2007年08月25日

田舎の一日余話

ちょっと油断すると、誤字脱字が出てくる。「暑い」を「厚い」、「袁了凡と啄録」を「‥‥の‥‥」など、訂正と共にご容赦ください。

淡々と書いてしまったことに、氣がついた。少し補足させて頂きます。

簡単に洗濯と書いたが、洗濯物の量と洗剤の量、入れ方、干し方、
畳み方‥、むつかしい。
食事の用意、これもオカズの作り方、電子レンジの使い方、ご飯の炊き方、これもむつかしい。

特に、食べた後の食器の洗い方。油のついてもの、ついていないものとの分けて洗う。

如何に洗剤を使わないかに氣を使うこと‥など、男は生きていくことの最低限の必要なものの技術?が身についていない。
さらには、掃除の仕方‥なども。

難しいものである。その意味で、女性は凄い!。
会社などで働くことが優先される今の世にあって、実は、女性のこの役割が一番重要である。

さて、仕事のことであるが、高槻と舞鶴は、高槻のPCに入った情報は、すべて舞鶴のPCに転送されてくる。
したがって、法人の仕事は舞鶴で処理する。

そのために、舞鶴の家には、NPO法人都市問題総合研究所「農村と都市交流センター・弘心塾」との看板が掲げられている。

舞鶴をおよそ三十年前に仕事上の情報で知った。
特に「環日本海ネットワーク」をもってアジアの国との交流を図っていることに、大いなる関心があった。

私は、福沢諭吉が「脱亜」を主張、又、そのことが時の政府が同調しつつ、アジアの一員でありながら、西欧に擦り寄ってきた。
このことがどうも氣になって仕方がない。

安岡正篤先生は、1960年から70年にかけて日米安保問題で国論が二分した時、自民党の国会議員の中に気骨のある人たちを組織して「素心会」を作り自民党のバックポーンを作っていかれたと云われている。

先生の真意を知ることはできないが、東洋哲学を通じて、人種を超えた考え方の必要性を説かれたものと思う。


今、政界は揺れ動いている。国政を担う者の品格について、さらには今年の11月に切れる「テロ‥‥法」。今、安岡先生が生きておられれば、どのような想いを述べられるであろうか。

話が脱線しましたが、二十一世紀は、アジアが中心になる、と四十年前から意識していた。

今、確かに経済は、韓国から中国そして東南アジア諸国へと広がっている。私の感は間違っていなかった。

私の専門性を活かしてのまちづくり、村おこしの提言、高槻市と舞鶴市との交流、市民、議会人との交流、講演会など、様々な交流に使われている。
そのように考えての田舎暮らしであるから、迷いはない。

そして、舞鶴の地に、合氣武道を陽明学の知行合一の思想をもって、広めていきたい!
さらには、村おこし計画を地域、行政を巻き込んで進めていくことが当面の課題である。
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2007年08月24日

田舎の一日

今年の夏は、大変厚い!、いや熱い!。
史上はじめて40,9度という記録。
舞鶴も暑い。大阪より二度ちがう。夏は暑く、冬寒い。
しかし、太陽が沈むと、山側の谷筋から冷風が家の中に入る‥。

星空は、素晴らしい!満点の星空。大阪では見られない。
夜には、人通りがない。そらそうであろう、猪が歩いているくらいだから‥。

今、クツワムシ、コオロギが鳴き出している。これから、マツムシ、鈴虫、馬追い虫が鳴き出す。

朝は、五時半ごろには眼が覚める。別に早く起きようとは思っていない。自然体である。

各部屋の窓を開ける。道場に座礼をして、統一法、氣の呼吸法を各々10分おこなう。

洗濯をする。その間に畑仕事、畝の設え、草を引いた分土が落ちる、その修復である。そして、別の場所で草、枯葉で作った腐葉土を畝に
盛る。

序に万願寺甘唐辛子、胡瓜、茄子などを収穫。
食事のオカズにする。

シャワーを浴びて、食事の用意。これが時間をとる。
大体、朝食は摂らない。これは午前中は、体内のものを外に出す時間帯と思っているからである。

食事は11時半ごろになる。昼食と兼用である。

午後は、合氣道の修練のある場合は、午後6時までは道場である。
その後、1、2時間のティータイムがある。意見、悩み、様々な意見交換の場でもある。

その後は、時間があれば、本を読む。
今から380年ほど前に書かれた「袁了凡(えんりょうぼん)」の「陰隲録(いんしつろく)」。

安岡正篤先生の言葉に今も鮮明に残っているものがあります。
「人間の道において、いかに善を為すかということよりも、いかに善であるかということの方が本質的である。善を為すのは良いことには相違ないが、往々為にする所の手段に堕し易く、それでは道業とは言い難い。善を為すことによりも、自己に実在を善にすることが根本である。」

こうして一日が閉じる。
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2007年08月23日

学ぶこと

この世に生まれ出て、人は様々な体験経験を積んで行く。
その中でも、人との出会いが、その人を育てていく‥。

以前にも書いた覚えがあるが、「まなぶ」ということは、「まねぶ」から変化してもの。即ち、真似をすることを通じて、心と體に刷り込んでいく‥のである。

古代ギリシャでは、自分が知りたいと思うと、そのことの先達を求めて、幾ら遠くても歩き尋ねて行き、教えを乞う。
その期間は、何年も住まいを共にさせてもらって、口伝を受ける。

書いたものが無いため、先達の「くせ」「しゃべりかた」総てを真似るのである。先達の総てをそっくり自分の中に入れてしまえば、学んだことと同じである。

そして、又、違う先達を求めて、旅に出る‥。一生、探求の旅、すなわち、行き止まりの無い旅をするのである。

学者が書斎に閉じこもって、学究をするようになったのは、近世に入ってからでそう古くはないと云われている。

書物だけを読んで、或いは、今の時代に即したIT機器を媒体にして、知識を得ることとは、又、違った意味がある。
左脳だけでの知識取得は、心が涵養されない。

それと異なり、人と人との関係において、なされる行為には、心と體の両面からの刷り込みが伴う。知識はもとより、教える側の「氣」を受けて、五感が養われるのである。

温かみのある、人情味のある、優しさのある、相手を思う、慈しみがある‥、これらは、人から学んでいるのである。

「さい啄同機(さいたくどうき)」と言う言葉がある。
安岡先生がよく使われた言葉である。
すなわち、雛鳥が生まれてくる時、卵の殻を破ろうとして中からつつく。
内側と外側の力が相まって殻が割れて、雛鳥が生まれる。この絶妙のタイミングで合致する事を、「さい啄同機」というのである。

筑波大学の村上名誉教授が、「サムシング・クレード」という概念を述べられてから、この言葉が広がっている。

天は、私たち独りひとりを、実によく観察されていて、機(氣)が満ちて来れば、啄同機的なことが生じて、新しい気づきがもたらされるのだと思う(神渡良平氏談から抜粋)。

私は、ここに、サムシング・グレードの働きがあるのではないか、と
思っている。

私の合氣武道は、そこに原点がある。
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2007年08月21日

継承

昨日、舞鶴から戻ると一通の手紙が届いていた。
栃木県に本部を置く任意団体「心身統一合氣道会」からである。

内容は、平成19年7月吉日づけで、心身統一合氣道宗主藤平光一から心身統一合氣道の継承者として、息子の藤平信一氏を指名するにあたっての挨拶状であった。

藤平宗主が病床にあり、最早会員の前には出られない体調なのであろう。
脊椎を傷められて、車椅子生活になられて随分ながくなる。
この病がなかったら、日本の合氣道は、もっと進化したに違いない。

確か信一君が、四歳の時に、関西地区本部の指導者セミナーがあつたとき、急に病気になり、三人が私の家に泊まられ、休日にも関わらず、私の主治医であった大熊医院の大熊先生に診てもらったことがあつた。

静脈注射のとき、その一点をじっと見詰められていたいたのが印象的でした。後で聞くと「氣」をおくっておられたとのこと。

後に正妻となられた方は、その時、「こわい!」と言われて、診察室の外に出られたこともまた、懐かしい思い出である。
今想うと、藤平宗主は、当時、六十代前半であったと思う。

今後は、国の指導により、財団法人氣の研究会から分離して、社団法人としての法人格を取得するという。

一般的には、社会の荒波にもまれて、様々な人達と仕事を行い、組織人としての常識をまず身につける。そして、自らの知識を高めつつ、知恵として活用していく…。

その中で自らの人格が磨かれていくのである。

残念ながら、今の財団法人氣の研究会には、何かが欠けている。組織人としての人が育ついないことと、人格者が存在しないのである。

それが証拠に、人格を高めることを主たる目的とした団体でありながら、職員が失踪している。こんなことは普通の組織では考えられない。
宗主以外の指導者の人格の欠如がそうさせるのであろう。

一般社会の社会関係の経験が浅いまま、あるいは無いままに、若くして、合氣道を教えて、先生、先生と呼ばれている内に、何か偉くなったような錯覚に陥るのである。「井の中の蛙、大海を知らず」になっていく。

以前にそのことで、藤平宗主に苦言を呈した事があった。宗主は、直ぐに対処された。流石である。

新しい組織づくりに邁進して頂きたい。
あえて苦言を呈した次第。
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共に生きる

人間と言う字は、ひととあいだ、と書く。
すなわち、相対する人が存在する。1人では生きていくことができないことを、あらわしている。

そうであろうか。
人それぞれの顔が違うように、考え方も生き方も異なる。
最近、熟年離婚と言う言葉がマスコミを賑わしている。

実際、離婚は増えているらしい。
年金問題も二分の一が妻のものになる、という現実的要素もそれに加担しているという。

環境問題から派生した「環境ホルモン」のせいで、男子の精子の数が著しく減少していて、子供ができない、傾向にあるという、

すなわち、男が中性化し雄たけびをあげるような、男が減少。そのことも一因して、女性から見限られる男性が増え出した。

その裏返しとして、DVが密かに潜行していることも、又、その一因といわれている。

新渡戸稲造が書いた「武士道」の時代の男と女は、存在しないのかも知れない。
男は、「先が見えないことに、わくわくする」女は、「先が見えることで、満足する」生き物であると、女性の有名な脚本家の言葉である。
女史が言うように、男と女は根本的に違う生き物なのである。

時代とともに、男女の考え方も変化していくのであろう。
ナポレオンの妻は、もの凄く嫉妬心の強い我儘な女性であったと。夏目漱石の家内もそうであったと言われている。
両者は、それに耐えて、歴史に残る行いを遂行したのである。

しかし、陽明学者と言われる男性には、妻が辛抱できずに自ら身をひいた、とも言われている。山田方谷の妻もそうであった。あまりにも質素な生活と清貧さに、ついていくことが出来ずに、である。しかし、その志は崇高なものであった。

話はそれた。友人でKという者がいる。彼は、非常に純粋な男で、何時も先を見つめて、何事にも挑戦していくタイプてある。
彼の生い立ちからくる心のさびしさから、比較的早く結婚をした。
二人の間には、三人の子供がいる。しかし、その育て方は根本的に違っていた。
まさに、先が見えないことに、わくわくして挑戦する彼と、何事にも、結果が見えないことには満足しない連れ合いとは、次第に心が遊離していった。

そして、彼は密かに、1人で活きていく為の準備に入っていった。
そのためには、三つの自立が必要であった。
@精神的自立A経済的自立B社会的自立である。
その中でも、男は、精神的自立が必要となる。定年後、田舎に庵を設けて、生活を始めたのである。

一年前に、密かに籍を抜いていた。年老いた両親がいた。その面倒を連れ合いにも負担をかけていた。一年余りのペルソナ夫婦を続けた。

彼は、今年中で、やっと三つの自立を得た。後3年で古希を迎える彼は、実に生き生きとしている。

その彼からの相談は、意中の人との出会いが何年も前にあり、その支えが
彼の生きる原動力であったが、最近、ちょっとした言葉の行き違いから、その人が彼の前から去っていった。後を追うべきか、どうかについてであった。

話によれば、相手にも連れ合いがいた。多分離婚はしてくれないであろう。しかし、飛び出して彼にもとに来れば、諦めてくれる、という。
彼は、彼女に求めたのは、自らの力で相手と対峙して、決別をはっきりさせて欲しかったようである。そのために、言い訳はあまりしなかったのである。
彼の離婚している証拠を確かめないままに、去っていった。
「先がみえることにより、満足する」ことの思い込みが生じた結果であつた。

たった一言で、「心が身体を動かす」ことになってしまったことの結果が、長年かかって積み上げてきたはずのものが、一瞬にして崩壊してしまう。
このことは何故であるのか。

私は、彼に、「これが世の中の実際であり、男と女の関係とは幻想に過ぎないものである」と言った。

「結婚とは、お互いの誤解に始まって、誤解に終るものである」これは言い過ぎであろうか。
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2007年08月20日

出口のない海

終戦記念特別番組としてなのかどうかは知らないが、TVドラマがあった。市川海老蔵が特攻隊として、「回天」に乗って死ぬまでの話である。

日本の戦争のドラマはあまり好きでない。
自らの体験とオーバーラップするからかも知れない。

昭和18年、三歳の時に、大八車に、家財道具を積んで、母と、大阪は北区池田町(現在天神橋五丁目)から、約30キロ離れた高槻まで歩いたのを覚えている。

何時の日だったかは忘れたが、長柄大橋の下に多くの死体が転がっていたのを今も鮮明に覚えている。
又、高槻でも、疎開先で、グラマンに機上掃射を受けて、川に潜って
難を逃れたこともあった。

疎開先は、小高い山の中腹のお寺であった。
大阪に大空襲があり、丁度夜であったために、お寺の裏山から、焼夷弾が落ちるのが鮮明に、不思議と近くに見えた。

白い点が雨のように降り注ぎ、その下では、真っ赤な炎が大きく一面に燃え広がっているのが、手に取るように見えた。

空襲の後、一度大阪へ戻った。
父親が営んでいた大阪の工場は、跡形も無く焼けていた‥‥。

工場の焼け跡には、鉄の柱に動力を伝えるプーリーが一つ焼け残って立っていたのが、今も鮮明に覚えている。

戦争のために、私たち一家を取り巻く状況が大きく変化した。
もし、戦争がなかったら‥‥、又、異なった人生を歩んでいたと想う。

母の苦労もなかった‥。しかし、それが運命と言うものであろう。
幸いにして、そのためにかどうか判らないが、二人の人生の師にめぐり会うことが出来た。

災い転じて福となす、と言えば言い過ぎかもしれないが、良かったと
想うことにしている。

今日のドラマを見ながら、現実はあのようなものではない、もっと
すさましいものである。

空襲警報が鳴ると、灯火管制のため、裸電球に黒い紙で作られた覆いを下におろして、じっと息をひそめる。

地下に掘られた「防空壕」へ「防空頭巾」を被って避難する。
幼心に、死に対する恐怖心が植えつけられた。

疎開先での母の苦労と、子ども心に「まちんど」と言われて、差別を受けたことなど‥‥、思い出したくないことばかりである。

ふと、氣がつくと、そのことが反面教師となって、今の自分があるとプラス思考をしている自分に気付く。

合氣武道を藤平光一宗主に、陽明学を安岡正篤老師に学んだことは、
自らの運命を「立命」とするに大いなる影響を受けた。

今までの人生の在り様を総て肯定することが出来た。
感謝である。






、、
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2007年08月18日

あいえうお 夏の収穫

昨年は、猿たちに盗られて食することが出来なかったものが、今年は出来た。
西瓜も収穫一歩手前で先に食べられ、カボチャも‥。
今年はジャガイモ、サツマイモが被害にあった。

しかし、サツマイモはしぶとく根をつけて、何本かが伸びている。
トマトは何年も駄目でしたが、今年は、覆いを付けた為、赤い実を付けてくれた。
トマトは、乾燥した土地を好み、水が嫌う。

赤いピーマンは駄目でした。
万願寺は、今年も沢山の実をつけて食卓を賑わしてくれた。

大阪上本町にある「シェラトン都ホテル」の3Fにある日本料理の「うえまち」の女将と料理人に、万願寺甘唐辛子・胡瓜・青紫蘇・カボチャ・ハランの採りたてを送った。
勿論、無農薬での栽培のものである。

長野におられる法人会員にも万願寺甘唐辛子、青紫蘇を遅らせていただいた。大好評でした。

更に、「うえまち」には、合氣道の会員が製作した「苔玉(幸玉)」を三個手渡した。
総て「和」に統一した内装と構えに実に良く溶け込み、映え、人工的な光彩の中に、実に見事に自己主張している。

繊細な生き物である「苔」と一体になった山野草木が、織り成す不思議な造形美を醸し出している。長く生きて欲しい。
(この「苔玉(幸来玉)」は、季節限定で、注文販売をされている。市価よりも大変安い)

西瓜は十個、胡瓜、茄子は数多く‥、青紫蘇は背丈が1メートル以上になり、採っても採っても‥、葱も、今年は茗荷も豊作。
天地からの贈り物に感謝で一杯である。

猪や猿、狸、熊などに食べられることが多い、
しかし、彼らも食べるものがないので仕方なくやって来るのであろう。

おすそ分けをしてあげよう、と思って我慢している。
しかし、お猿の残した五個のジャガイモを食した時には、正直不思議な氣になった。

「うえまち」の女将は私の実の妹。卒業後、資生堂に勤めて
接客術を学び、多くの職員を指導してきた実績の上に、今のキャリアがある。親分肌の妹である。
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2007年08月02日

時代の飢餓を満たす‥言葉

あまり政治のことを論じるのは好きではない。しかし、嫌いなのではない。自民党の九年毎のジングスは、今回もその通りとなった。

わが国の歴史からみて、政治・都市づくり等は、イギリスやドイツをお手本としてきた。議院内閣制などはその代表である。しかし、その本質は大きくかけ離れてきた。

特に、四人の大臣が辞任した(辞めさせられた)。
その理由は、「自らの発言(言葉)と金」である。
物事の「本質」を弁えていない、いや、わきまえられない人間性にあるのではないか。

如何に知識が豊富でも、その知識を智慧にする能力がなければ、只の人であろう。その場合の智慧とは、知識を総動員して「物事の本質」を見極めることにある。

さて、悲しい訃報があった。作曲家の阿久悠氏(70歳)が尿管ガンで亡くなった。彼は、昭和の歌謡曲の黄金時代を築いたひとり。
明治大学卒業後、放送作家としてデビュー、昭和42年に初めて作詞したザ・モップスが歌う「朝までまてない」が最初。

彼が作詞した数は、実に六千曲にも及ぶ。そして、ベストテン入りは、511曲。さらに、第一位となった曲は、22曲にも及ぶ。
その曲は、アイドル、演歌、アニメソングまで幅広いジャンルで活躍、まさに、二十世紀最大の作詞家である。

「また会う日まで・たそがれマイラブ・ブルーライトよこはま・津軽海峡冬景色・舟歌・北の宿から‥戦艦ヤマト‥」あげればいとまがない。

ムード歌謡から演歌、少し難しく表現すれば、日本ポップスを表現した偉大なる作詞家であった。

彼の詩は、実に言葉の表現がすばらしい。特に日本の「古い言葉」と
「決めてかかる言葉」の使い方がうまく、日本語に拘り続けた人と言える。
「乙女」「女は無口がいい‥」等はその典型的であろう。

しかし、彼の本心は、「日本の歌には、美空ひばりの歩む本道以外には無いのであろうか」、と言うことが同い年の彼として何時も頭にあった。そして、美空ひばりが決して歌わない歌を作りだし、成功した。

私は、大橋純子の「たそがれマイラブ」が大好きである。詩が特に良く、心がひかれる。次と言えば、小林あきらの「熱きこころに」である。これも詩が心に沁みる‥。

ある人は、彼を称して、「頭に少年が住んでいる人」と言われていた。私もそう思う。子供のような純粋さを持っているからこそ、今、何を大衆は求めているか、を敏感に感じ取り、誰もが口ずさむことが出来る言葉をちりばめて表現したのであろう。

特に彼が言った言葉の中で、
「言葉が自信をもって、歌の上に重なっていけばよい」という言葉が一番印象に残っている。

彼の心が體を動かし、次から次へと詩(言葉)がホトバシリ出たのでろう。

しかし、いくら良い言葉を用いても、真の意味での心の想いは、充分な表現を持たない。言葉だけでは不十分であるからである。では、何が必要なのか。

言葉に、心が繰り出す触手でもある「氣」が乗り移って初めて、心のが言おうとする本質に限りなく近づくのであろう。

話は変るが、合氣道の創始者植芝盛平翁は、技の名前にあまり関心はなかった。
一度「先生、この‥‥‥の技はどうすれば‥」とお聞きしたことがある。
しかし、逆に「それはナンじゃ?」と言われ、慌てたことがあった。「‥‥こうする技‥‥」と言いかけると、「それか、それはこうじゃ‥‥ホイホイ‥‥」名前は便宜上つけただけで、そのことが本質を語っていないのである。

「心が體を動かす」この言葉の深い意味が滲み出るくらい、考え、そして、深めてほしい。

その人の持つ哲学は、その中で涵養されるからである。
posted by 弘心 at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする