急成長を遂げる。

昭和30年代、まだ戦後処理が残存…、新しいまちづくりが始まったのである。
私が一最初に手掛けた事業は、摂津峡耶馬渓公園と府道を結ぶ山岳道路であった。
この山岳道路の事業のためには、最初に国土地理院の二千分の一の図面で現地踏査をおこなう、そして次にペーパーロケーションをして、概略平面哃をつくる。次に実施測量にはいる。トランシット、レベルを用いてトラバース測量。次にトラバース測量が完了したら、誤差論をもちいてトラバース(骨格)を閉合をさせる…これが一苦労なのである。今のようにPCも電卓もない時代、計算尺と手回し機械計算機を用いる…これがまた大変な作業でした。いまでは一瞬にしてできます。これが丸一日かけてしかも近似値しかでないのです。
又、測量機械そのものも扱いが大変でした、特にYレベルは絶えず調整が必要なのです…。
そして継ぎにオフセット(平板)測量です。平板にケント紙をピンでとめて汚れないよう氣をつけて行うのです。その作業は通常三人は必要ですが二人でするのです。
出来上がった図面は硫酸紙でトレースして青焼き図面をつくります。
その図面に計画線を入れて、次に縦断図・横断図の為に縦断測量と横断測量を実施。
つぎに道路構造令に従い、幅員、縦断計画と切土盛土のバランスを考えて、全体設計を行います。
計画平面図・計画縦断図、横断面図・構造物詳細図、土量計算書、代価表、内訳書、設計内訳書…。これで実施設計の出来上がりです。
次に、仕様書の作成。決済書類として稟議。
決済が済めば、業者の選択、通知して入札を実施。
工事着工となります。現場管理を行い、工事写真を撮る。完成すれば竣工検査実施。問題がなければ事業完了となります。

このような事業を年間50件もするのです。積算は全て積み上げて代価表を作るのです。土工は当時一日当たり、314円でした。歩掛は手づくりです。
諸経費、一般管理費などは、国が定めた基準に従います。
このようにして、全ての設計作業は市の技術職員が行いました。
今は、測量は測量専門業者に委託。設計は設計コンサルタントに委託、現場管理も業者委託…
何にために市に技術職員が存在するのか…。

私は橋梁が専門でした。橋を設計するのは大変夢がありました。
学生時代には、木橋から始まり、RC喬、ラーメン、合成桁、プレストレストコンクリート喬、Tセクションポストテンション方式橋梁、トラス喬…など数多くの橋梁を設計してきました。これが大変役立ちました。
高槻市で橋長25メートルの橋ですが全国で初めてという橋を設計しました。
中空穴あきホローポストテンショニング方式の橋梁です。一等橋で桁高さ80cmです。非常にシンプルな橋でした。
当時大阪府に軌道橋梁係がありました。その係長が京大出身で橋梁が専門でした。話が合い楽しい仕事でした…。

昭和46年に都市計画法が改正、「新都市家計画法」として発布された。これはいままでとは大きく変わりました。旧都市計画法は、全て国の主導でものごとが決まるような内容でしたが、新都市計画法は、国民が主役となる内容で国民との合意形成が必要とされたのです。
それとともに、面的な街づくりはイギリスの法律を参考にして「都市再開発法」が施行されました。
高槻市は国鉄南地区市街地再開発事業として基本構想・基本計画・実施計画に踏み出しました。
この事業は工事費約400億。キイテナントの誘致など難問に挑むことになる…。その過程で大蔵省元銀行局長の大月 高氏、町村自治大臣、佐藤栄作総理大臣の子息佐藤竜太郎氏、アジア開発の半田氏、鹿島建設三苫常務氏、キイテナント誘致に高槻市長が土座してお願いした岸信介氏と巣鴨プリズンで同房であった松本啓次郎氏…その他多くの人との出会いが私のその後を大きく変えていきました…。その中でも田中角栄氏との出会いは、私には一番の思い出であります。

つづく
posted by 弘心 at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月11日

昭和歌謡の魅力

私が昭和時代の昭和歌謡曲に惹かれていったのは、詩が素晴らしく感じたからです。
西条八十、石本美由紀、星野哲郎、秋元康、筒美京平、サトウハチロウ、阿久悠…などの作詞家の詩は言葉を非常に大切にしていた…。

たった一行の詩を何日もかかって書き表す…など、まさに心血を注いだ言葉です。
それが作曲家と共有され、名曲が生まれていったのです。

特に好きなのは、岡本敦郎さんの「白い花の咲く頃」です。
作詞寺尾智沙、作曲田村しげる。


白い花が咲いていた
ふるさとの 遠い夢の日
さよならと言ったら
黙ってうつむいていたおさげ髪
悲しかったあのときの
あの白い花だよ


歌っていると何か心に変化がおこる…。
「柿の木坂の家」「上海帰りのリル」「男のブルース」…などの詩は心打たれます。


その後、ハワイアンバンドを結成。名前は「エオノ・レイ ハワイアンズ」六つの花輪の意味。スチールギター、ベース、サイドギター2、ウクレレ2の六人。私はウクレレとボーカル。200曲(ハワイアンメロディ以外に、タンゴ、ワルツ、ブルース、歌謡曲など)のリバートリをひっさげて、12月には松下精工のホールで、関西グリークラブと共演など…。これも懐かしい思いでです。
posted by 弘心 at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

我が青春時代

我が青春時代
大阪北区池田町八番地(天神橋五丁目)で生まれて、戦争を体験した。空襲警報…灯火管制…防空壕…大阪大空襲…淀川大橋の下に累々と転がる死体…疎開…田舎における差別…食料品の買い出し…大阪の家(奥山鉄工所)は焼け野原に…プーリーだけがカラン、カランと音を立てていた…。
大阪から高槻へ…母の苦労が始まった…。95歳まで生きた母…しかし、親孝行を十分に出来なかった自分を何時も攻め立てる別の自分がいる…。
生きておられる時に、何故もっと親孝行が出来なかったのか……。
84年生きてきた自分を責める……。
母と共に生きた青春時代は…懐かしい思い出。
五黄の虎年生まれの母は、両親から、この子は後家さんになるから、手に職をといって若い時から日本髪を結う技術を身に着けさせらていた。
それが疎開先の高槻で役に立った。後に山野愛子先生のもとで美容師の免状を取得する…。そして田舎の村での八千代美容室の誕生である。
私が父の会社の東京支店に学業のために四年間旅立つまでは、歌に関心をもつた。卒業後もますますのめりこんだ。
唱和33年から38年にかけては、一番の想いでは、全国ではじめて歌謡大会が大阪市の中央公会堂で開かれた。審査委員長は歌謡界の大御所である林伊佐緒先生。300人の及ぶ参加者があり、予選だけで朝9時から始まり、午後二時までかかった。
予選を通過した者が本選に入ったのは、午後三時過ぎでした。
私は予選通過…。本選で二位に入りました。予選と同じ歌を歌っていれば一位になれたのに違う歌を歌ってしまいました…。三橋美智也の歌、神戸一郎の歌…。それから放送局の歌番組には大方応募して出演した。懐かしい思い出は、藤田まことさんとの出会いでした。
毎日放送での「素人物まねコンクール」。大阪南の映画館、国際会館で市村俊行(ピアニスト)さんの司会で始まりました。その前座に若かりし頃の藤田まことさんが、淡谷のり子の「夜霧のブルース」などを歌っておられました。毎日放送のスタッフの方が「まこっちゃはおもろいおとこやで」と言われていたのが今も耳に残っています。その後、テレビでの芝居「てなもんや三度笠」で大人気に。
その後は、「はぐれ刑事・純情派」など多くの作品にでて人気をはくしました。彼は特に歌が上手で、フランク永井さんの歌は、彼の十八番でした。その後、藤田まことさんとの交流は続きました。
私も音域が二オクターブがでることから、三橋美智也さん(女船頭歌、リンゴ村から、哀愁列車他)の歌からフランク永井さん(有楽町で逢いましょう、霧子のタンゴ、夜霧の第二国道他)、三浦洸一(東京の人、落ち葉しくれ、伊豆の踊子他)、アイ譲二(赤いグラス他)、春日八郎(別れの一本杉他)、三船浩(男のブルース他)などレパートリーは二百曲ほど…。
私はその時、神戸一郎さんの「十代の恋よさようなら」を歌って入賞しました。
当時放送局は、予選などであまり変化がない出場者の場合、電話が掛かってきました。面白くするために対抗馬を出すのです。
何回かかかってきて出た思い出があります。
その後、牛乳石鹸歌謡学校によばれて毎週大阪の電通スタジオへ…。
さらにテレビの普及に従い、コマーシャルタレント養成所の推薦されていきました。その時、フジテレビて゛人気のあったロイジェームスとの共演依頼がありましたがタレントイジメで有名と聞き、断り。
エコー歌謡学院で本格的に歌の勉強…。売れっ子になった松山恵子とは、同級でした…懐かしい思い出です。
大学卒業後は、歌の世界とはきっぱり離れました。
何年か経って…京都のナイトクラブ、ベラ三で松山恵子さんと出会ったのが最後でした。
合氣武道との両立しての歌の世界は、楽しい思い出一杯の時を…過ごしました。何時の日かNHKののど自慢に出るつもりです。
85歳の新人歌手…やる気マンマンです。



38分 ・
プライバシー設定: あなたの友達
posted by 弘心 at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月03日

師と友

師と友

 師と友は、私たちにとって第二次の父母兄弟です。「骨肉の親」に対して言えば「道の親」と言えます。それは私たちの疲れ、病む心と意志に尽きることのない力と光を与え、疑いや悩みばかりの人生に、意味と喜びや楽しみを恵んでくれる者であります。
よい師や友を得た時、私たちは、ちょうど塵と埃や喧しい騒がしさや濁った空気の都会を去って深山幽谷に入ったように、思わず清新な氣を深く呼吸し、心身はふたたび健やかに蘇るのであります。

 そして、おのずから生まれた英霊(優れた人の魂)の雰囲気が、私たちの踔歯濫ュ(才気や文章の筆力が風を巻き起こすかと思われるほど勢い強いこと)させて、どうかすれば絶望としていた人生に、また神秘的な生き生きとした気分で会い向かわせ、なえてしまいそうだった両脚に強い力を与え、四股を踏み鳴らさせるのであります。
 
 師は、私たちに先立って人世の大変な苦労と闘い、人生の深い道理を探り、優れた人の魂の高い峰を登りつくしつつある人であります。友は、自分と前後して真剣にその後に続いている者であります。
それだけに、道を修める者の間にはおのずからまた肉親の情とは違った敬愛、いわゆる道情が通い合う。これは、人間にとって肉親の情愛よりさらに高い次元の心の作用であります。私たちに親のないことは耐えがたいほどの不幸であるように、師友のないことは最も深刻な寂寞、寂しさであります。

 孔子の第一の高弟である顔回が亡くなった時、孔子はその家にお悔みに行ってひどく嘆き悲しんだ。如何なる場合にも乱れるこのない孔子が、珍しくも哀傷を極めた姿を見せたのに驚いた従者が、後で「先生は大変なげき悲しまれましたね」と言うと、孔子は、「そうたったか。彼の死を嘆き悲しまずに誰のために嘆き悲しむことがあろうか」とため息をついたという。
師弟の道情の細やかさがしみじみ味わわれます。
 
 このようにして師との縁は実に深く深遠なるものが窺えるので在る故に、「縁を断つ」ということは、師にとって断腸の思い万感の想いが心底にあることを知らねばなりません。
posted by 弘心 at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月02日

破門

破門

心身統一合氣道会弘心館道場には、この言葉はあります。
武道を伝える場として存在するのです。
「破門」という言葉の意味は、「師弟の縁を断って門人から除くこと」とある。
合氣道の道場其の傘下の教室は、学習塾とは異なります。人間関係、人と人との繋がりによって成り立ちます。
当然道場には、理念と目的が定められています。
その理念・目的に離脱した考えや行動をとった場合、当然対象になります。
特に「人間としての生き方」を直視します。

其の為、指導者たる者は「佐藤一斎の重職心得箇条」を熟知するとともに、日常の行動に備わっていなければならない。結果、真の指導者の八つの身体的な風貌がなければならない。

弘心館道場では、過去に破門になった者は二名存在する。
弘心館道場に入門された方々は、今一度心を引き締められて、「何のために入門して、何を学ぼうとするのか」を自問していただきたい。
宜しくお願い申し上げます。

心身統一合氣道会弘心館道場 館長

posted by 弘心 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月29日

手紙

お手紙読ませて頂きました。返事に時間が掛かりました。良く頑張っておられます。大変嬉しい限りです。では一つずつ私の考えをお話しましょう。
そのT、「……日々起こる出来事にあててみて…ピッタリ当てはまる言葉がなかなかみつかりませんが…」について。
 私が今まで道場でお話した中には、沢山のヒントがあります。
私が、師、安岡正篤先生から学んだ幾つかの言葉をお教えしましょう。
「感恩の心………人は思えば思うほどいろいろの「お陰」で自分というものができていることが分かる。そこで、いろいろなお陰でできた自分だから、いろいろ報いなければならない。我々は天地の恩、人間の恩、教の恩など、あらゆる恩の中にある。
これにたえず報いてゆくのが生活である。」
「六中観………忙中閑有り(忙しさの中でも心の余裕を見つける)。苦中楽有り(苦しい時でも楽しみを見つける)。死中活有り(身を棄ててこそ浮かぶ瀬もある。)壺中天あり(どんな境遇にあっても自分だけの世界を作る)意中人有り(心から尊敬する人を持つ。)腹中書あり(心身を養って経綸に役立つ学問をする。)
この言葉から思いを馳せて見て下さい。
次に、ものごとをただ、見るということ、あるがままにみるということ、とらわれずに見る、といことです。
正しくみるということは、純粋に、あるがままにみるということです。
人は普段「見る」と言う行為において、目と言う感覚器官をつかってただみているわけではないのです。過去の経験、体験を通して、又、世の中の常識や、また人や本から学んだ知識のイメージも加わって…、そして「好きだ」「嫌いだ」などと、目に映ったものを見ています。このように物差し、感情等のフィルターを通して見ています。
自分では、目で見ているつもりかも知れませんが、実は心のなかのフィルターを通した「心の目」で見ています。これらを外した状態ね何も色を付けない状態で見ること、それが本当に正しく、あるがままに見ることです。それが正しく見るということなのです。

次に「力を抜く」ということについてです。自分を無いと実感することではありません。
心の中を無にすること共に「力を抜いた」と思うことなのです。
肩の力を抜いて、などといいますね。その時は、いったん両肩をギュッと上に上げて、そして下にストンと落とします、その時の身体の状態を言います。
試してください。

言いわけについて、この本真は、自分の氣づきを持って心の動きを知ることです。
言い訳はしないことです。素直に心の動きを正しい方向にむけることです。
すなわち、純粋な透明な心を持って見ていくことです。
全てのものは変化し、きえていく。そのことに気付くことが大切です。前述のあるがままに見ることなのです。そして、思いを正しましょう。瞑想をして「今ここにいる」ことを習慣づけていくようにします。過去でも未来でもない「今ここにいる」ことで不安や心配のない、しあわせで愛に満ちたあなたになれるのです。
そして見返りを求めず相手の喜びを自分の喜びに…。
次に「…何か起こると…あきらめることでしょうか…」についてです。
あきらめることではなく、自らの外側も内側も正しい教えを実践する、そして常に良い行為を繰り返すことです。間違ったことであれば、それをばねにして二度とおなじことをしないと言いきることです。そして、そのことは全て放下します。忘れてしまうことなのです。なぜ?それは過ぎ去ったことは、最早過去のことなのですから…。

最後に、行動も生活も、内面の修行も、凡て精進です。悪行をせず。自分の心身を大切にすることを続けます。今まで自分を責めていたのなら、その記憶も淨めていきましょう
「ポジティブに考える」のではなく、「どちらにも心を使わない」のが理想の状態です。
心を超えて、愛と一体となる為に瞑想を続けていきましょう。
深く集中した先に、自分の本質の理解があります。
そして、すべて自然の法則に従った生活を行うのです。

まだ、書き足りませんが、ご容赦ください。何からヒントにして頂ければ幸甚です。
                             奥山弘邇 拝


posted by 弘心 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月15日

アスペルガー症候群の特徴


○ アスペルガー症候群の特性は、子どもも大人もかわらない。
○ 暗黙のルールを察するのが苦手なので、言動が問題視されるのは社会に出てからのほうが多くなる。
○ 相手の感情をくみ取ることも、自分の感情を伝えることも不得意である。
○ 話し手の言葉を表面的な意味通りに受け取るので、言外の意味や含みのある言葉、冗談などは通じにくい。
○ 話し方で感情表現するのは苦手なので、単純な話し方になりやすい。
○ 手順やものの配置など、自分のルールが崩れると混乱してしまう。
○ アスペルガー症候群は「孤立タイブ」「積極奇異タイブ」「受け身タイプ」の三つに分けられる。
○ 五感を中心に、感覚の隔たりがある。
○ 周囲とうまくかかわれないことで、強い不安やストレスを感じ続けると、二次障害として別の病気になるこがある。
○ 心の病気ではないが大人になるまで気づかないことがある。
○ 自閉症といわれる症状から広がる一連の障害。
○ 生まれつき脳機能の不全が原因。
○ 薬や手術で治すことはできない。
○ 本人の努力と共に、周囲の理解と適切な関りが必要。
○ 他人とのコミュニケーションがとれない。
○ 心身症、対人恐怖症、気分障害、(うつ症状)、摂食障害、睡眠障害などの病気が二次障害として表れる。
○ 遺伝子による遺伝的要因と化学物質などによる環境的要因によって、脳に障害が起こって生まれてくる。
○ その他
以上ですがアスペルガー症候群を「治す」ことしできる治療法というものは、今のところありません。そもそも「治る、治らない」という考え方が当てはまらないといえます。ただし、心身症や気分障害(うつ病)睡眠障害といった二次障害にたいしては薬物治療なとどが有効な場合もあるので、専門医の診察を進めるとよいでしょう。との専門医の見解でした。       以上
posted by 弘心 at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

発達障害問題について


○氏の日常的挙動から、約一年間客観的に観察を致しました。その経過から
一つの判断を致しました。
日常的行動と精神的傾向については、次のようなことが分かりました。
・自分中心で自分のことしか頭にない。
・相手のことを考えられない。
・全体を見ようとはしない。
・教えたことは頭に入らない。
・人の話には入らない
・目を合わせない
・覚書などの文章全体の内容が理解できない
・自分に関係あるところだけに目を向ける
・相手との対話など相手の了解なく録音する
・被害者意識が強い
・全体をみることが出来ない
・人の話を聞こうとはしない
・同じ話や言葉を何度も繰り返す
・話の流れを無視する
・空気が読めない
・周囲とうまくかかわれない
・こだわりが強い
・その他

以上のことを知人の専門医に相談をしたところ、次のような判断を下されました。
「発達障害の一つアスペルガー症候群」ではないか。
この視点から○氏を観察したところ、理解することが出来ました。




posted by 弘心 at 13:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする