2025年04月20日

生きるとは



山岡鉄舟の志を継いだ高弟小倉鐡樹が「一九会道場を創られました。
私は、若い時、その一九会道場で、彼の高弟日野鐡叟について修行しました。日野鐵叟先生には、藤平光一先生も習われました。
其の修行たるは、神道十三派のうち、井上正兼先生の禊教と禅宗をミックスした修業で、心の垢をそぎおとすもの、ともいわれています。
麦八分、米二分のご飯に白湯、たくあんのしっぽです。それで一種間修行です。
昼ごはんの時、日野鐡叟先生が静かに言われました。『麦一粒とも粗末になりませぬぞ…、この前に出てくるまでどれ位の人の努力かありましたか…それだけではなく、この割りばしも、茶碗も、お茶も…、全て人のおかげなのです、自分が独り生きている、などと言うことは出来ません。さらに、お天道様はその光を分け隔てなく降り注いでくれます。善人悪人石や木、犬やネズミにも…。
即ち、自分が生きているのではなく、自分はいかされているのです。
そうした万有を愛護し万物を育成する天地の心を、深く感じることです。
そして、その恩を少しでも何かで返していくことが、生かさせて生きて行くことの眼目なのです…と。

舞鶴から心身統一合氣道の修練生一名が一九会道場で初学の修行を終えました。
彼がこの先どのように変わっていくのか見守りたいと思っています。

東洋哲学者・陽明学者安岡正篤先生からは、人間としての生き方を学びました。
人を創る、組織を創る、国を創るための精神的・原理であります「四維」の実践です。即ち、「礼・義・廉・恥」です。
更に、人、組織、国を滅ぼすのは、「四患」即ち「偽・私・放・奢」です。この説明は長くなりますので、宜しければ、ブログ、HPを見て頂ければ幸甚です。

人の為に無私の想いで尽くす、四無量心に生きる。これこそが、今私たちが心しなければならない第一義なのです。
話は変わりますが、台湾で日本の教師が命がけで教育として伝えたもの「道義」なので。
これが台湾の方々の中に、脈脈と伝えられているからこそ、台湾を愛するのです。
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2025年03月27日

植芝盛平が藤平光一(敬称略)に伝えたこと


1974年に「合気ニュース」を創刊された編集長のスタンレーブラニン氏(合気道史家)が語る藤平光一先生の実像。

藤平光一先生との出会いとともに1997年まで藤平光一宗主と7回の会見が行なわれました。その中でのトピックスとしてのニュースは「藤平先生はそれまで武道関係の雑誌のインタビューに応じなかった理由として、「私が昔のことをしゃべったら、彼ら(植芝盛平の弟子たち)がダメになってしまうだろうと思ったから(合気ニュース110号)」と言われています。つまり、植芝盛平翁を神秘化したり超能力者にまつりあげている弟子たちにとって、盛平翁の強かったのは彼が完全にリラックスしていたからだという事実が明らかにされてしまっては……困るわけです。「しかし、本当のことを残しておかなければなりません」ということで『合気ニュースの一連の会見の実現となったのだといわれています。何故、植芝盛平は強いといわれるようになったのか…当時合氣会総師範部長であった藤平光一師範は、「それは完全に力を抜く、即ち、リラックスを会得されていたからなのです」と見抜かれていました。決して神秘的ではなく、当然の結果なのです。既に極意を会得されていた藤平光一師範(合氣道十段位)は、1960年代後半から70年代にかけて藤平先生の海外での活躍には素晴らしいものがあります。事実、当時の私たちにとり、植芝盛平先生は壁に貼ってある写真の人、神秘的な存在でしかありませんでした。しかし、藤平先生は実際に腕をとって投げおしえてくださる現実の人。具体的に解説を交えて教えてくださる堅実のひと、として人の心に入っていきました。そうした合気道普及での藤平先生の活躍は、残念ながら現在出回っている合気道関係の書物には残されていません。私としては、そういう事実を合氣道史上に残しておきたい、現在の若い人たちに知ってほしいと思ったのです。

私(奥山)は、藤平光一先生(合氣道十段位・心身統一合氣道創始者)に師事して約四十数年になります…。その間、合氣にかんして多くのことを学びました。
当時合気会の総師範部長として国内はもとより、海外二十数か国に合氣道を広められた功績は、偉大なものです。そのことを無視して、さらには合気会のあらゆる書物から名前を消し去ったことは、合氣道界の大きな汚点として残りました。海外の道場から藤平先生の写真を取り外し、海外での指導者である藤平先生の立場を取り上げた行為は、決して許されるものではありません。
当時藤平光一先生から頂いた書簡の中には、その経過について、一部始終書かれていました。私は今、その書簡を読むたびに胸が張り裂ける思いになります。(何時の日かその手紙を公表する時がくると思います)
しかし、如何なることをされようとも「植芝盛平翁を生涯の師」として仰がれた姿は、人として人間としての生き方を示されたものして尊敬以外何物でもありません。

藤平光一先生は、合氣道は「完全に力を抜く…リラックス」ことが一番重要であり極意であると説かれました。中村天風翁の心身統一道と「心が體を動かす」と言う言葉、植芝盛平翁の「合気は愛じゃ、わしの合気は米糠二合持つ力があればできるんじゃ」という言葉、更には山岡鉄舟の一九会での禊修行などで、そのことを会得されました。

武田惣角から植芝盛平そして藤平光一と伝えられた合氣道は、人の氣に合わすのではなく、「天地の氣に合する道」が合氣道である…更には真の合氣道とは何か…、相対世界ではなく、絶対的自己を造り上げること、即ち「争わざるの理」と「自らの人格を造る」ことに在ると喝破されました。

私達は藤平光一先生が創建された「心身統一合氣道」を藤平光一先生から直接学び、先生亡き後は、子息の二代継承者藤平信一会長のもとで世界に広められています。藤平信一会長は、父藤平光一先生に想像を絶する教えのもとに耐え、見事に合氣道の真髄を会得されました。私は二代継承者藤平信一会長を4歳の時から見守って来ました。そしてこれからの合氣道界を牽引されるのは彼以外に無いと断言致します。
会友一同、さらに前進されますことを期待致します。

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2025年02月14日

フジテレビの話題

フジテレビの話題
タレントと女子アナの関係についての問題が一企業の存亡に関わる事件に発展している。
テレビのスイッチを入れると、いずれも専門家と称する人たちが我が意を得たりとばかりに喋っている…。
不思議な光景である。

男女間の問題は、いつの世にも変わりはない。
しかし、物事の真理をしることをしない、いや出来ない人間が多くなった。
問題のフジテレビの経営者は、いずれも高齢者であるが素養がない。
佐藤一斎の「言志四録」の一冊でも読んで居れば、企業経営者してまともな判断が出来たであろう。
欲を言えば安岡正篤先生の「『人間』としての生き方」を知れば決してこのような事態にはならなかったのではないか。
人間は、知識だけでは駄目である。それを「見識(智慧)」にして、実行する「胆識」さらには、「節操」を揺るがない自らのものとしなければなりません。
日本には、「品格」「人格」という言葉はないのか。

今、日本人に欠けているのは、この一点につきる。

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2025年01月10日

たそがれ清兵衛

たそがれ清兵衛
 藤沢周平原作を映画化。山田洋次監督の作品。
監督  山田洋次
    朝間義隆
撮影  長沼六男
音楽  富田勲
出演 真田広之(井口清兵衛)、宮沢りえ(飯沼朋江)、小林捻侍(久坂長兵衛),
田中 泯(余呉善右衛門)
本作は、第76回(2004年)アカデミー賞(外国映画賞)にノミネートされました。
素晴らしい時代劇でした。特に、殺陣の場面がリアルに描かれていて、実際にはこのようなことになるのでは…と思わせるものでした。他の時代劇のように20人ほどの切られ役が自分から飛び込んでいるようなものではない。
又、出演者すべてが庄内弁を話していて、その発音も自然なものである。
江戸時代の最後(幕末)を表すような場面も見ていてよくわかる。
最後の場面、井口清右ヱ門が反逆者をうつことを藩命として受け入れて、余呉善右衛門との対決は、目をみはるものがある。余呉善右衛門を演じた田中 泯氏は舞踏家である。
その彼が死を意識しての決闘の場面に、舞踏家として死の表現を全身の動きに表していることに圧倒された。世界的有名な舞踏家田中 泯氏はこの作品で俳優デビューを果たした。
剣を極めた者同士が闘うということは、実際はこのような形になることを…ぎりぎりの形まで、表現した時代劇だと思う。
特に井口清兵衛の心の中にある「生きるとはいかなるものか」との思いが全身に表しての演技は心うつものがあった。権力も金も身分も、しきたりも、人間の生きていく上には本来は不必要。人として、人間として、いかに自然との営みに応じて生きていくことが出来るか、他の人の幸せのために自分の為すべきは何なのか、このことが一番大切なものであると…。
私がふるさとも何もかも棄てて、限界集落と云われるところに一人来た…。そして古い民家を潰して、小さな庵を建てて、山と畑を相手に自然と共に生きる決意をした…。
何故かこの映画の主人公に心惹かれるものがある…。
そして今、新たな多くの心友を得て、大切なものを手に入れた…。
生かされている意味を…。
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2024年12月12日

道場

道 場
 心身統一合氣道会弘心館道場に規約が存在する。
その主なものとして、「争わざるの理」を理念とし「人格の涵養を図ること」が目的としている。そして「四維」遵守して、「四患」は決しておこなってはならない、としている。
このことは、武道(心身統一合氣道他)には、「『人間』としての生き方」を学ぶことにあるからであります。
振り返りますと、私は75年にわたって合氣道なるものの真髄と、物事の真理を求めてきた。
父奥山喜峰、植芝盛平翁、中村天風、日野撤叟、藤平光一、安岡正篤(敬称略)その他多くの先達から学ばせて頂いた。感謝以外なにものでもない。
しかし、小生の未熟さから、過去弘心館道場において、導き得なかった者がいる。残念である。
一人は、性格異常と言わざるをえない者でした。道場に来られている女性会員に今でいうセクハラ行為をしたのである。何故かすぐに辞めていく人が増えだしたのです。被害にあった人に話を聞くと、聞くに堪えないものでした。
破門としました。
もう一人は、発達障害(アスペルガー症候群)であることが発覚しました。
自分のことしか頭にない、話す言葉の内容が理解できない、目を合わさない、話している言葉の行間にあるものを読み取ることが出来ない…など。その為に、人としての守るべき筋道が理解できない為、非常識な行動に出る…他。
専門医の話では、この病気は脳のある部分に障害があり。薬や心の問題では治療できないということでした。
そのことに長年気付かなかった自分自身に荒まじい怒りを感じました。
除籍処分としました。
いずれにしても教える者、学ぶ者は、「啐啄同機」を心中にもつと共に、「教学相長ず」を共感することが重要であります。





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2024年12月07日

体技講習会の開催

2025年から心身統一合氣道会弘心館道場は、一般の修練日以外に体技講習を実施します。
他の道場・教室の皆さんも、奮ってご参加下さい。お待ちしております。
6か月間の日時・内容を表示いたします。

日時・内容    2025年
          1/18(土)  第1体技・第11体技(方手取り)
          2/15(土)  第2体技・第12体技(片手取り両手持ち) 
          3/15(土)  第3体技・第13体技(横面打ち)
          4/49(土) 第4体技・第14体技(両肩取り・肩取り)
          5/17(土)  第5体技・第15体技(子供・中学生)
          6/21(土)  第6体技・第18体技(後ろ技)

修練時間      15:45〜17:00

講師        奥山弘邇師範

参加資格     心身統一合氣道会会員
         他の道場からの参加は、当該道場教室責任者の許可を得て
ください。
受講料      弘心館道場会員は、受講証1枚
         他の参加者は、2000円   
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2024年11月05日

令和六年度台湾台北教室への指導について(報告)


京都府舞鶴市字久田美1618番地
心身統一合氣道会弘心館道場
師範 奥 山 弘 邇

令和六年度台湾台北教室への指導について(報告)

標記の件、台湾への心身統一合氣道の指導は2009年から今回で23回を迎えました。今回の指導経過につきまして報告します。
                   記
日  時    令和6年10月18日(金)〜21日(月)まで。
場  所    中国文化大學 武道場・民生釈社区活動中心・武少林台北道場
目  的    ○原点に戻っての基本的項目について。
○心身統一合氣道指導(初心者向け・初段・二段・三段の体技)
○心身統一道の指導
        台北教室会員の家族との交流・台湾合氣道会との交流その他。
経 過
今回の台湾への目的は、原点に戻って「氣とは何か。心とは何か。心が身体を動かすとは如何なることか。心身統一道とは何か。心身統一の四大原則とは。心身統一合氣道とは何か。心身統一合氣道の五原則とは。操体感覚20項目について
説明。特に理念は「争わざるの理」、目的は「人格の涵養を図る」について説明。
解説表武を通じて伝えました。

第一日、中国文化大學において修練実施。
第二日、武少林台北道場において修練実施
第三日、民生釈社区活動中心において修練実施
参加者総数……約150名



特に藤平光一先生が生涯の師として仰がれた植芝盛平翁。私が盛平翁から学んだ技を、私が142cmに身をかがめて190cm、体重120kgを相手にして一瞬に崩したとき、この技は、藤平光一先生の技と同じなのです。則ち、力を完全に抜くとできるのです、と言いますと大きなどよめきがありました。
それ以降は、参加者の観る目が違いました。
私は台湾での指導は、如何なる人も排除は致しません。すべて来るを拒まず、といたしております。
そして、物事には真理がある、との言葉通り真理が示すものには全ての人の心を引き付けます。台湾の合気道を学んでおられます方々、熟考の上私のもとに参加されますのはそれ所以であります。
最後に参加されました人からメッセージが届きました。その内容は次の通りです。
「先生 昨日の稽古で色々刺激を受けて、大変勉強になりました。今回の講習を受けて、心は行動に影響を与えることを実感し、貴重な経験をいたしました。
また、心とは何か? 合氣道とは何か? 新しい視野で考えさせることが出来ました。本当にありがとうございます。これからも探究と修練を続け、次回会う時少しでも成長が出来るよう頑張ります。 呉」
この言葉で今回の湾台北教室の指導は成功裏に終ることが出来たと確信を得ました。
そして台北教室の会員の皆さんには、ワンゼネレーション30年先を観て活動をして下さい、と伝えております。
これを持ちまして報告とさせて頂きます。

以上

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2024年08月21日

令和六年度高野山夏季合宿について


標記の件、8月17〜18日実施いたしました。
心身統一合氣道会弘心館道場開設記念夏季合宿は、宿坊は天徳院。修練は高野山大学武道場にて実施いたしました。
参加者は、台湾台北教室が五名、弘心館道場から十一名。
夏季合宿はコロナ禍におきまして五年間実施することが出来ませんでしたが今年も弘法大師空海の根本中堂の地において実施できましたこと大変意義がありました。
修練にあたり誦句集を唱和、そして「心とは何か」「心は何処にあるのか」空海の言葉「悟りも真理も全ては自らの心の中にある(般若心経秘鍵)」「心の曇りを取り,ものを正しく見る(弁顕密二教論)」「善行が心を清くする(性霊集)」などを講話。
修練は「操体感覚について」から始まり、規定体技の基本技・通常技を六時間実施いたしました。
最後に弘心館道場の理念は争わざるの理、目的は、自らの人格の涵養を図ることを確認させて頂き、大変有意義なうちに無事おわることができました。
又、奥之院(弘法大師御廟)への参拝、空海入定の地を肌で感じ、空海とともにすごした二日間、参加者の皆さんには心から感謝の意を申し上げるとともに、天徳院、高野山大学の関係者の皆さんに心から感謝とお礼の言葉を申し上げ帰途につきました。
その後、参加者の皆さんから、心身統一合氣道の修練の意味、自らの生き方がはっきりしました、との感想を頂き、感無量な想いをいたしました。

以上
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2024年08月16日

我が熱血時代



山岳道路ほか50路線、橋梁の架け替え20橋梁、都市公園の整備、都市緑地、児童公園、近隣公園等の整備、河川改修、公園墓地整備、都市計画道路、同和地区整備、商店街再開発、放置自転車対策と整備計画の策定、全国で初めての機械式駐輪場の計画と実施、国鉄南地区都市再開発事業の基本構想・基本計画・実施計画と事業実施、阪急電鉄高槻市駅前再開発事業計画・実施、阪急電鉄立体交差事業計画と実施、摂津峡公園整備計画・整備事業、最終処分場整備計画と実施、前島焼却場新設事業、総合センター新設事業計画と実施、地域防災計画の策定……。
高槻市長から招聘されて奉職、在職38年間、数え上げればきりがないほどの事業を手掛けてきた。
そして38年間で出会った人は、4721人。その中で多くのことを学んできた。
高槻市には何の地縁血縁もない者が多くの仕事が出来たのは、素晴らしい人達との出会いであった

シビル・エンジニアとしての自負は、学生時代に多くの専門知識を身に着けたことである。
都市計画・地域計画としての都市工学、道路工学、河川工学、港湾工学、材料工学、橋梁工学、応用力学、水理工学、土木施工、公園工学、鉄道工学、隧道工学、測量工学、機械一般、建築一般、電気一般…など今思い出しても懐かしい。
そして大阪と京都の中間に位置した高槻市は地の理から人口急増都市として全国でも珍しい急成長を遂げる。

昭和30年代、まだ戦後処理が残存…、新しいまちづくりが始まったのである。
私が一最初に手掛けた事業は、摂津峡耶馬渓公園と府道を結ぶ山岳道路であった。
この山岳道路の事業のためには、最初に国土地理院の二千分の一の図面で現地踏査をおこなう、そして次にペーパーロケーションをして、概略平面哃をつくる。次に実施測量にはいる。トランシット、レベルを用いてトラバース測量。次にトラバース測量が完了したら、誤差論をもちいてトラバース(骨格)を閉合をさせる…これが一苦労なのである。今のようにPCも電卓もない時代、計算尺と手回し機械計算機を用いる…これがまた大変な作業でした。いまでは一瞬にしてできます。これが丸一日かけてしかも近似値しかでないのです。
又、測量機械そのものも扱いが大変でした、特にYレベルは絶えず調整が必要なのです…。
そして継ぎにオフセット(平板)測量です。平板にケント紙をピンでとめて汚れないよう氣をつけて行うのです。その作業は通常三人は必要ですが二人でするのです。
出来上がった図面は硫酸紙でトレースして青焼き図面をつくります。
その図面に計画線を入れて、次に縦断図・横断図の為に縦断測量と横断測量を実施。
つぎに道路構造令に従い、幅員、縦断計画と切土盛土のバランスを考えて、全体設計を行います。
計画平面図・計画縦断図、横断面図・構造物詳細図、土量計算書、代価表、内訳書、設計内訳書…。これで実施設計の出来上がりです。
次に、仕様書の作成。決済書類として稟議。
決済が済めば、業者の選択、通知して入札を実施。
工事着工となります。現場管理を行い、工事写真を撮る。完成すれば竣工検査実施。問題がなければ事業完了となります。

このような事業を年間50件もするのです。積算は全て積み上げて代価表を作るのです。土工は当時一日当たり、314円でした。歩掛は手づくりです。
諸経費、一般管理費などは、国が定めた基準に従います。
このようにして、全ての設計作業は市の技術職員が行いました。
今は、測量は測量専門業者に委託。設計は設計コンサルタントに委託、現場管理も業者委託…
何にために市に技術職員が存在するのか…。

私は橋梁が専門でした。橋を設計するのは大変夢がありました。
学生時代には、木橋から始まり、RC喬、ラーメン、合成桁、プレストレストコンクリート喬、Tセクションポストテンション方式橋梁、トラス喬…など数多くの橋梁を設計してきました。これが大変役立ちました。
高槻市で橋長25メートルの橋ですが全国で初めてという橋を設計しました。
中空穴あきホローポストテンショニング方式の橋梁です。一等橋で桁高さ80cmです。非常にシンプルな橋でした。
当時大阪府に軌道橋梁係がありました。その係長が京大出身で橋梁が専門でした。話が合い楽しい仕事でした…。

昭和46年に都市計画法が改正、「新都市家計画法」として発布された。これはいままでとは大きく変わりました。旧都市計画法は、全て国の主導でものごとが決まるような内容でしたが、新都市計画法は、国民が主役となる内容で国民との合意形成が必要とされたのです。
それとともに、面的な街づくりはイギリスの法律を参考にして「都市再開発法」が施行されました。
高槻市は国鉄南地区市街地再開発事業として基本構想・基本計画・実施計画に踏み出しました。
この事業は工事費約400億。キイテナントの誘致など難問に挑むことになる…。その過程で大蔵省元銀行局長の大月 高氏、町村自治大臣、佐藤栄作総理大臣の子息佐藤竜太郎氏、アジア開発の半田氏、鹿島建設三苫常務氏、キイテナント誘致に高槻市長が土座してお願いした岸信介氏と巣鴨プリズンで同房であった松本啓次郎氏…その他多くの人との出会いが私のその後を大きく変えていきました…。その中でも田中角栄氏との出会いは、私には一番の思い出であります。

つづく
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2024年08月11日

昭和歌謡の魅力

私が昭和時代の昭和歌謡曲に惹かれていったのは、詩が素晴らしく感じたからです。
西条八十、石本美由紀、星野哲郎、秋元康、筒美京平、サトウハチロウ、阿久悠…などの作詞家の詩は言葉を非常に大切にしていた…。

たった一行の詩を何日もかかって書き表す…など、まさに心血を注いだ言葉です。
それが作曲家と共有され、名曲が生まれていったのです。

特に好きなのは、岡本敦郎さんの「白い花の咲く頃」です。
作詞寺尾智沙、作曲田村しげる。


白い花が咲いていた
ふるさとの 遠い夢の日
さよならと言ったら
黙ってうつむいていたおさげ髪
悲しかったあのときの
あの白い花だよ


歌っていると何か心に変化がおこる…。
「柿の木坂の家」「上海帰りのリル」「男のブルース」…などの詩は心打たれます。


その後、ハワイアンバンドを結成。名前は「エオノ・レイ ハワイアンズ」六つの花輪の意味。スチールギター、ベース、サイドギター2、ウクレレ2の六人。私はウクレレとボーカル。200曲(ハワイアンメロディ以外に、タンゴ、ワルツ、ブルース、歌謡曲など)のリバートリをひっさげて、12月には松下精工のホールで、関西グリークラブと共演など…。これも懐かしい思いでです。
posted by 弘心 at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする