2007年06月06日

心を鍛える

王陽明が生きた時代に行われた心を鍛える法とは如何なるものであろうか。存在したことは事実である。しかし、今その方法を再現する事は不可能と言われている。

そこで比較的近い年代に行われた方法について、林明大氏の著より引用をさせて頂く。

「ここでは、帰寂派(きじゃくは)の劉宋周(念台)(りゅうそうしゅう)の静坐法と、ルドルフ・シュタイナーの教育学を実践するシュタイナー学校で、実際に教師の育成のためにさいようされている瞑想方法を紹介してみよう

劉宋周は、「人譜」の中で、次のような具体的方法を述べている。
ひとくゆりの香と一鉢の水を塵一つ無い机に置き、座布団を下に敷く。
夜明けごろに身をおごそかに保って座につき、足を組み手をそろえ、静かに呼吸して姿勢を正す。……突然煩悩がおこれば、すぐさま吹き消してまた心を保持する。
また煩悩が起きれば、すぐさま吹き消す。
これをいくども繰り返し、油断せず、無理をせず、効果を期待してはならない。

また、慎独説(しんどくせつ)の中で次のように述べている。
静坐中は一切何事もないから、無事のままにまかせる。そうなればまた心は無心になる。この無心こそ本心である。
そのとき一念にわかに起こればこれを放置し、その一念が滞れば掃除して、心が常に明確であるようになればよい。
この工夫は、禅の修行と異なって、眼を閉じず、耳を覆わず、趺跏せず、数息せず、考案によらず、ただ普通の日常の生活の中にあるようにする。
だから静坐していても、飽きるときがあれば起つし、感じるときがあれば、行動する。
四六時中、静観する。宋の程明道は、「忘れないことと、助長しないことの中間が正しいあり方で、そのときの工夫は自然にしたがって少しも人力を用いない」と言っているが、これが真実を伝えている。「劉念台文集」」

ルドルフ・シュタイナーの瞑想法
以下、ルドルフ・シュタイナー「教育の根底を支える精神的心意的な諸力」(人智学出版社)を中心に説明を試みた。
陽明学では、「誠」を重んずる。佐藤一斎の「言志耋」百六条に、
「みずから欺かず。これを天に事える(つかえる)という」と言う言葉がある。
人に対してではなく、なによりも自分自身を欺かない。至誠を尽くす。これを天に仕えるという、と云う内容である。
至誠とは、自分自身に嘘をつかないこと。この陽明学でいう「誠」の意味をかみしめて、次の話を聞いていただきたい。
また、シュタイナーは瞑想「メディテーション」とは、「忍耐と内的心的エネルギーを必要とするものだ」と述べている。
そして、次のようにも述べている。
自分自身に何かを約束し、それを守り通すことができるということが、瞑想を成り立たせる条件の一つである。
ひとたび人間が瞑想を始めますと、その人は、それによって人間の生に於けるただ一つの本当に完全な自由な行為を行っているのです。
……私たちはこれを、いつでも中止することができます。……瞑想行為というものは根源的に自由な行為なのです。
それにもかからわず、私たちが自分自身に対して誠実さをまもることができ、私たちが誠実に瞑想を続けることを他人にではなく自分自身に約束するならば、それは(つまり自分自身に対して誠実を守り得るというとは)心の中に巨大な力の存在を意味します。(「教育の根底を支える精神的な諸力」R・シュタイナー新田義之・人智学出版社)
とも述べている。つづく
posted by 弘心 at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月05日

晩春

ホトトギスが、トッキョキョカキョク、と鳴き、ほほじろが、一筆啓上つかまつり…、と鳴き、カケスが、ギャーギャー、と早朝から鳴き出した。
その合間をぬって、モリアオガエルが、カタカタ…と鳴いている。

トンビがくるりと輪を書いて、水田の畔にいる蛙を浚っていく…。
今年は、敷地内の湧き水路からの源氏蛍は、気温が低い為かまだ乱舞は見られない。

備中で土を耕す。ミミズが土の上に這い出てくる。多分、大地に打ち込んだ
備中の震動が、天敵であるモグラと感じて、急いで地表に出るのであろう。
モグラは、太陽の光に弱く、滅多に地表には出ないことを知っているのかもしれない。

水不足で植えた苗が枯れているのを補充する。今年は沢山の種類の野菜を植えた。楽しみだ。

ノビルが一斉に花をつけている。鬼アザミも…。カラスのエンドウは、実を黒くして枯れ出した。水蕗が大きくなっている。食するだけ採ってアゲと豚肉で炊く。美味である。

サニーレタスが葉振りが大きくなっている。これも又、朝取りにしていただく。昨年に11月に種を蒔いたのが丁度今、食べごろに育っている。

大きくなったグミの木が、ほんの僅かな実をつけている…。ヒヨドリの餌となりそう。

茗荷が葉を大きくし出した。今年も収穫が出来そう。
ジャガイモも花をつけだした。栄養分を根にもどす為に、花を摘む。

青紫蘇の苗を植える。
猪のご来場をお断わりする為に、電気柵とネットの準備をする。

自然との共生は、自然に対する畏敬の念から始まる。そして、自然と一体になることである。あるがままに受け入れ、あるがままに振舞う。
そこには、対峙はない。

自らと、自分と対物との関係ではなく、そのものが自分であるという感覚に浸る。すなわち、万物との一体である。ゲーテの世界観でもある。

「われわれの外にあるものて、同時にわれわれの中にないようなものはない
のだ。そして外部の世界がその色彩をもっているように、目もやはりその色彩をもっている。「ゲーテとの対話」」ゲーテの一元論である。

客体の中、ものの中に入り込んでいく、対象と一体になってみる、そうすると、対象そのものが私の中で内部で語り始める、と言う事である。
理を外の世界に求めるのではなく、理をわが心に求めると陽明学ではいう。

理(本質)は心に備わっている。「心即理」と陽明学ではいう、理(本質)とは、事物が心に発現したものなのである「現象即本質」と言う立場が、ゲーテの立場である。「人間と自然とが一体になり、自然を捉えていく方法」
という言い方も出来る。

一体にならなければ、その客体を感じられない。ただ視覚だけで、知的に理解するという作業で終ってしまう。すなわち、ゲーテの場合は、唯心的一元論である。形や現象に、そのまま本質つまり意味が現われている、とゲーテはいう。

私の合氣道は、相手と対峙しない。投げようとも、倒そうとも思わない。
ただ、相手をあるがままに受け入れ、そして一体となることである。

自らの内部に存在する宇宙の中心軸に共に華昇させていく、そして、地軸に還していくだけである。我舞えば、天地舞う、のである。

今まさに、自然を感じる時である。
posted by 弘心 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする