2007年11月10日

活眼を開く6

『孟子』にも「求ればこれを得、我に在るものを求ればなり」とある。
これは仁義道徳のような精神的なものは、自分の心の中に
備わっておるものであるから、努めて求めさえすれば
得られるが、功名富貴のような物的なものは我が身の外に
あるもので、いわば天に属するもので、いかに求めたとて
、天運がなければ得られるものでない。

「それではこの孟子の言は誤りですか」。
このことを彼が尋ねると
雲谷禅師は「孟子の言はそのものは誤りではない。
ただあなたが自分で誤り解しておるまでのことである。
今あなたのために一切の吉凶禍副皆我が心から
求めえられるということを、
この孟子の語で解き明かしましょう。

他人に恨みを抱く者が丑の刻参りをする。
人形を作って釘を打ち込んで人を呪うということが
昔からある。
あれは一身の環境によって、あるいは人の目をつぶし、
あるいは人の手足を悩まし命をとり殺すのである。

さすれば目をつぶす針も、手足を悩ます金槌も、
命をとるかたなも、ちょっと考えると外から持ってきた
ように思えるがみな恨み・怒りの心の中から
取り出したものである。

我れにあるものとただ仁義道徳のみではない。
功名富貴一切の福分もみな我が心中にあるもので、
心がなかったならば何もあり得ようがないのである。

心に従って求めれば天に応じて何ものでも得られるのである。
故に孟子も『万物我に備わる』と明示してあるではないか。
それをもし我が心内、心の中に求めないで、あるいは
他におもねり、あるいは人を欺くなど、種々の謀計を
巡らして求めようとしても、
天命の理がなければ成就せぬものである。

たとえ一時天を欺いても、『人盛んにして天に勝つが、
天定まって人に勝つ』という諺がある通り、
ついにはこれを失って、それが却って大害になるものである。

故に孟子もその次に『これを求るに道あり。これを得るに命あり』
と説いておる所以である。
我が禅家の大祖慧能大師も、『一切の福田ー幸福の田地は、
方寸・そのわずかな胸のうち、この方寸を離れず』と説いておられる」。

こういうことをさらに諄々と誨えてくれました。
彼はこれに初めて活眼を開いたのであります。(この項おわり)
posted by 弘心 at 12:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月09日

活眼を開く5

雲谷禅師はこれに答えて「『命は我より作す(なす)。
福は己より求む』とは、あなたが勉強した『詩経』や
『書経』などの書物に述べてある。

『上帝、常ならず。善をなせばこれに百祥を降す。
不善をなせばこれに百殃(多くの禍)を降ろす』とある。

もし生まれた時に一定した天命があって、一生涯絶対不変
であるというのならば、たとえ善をなしたとてどうして
これに福を降すことができるか。

悪をしたとてどうしてこれに禍を降ろせようか。
『詩経』にも『天命常なし』といっている。

常なしとは禍福とも人の善悪次第で動くもので、決して
膠づけのような決まりきった命があるのではないて云う事です。

仏教の経典の中にも『功名を求めようとすれば功名を
得ることができる。富貴になろうと求めれば富貴を得る』
と説かれている。

妄語(虚言)することは仏者の大戒とするところであり、
慈悲深い諸仏諸菩薩がどうして人を欺くなどしましょうか。
お前はこれらの言説を何と思いますか」。

諄々と説かれて、彼は今まで知らなかった心に
一つの光がさしたのです。つづく
posted by 弘心 at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

憂国

明治維新を成し遂げたのは、当時二十代の若者が中心であつた。
高杉晋作、坂本竜馬など。今の若者と何が違うのであろうか。

彼らは、小さい時から、今で云う武士道の精神を
親や師から学んでいた。

吉田松陰、佐久間象山はそういった若者に多大な
心的影響を与えたことは言うまでもない。

今回の小沢一郎氏の事件には、裏があった。
読売新聞社主渡辺氏、元首相の中曽根氏。

マスコミのドンと長老の国会議員。両氏は大連合ということが、
迷走する我が国の政界に新たな作用を及ぼす、との共通点で
会談をしていたという。

日本の国を想う気持ちからの秘策であったらしい。
阿倍内閣が誕生以前からの構想であった。

阿倍氏は小沢氏とは駄目、その次は福田内閣となれば可能。
との判断で動きだした。
これは一年以上前からの計画であったという。

両者の心底には、「ねじれ国会」からくる立法府の混迷、
さらに行政府の底が見えない良心の腐敗。
そして、我が国を襲っている経営者としてのモラル低下、
多業種の偽商品の多発、蔓延する人心の荒廃…などについての
憂心からの行動であったと想うのは考えすぎであろうか。

結果、その想いは通じなかった。

何故か。それは両氏が期待したような人物ではなかった。
その一言に尽きる。

では、どのような人物であれば良いのか、それは次の点に
深い造詣と思慮が出来る人物であろう。

・豊かな智識を持つ
・ものごとの本質を見極めて判断・決断・実行できる(見識・胆識)
・自分自身を常に客観的に見つめられる
・ものごとの先を動物のような感覚(直観力・洞察力)で見つめられる
・純粋なまでの公平さを持つ(至公)
・純粋なまでの誠を持つ(至誠)
・よどみのない人柄を持つ(誠実)
・一つの目標・理想を持つ(志)
・永続性も持つ(操)
・きびきびした締めくくりが出来る(節)

志のある人が、今、平成維新を起こすために立ち上がる時ではないか。
posted by 弘心 at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月08日

政界異変…憂うべき国

何故か突然また民主党の小沢代表の辞任騒動があった。
唖然とするほかない。

小沢氏はもとは自民党であり、それも田中角栄氏の秘ぞっ子と言われていた人物である。

東北出身で同郷の好もあったのであろう。彼の若き時代を思い出す。
口べたと、自身が言う。確かにそうである。弁舌ではない。しかし、
資金集めには、他の人を寄せ付けない。つまり、金集めがうまい。
田中角栄氏仕込みなのであろう。

その彼が、二大政党時代といわれる今、民主党の党首である。
これで自民党の阿倍総理のドタバタ劇と同じ舞台を演じたことになり、場面は降り出しに戻ったと言って良いだろう。

しかし、阿倍氏を取り巻く人たち。小沢氏を取り巻く人たち。我が国のリーダーには、人格・品格とも無いと言っても過言ではない。

無節操、いや不節操なのである。
人間は引き際が大事とも言われろ。阿倍氏はその時期を誤った。
小沢氏も口べた説明不足で一時は辞任、未練がましく後戻り。

二人の共通点は、自らの確固たる「志」がないと云うことである。
人間の真価を直接に表すものは、その人の所持するものではなく、その人の為すことである。

即ち、偉大な人物とは真実な人のことである。
自然がその人の中にその志を成し遂げた人のことである。

志ある者は進を己に求むべきで、人に求めてはならない。
その進を己に求むということは、道業学術の精にほかならず、
進を人に求むとは富貴利達の栄に過ぎない。

富貴利達は結局我が外にある問題で、自ら求めて必ずしも
られるものではない。

しかし、道業学術は自分に内在する。
自ら啓発せねばならぬものである。

このことから言えば、二人とも、進を己に求めるのではなく、
人に求めたの結果とみる。

己に日頃から求める姿勢が貫かれていれは、取り巻きの人物を見誤りは無かったはず。

さらには、そのために確信となる核心が培われていないため、自分がいかなる人間か、が分かっていない。
愚群衆に惑わされるのである。

即ち世に処していかなることに遭遇しようが(命)、良心の判断(義)
以て当たり、禍副利害のために良心を害うことはしない。

すなわち、良心の判断するところ、進むべき場合は進む。
退くべき場合は退く。
命といって自らをごまかさない。

いかに先達の人物を知るか、その生涯を通じて貫き通した確信・核心は何かを知ることが大事である。

知識だけでは駄目なのである。見識・胆識・節操をわきまえること。
その為に心を磨くことが重要なのである。

今の世は、まさに政界・財界・経済界すべて「天変地異人妖の時代」(安岡正篤先生の言葉)といってよい。

(資料「師と友」参照)
posted by 弘心 at 13:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

活眼を開く4

自分の運命の主となって、それを使いこなしている人でも
因果の法則の中に、命数の中にあるのであり、
その法則をしって、即ち運命を知って、おのずかられこれを
支配していく。

しかし、凡人は物欲に目がくらみ、因果の法則が分からずに、
おのずから支配されてしまう。
この点が大きく違うのである。

だから凡人は、生まれつきの運命のままであり、
即ち唯物的であり、それに比べて聖人・達人と言われる
人たちは、それを自由に変化造成することができる。

あなたは、その老人に占われたままで、
少しも自分を大成させることができなかった。
全くの凡人ではないか」。

こう言われて、袁了凡は大いに驚いて、
「それでは運命は自由にすることができるのですか」
と反問した。つづく
posted by 弘心 at 11:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月07日

活眼を開く3

{私はあなたを大変立派な修養した人物と感心しておったのに、
なんだそれじゃただの平々凡々の男でしかないじゃないか」と、

こう言うので驚いて、「それはどういうわけですか」と聞きますと、雲谷禅師は、「一体人間は無心であるということができないものだ。

この世のいろいろの事物に心を捉えられて、そのもののために
自分というものを全く支配せられる。
即ち運命というものに捉われるものである。

無心であればそこに神の叡智が発し、ものの道理、因果の関係、
命数というものが明らかに観ぜられ、自分が自分の運命の主になってそれを使いこなしていけるのである。

禅家でいう髄処に主となるというものである。つづく
posted by 弘心 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月03日

活眼を開2

雲谷禅師の話を三日間にわたって熱心に聞いた。
その態度があまりにも悟ったように見えたので、
雲谷禅師は不思議におもい訊ねた。

「実に人物がよくできておる。どういう修養をして、
そこまで解脱されたのか」そこで、袁了凡は答えた。

「実はある易に達した老翁に一生のことを占ってもらって、
人の吉凶禍福、栄辱、死生、存亡皆生まれながらに定められた

運命がえるということを体験しまして、そこで妄想も何も
胸中に浮かばぬようになったのであります」と答えた。

すると、雲谷禅師は大笑いをして次のような言葉をはいた。つづく
posted by 弘心 at 13:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月01日

活眼を開く

命は我りなすものー袁了凡の悟り
命は天命であるとともに、その意味では「我より作す(なす)であります。
以前にも紹介致しました袁了凡がその子に教えたことを書いた陰隲録があります。

その袁了凡が少年の時に、気品のある立派な人物、その占いは何事にも正確な答えがかえってきて、その人物に傾倒しました。

そして、その人物から「運命で何もかも決まっている…」と教えられる。

逆にそのことが彼を諦めからくる悟りに近い心境になった。

その時、南京の近所の棲霞山にあるお寺に名高い雲谷禅師を訪れた。つづく
posted by 弘心 at 12:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする