2月26日に高槻市総合センターにおいて、高槻市と関西大学の共同事業でおこなったフォーラムがあった。
内容は、「高槻市中心市街地商店街の生活、意識と地域の活性化に関する調査」である。
学生達(関西大学社会学部・社会システムデザイン実習)が商店街に出向いて、様々な聞き取り調査などを行い、それを報告書としてまとめて発表したものである。
内容は、六つの視点から纏められている。なかなかよく出来ている。
特に私が再開発部企画室長の時に、都市再開発法の第一号の事業として当時国鉄高槻駅南地区(2.2haの再開発事業をおこなった地域のグリーンプラザは商業者の意識(愛着心と積極的な地域活動など)は高い。しかし、残念ながら生活者から見た満足度は一番低い。
もともと駅前にあり、紺屋町商店街が今のセンター街に繋がり、古い店が多かった。ある意味では郷土愛の意識も高い。だが権利変換などで残存した店舗は少ない。駅前という良い立地条件にある。
しかし当時全国の駅前のスタイルは皆同じだと評されたように、商店街コミュニティに対する洞察が不足していたのてはないかの私の想いは今も強い。
確か基本構想・基本計画は良かった、実施計画にあたって、市の内部(
市議会の特別委員会など)で二転三転した。昭和47年のことである。
当初の計画では、再開発の商業ビルは駅に並行してくっついて建てるもので、特に人の動線を重要視して、全ての商業床にアプローチしやすい計画であつた。
それが今のように駅前広場を取り囲むように配置された。
これは、再開発地域の再開発の商業ビルで完結することになる。
私は、センター街との連続性を保ち、回廊としての型式を取るべきと主張した。
高槻の商店街の歴史は、もともと芥川二丁目から始まったのである。
そして北駅前に当時「西武百貨店」が進出して来た。古い言葉ではあるが、「商店街は太陽の上る方向に発展していく」と云われた。まさにその通りとなった。偶然かも知れないが、駅前の一丁目が賑わいを見せ、当時の国鉄を超えてセンター街に、そして阪急高槻駅南側にと商店化は進んでいった。
高槻市の当初の駅前再開発事業計画は、芥川商店街の西に位置する二丁目の商人たちの危機感から出発した。市長と連日地元に入っての話し合いが続いた。しかし、芥川商店街として一つに纏まることが出来なくなり、中途で頓挫した。丁度その時、南側で高槻市役所の移転問題が出て、急遽、国鉄南地区再開発事業として浮上し、進められたのが現在の松坂屋をキーテナントとして出来た再開発事業なのである。
阪急高槻市駅の南側は、京阪神急行電鉄(今の阪急電鉄)が造成した閑静な住宅街であった。今はその面影はない。
話を元に戻して、グリーンプラザ(市施工の再開発ビル)は以上のような歴史をふんで来た。顧客の満足度を求める以前に、如何にして賑わいを作るか、が求められる。買い物客が自由にどの店にも行き来出来るような仕組みが必要なのである。
再開発事業が面としての整備であれば、線としての既存の商店街との
繋がりは不可欠のものである。私の当初の想いは間違っていなかったと思っている。それは関西大学のこの調査からもはっきりと浮かび上がっている。
私が関わった頃には、商店街再開発事業には必ず自らの商売をほったらかしにして、世話をされる方が存在した。どこの都市の再開発事業でも同じでした。それが五年十年と経つとまったくと言って良いほど
居なくなった。それと比例して街づくりは後退した(私が防災都市づくり計画を策定した時(平成八年)には建設省でも問題になった)。
話を元に戻そう。この調査にもう一つの視点がほしかった。それは
商店街と地域社会の活性化」のための意識として、「商業者」「生活者」「行政」の役割についての概念の創造。
そして、それぞれの現時点での意識調査である。
三者がどこまで対等に話し合えるか、さらには、それぞれの役割をどのようにして実行すれば、課題に満足を与えられるか、である。
特に、行政の役割は大きい。それは、商店街の活性化には、まちづくりと切っても切れない関係があるからである。
人をあつめる、賑わいを造る場の提供(公共空間の在り方、都市景観の創造、安全安心の提供…)。その人を、商人の才覚でもってディスプレイを上手くして如何に衝動買いをさせるか。店は舞台、公共空間は客席。この三者の演出が一つに纏まってこそ、街や商店街に夢が漂うのである。
2008年02月27日
エミリー・ウングワレー展
大阪の国立国際美術館で、アボリジニが生んだ天才画家・エミリー・ウングワレー展が開催されている。
開催に先立ち2月25日(月)に内覧会と開会式・レセブションに当美術館学芸課長の島氏から招待状を頂き見てきました。
確か以前にTVでオーストラリアの先住民族であるアボリジニのことを見た覚えがあるくらいで深くは知らなかった。
オーストラリアは建国より約二百年余りの新しい国で先住民族のアボリジニは四〜五万年前からその大陸で暮らし、赤い大地をカンバスとして、彼らの世界観に基づき、おおらかな芸術的行為を繰り広げてきたと言われてる。
特に、石器時代的な狩猟採集経済を営みつづけていたという不思議な集団である。しかし、1776年に英国がこの大陸を植民地としてきた。近代文明と対峙したことにより、人口が激変して崩壊していった。
1967年に国民投票でアボリジニを国民と認める憲法改正が行われた。政府はアボリジニ社会の再構築をしようとしたが成果はあがらなかった。すなわち、その根源には両者の社会観、とくに経済概念の違いである。アボリジニは、定住しない、財を平等に分配する。その場で消費して蓄財しない、明確な計画性をもたない。など独特に社会組織と相恵性経済を営んでいたので、政府がもたらした貨幣経済にすんなりと適応できなかったのである。
新しい政策が軌道に乗り出したのは1970年代の後半といわれている。政策的なものとして、農業、牧畜、漁業、工業などは全て頓挫。
採算がとれそうなのは美術・工芸だけであることが分り、それに集中するよになった。大まかにアボリジニの歴史は以上である。
そして、この女性、エミリーウングワレー(1910〜1986年)はその延長線上に存在した。86歳で亡くなるまでの十年間には、三千枚〜四千枚の絵を描き上げたとされる。
絵のもととなるモデルは、彼らの主食でもある「ヤムイモ」を題材したものが多く、黒いキャンパスに無数の線が描かれている。
又、点描で表現したものが多い、
何ら美術の教育も知識もない。しかし、その絵が観る者を感動させる。
自然とともに生きる彼らは、體に描いていた模様(ポディーペインディング)と、大地をまさぐって彼らの食べ物であるヤムイモ(地下茎とイモ)を、それらを紙に移し替えて表現した。
自然と共存する彼らには、大地との対話が出来るのであろう。
その時の感情を実に見事に色で表現している。
見たまま、感じたまま、あるがまま、なのである。それが私たちの心を揺り動かす。時間に追われるような、ものに動かされているような…、現代社会にあって、かって私たちにもあった原体験にまで蘇らせる力をもった絵であることには間違いない。
是非一度鑑賞されることお勧めしたい。とともに、この機会を頂いた島氏に感謝したい。
開催に先立ち2月25日(月)に内覧会と開会式・レセブションに当美術館学芸課長の島氏から招待状を頂き見てきました。
確か以前にTVでオーストラリアの先住民族であるアボリジニのことを見た覚えがあるくらいで深くは知らなかった。
オーストラリアは建国より約二百年余りの新しい国で先住民族のアボリジニは四〜五万年前からその大陸で暮らし、赤い大地をカンバスとして、彼らの世界観に基づき、おおらかな芸術的行為を繰り広げてきたと言われてる。
特に、石器時代的な狩猟採集経済を営みつづけていたという不思議な集団である。しかし、1776年に英国がこの大陸を植民地としてきた。近代文明と対峙したことにより、人口が激変して崩壊していった。
1967年に国民投票でアボリジニを国民と認める憲法改正が行われた。政府はアボリジニ社会の再構築をしようとしたが成果はあがらなかった。すなわち、その根源には両者の社会観、とくに経済概念の違いである。アボリジニは、定住しない、財を平等に分配する。その場で消費して蓄財しない、明確な計画性をもたない。など独特に社会組織と相恵性経済を営んでいたので、政府がもたらした貨幣経済にすんなりと適応できなかったのである。
新しい政策が軌道に乗り出したのは1970年代の後半といわれている。政策的なものとして、農業、牧畜、漁業、工業などは全て頓挫。
採算がとれそうなのは美術・工芸だけであることが分り、それに集中するよになった。大まかにアボリジニの歴史は以上である。
そして、この女性、エミリーウングワレー(1910〜1986年)はその延長線上に存在した。86歳で亡くなるまでの十年間には、三千枚〜四千枚の絵を描き上げたとされる。
絵のもととなるモデルは、彼らの主食でもある「ヤムイモ」を題材したものが多く、黒いキャンパスに無数の線が描かれている。
又、点描で表現したものが多い、
何ら美術の教育も知識もない。しかし、その絵が観る者を感動させる。
自然とともに生きる彼らは、體に描いていた模様(ポディーペインディング)と、大地をまさぐって彼らの食べ物であるヤムイモ(地下茎とイモ)を、それらを紙に移し替えて表現した。
自然と共存する彼らには、大地との対話が出来るのであろう。
その時の感情を実に見事に色で表現している。
見たまま、感じたまま、あるがまま、なのである。それが私たちの心を揺り動かす。時間に追われるような、ものに動かされているような…、現代社会にあって、かって私たちにもあった原体験にまで蘇らせる力をもった絵であることには間違いない。
是非一度鑑賞されることお勧めしたい。とともに、この機会を頂いた島氏に感謝したい。
2008年02月20日
田舎坊主の愚言
一月に身内の法事があった。その時、来られた僧侶が大変面白い方で、法事の最後に自ら書かれたものを配られた。
紹介しよう。
田舎坊主の愚言
昨年は、「偽りの一年であつた」とか。
産地の偽装、消費期限、賞味期限のごまかし等で、「赤福」、「吉兆」等が、マスコミにたたかれました。清水のお坊さんも、「こんな字が選ばれることは、誠になげかわしい」と告げておりました。
だました人や業者のみが、批判されたり、たたかれたりしている中にありながら、一度だって、だまされたり、世の流れに流され、つまらぬ慣習を伝統としていることにならされて、自分自身がだまされたり、だまされていることも氣付かずにいる大衆の「無智」に忠告を与えるマスコミの現状をあなたは、どう思っているのでしょうか。
だまされ易い素質をもつ日本人が多いから、だます人や業者が絶えない面を大衆は、しっかりと見極めて、「他人が悪い、悪い業者が多すぎる」と言う前に、そのようなものを生み出している己をもっと厳しく問い返さないと駄目でしょうね。
「こんな字が選ばれて」と嘆いておられるお寺さんやお宮さんにお尋ねいたしたいですね。「あなた自身、お礼やご祈祷が真実、無病息災、家内安全を保障します」と、人間の愚かな期待や不安を「慣習と伝統」の名にかくれて大衆をごまかしていませんか。新学期になると「進学保証の神仏」が流行し、新生児誕生前になると「安産のお礼」が売り出されたり、誠にまやかしいものが多く残存し、多くの日本人の「あまえ、もたれ、願望」からくる「騙され易い素質」を助長してはいませんかと。
憲法の第9条を守り、平和を求められる人々の中にも、何故か「春闘」とか、「要求貫徹に向かって戦いましょう」と「闘」の語を無批判的に使われたことがありますね。
又、自らの心やさしい親切心を外に見せて、病に倒れて入院中の友を見舞われて、外見温厚そうな素振りをされつつも、心の中にある「病」に対する人間的のな「にくしみ」から、つい「闘病に心がけて下さい」と「闘」の語が出てくるではありませんか。
親鸞聖人様は、このあさましい人間の心を自らの心の中にも内在していることを嘆かれて、「修善も雑毒なるゆへに、虚仮の行とぞなづけたる」と説かれています。如何に美しい、立派な善の行為としておこなっている人間の行いも、常に内面にはきたない、にごった汚れた人間自性の悪が潜んでいるもので、真の行ではありがたく、偽りの多い虚構の行ではなかろうかと厳しく自らを省みられているのです。
日本にも、古来より素晴らしい言葉が多く残されていますね。
むやみやたらと相手と争い、たたかう心をもたず、共に目標にむかって努力しましょうという「切磋琢磨」等。角や骨や石等の荒々しいものを磨き上げ、勉めに励んで共にがんばりましょうとね。
又、「闘病」なんて不用意な語ではなく、生きる力を養いましょう。
育てましょうと「養生」という素晴らしい言葉がありますね。
教育は、まことに大切であります。然し、一つ誤って「進学競争」に勝利するなんて考えで、若し、先生がそのことにとらわれて「皆さん、しっかり勉強して、この厳しい進学競争に勝ち抜きましょう」なんて言葉を発したならば、一体どこに「生命の大切さ」なんてあるのでしょうか。
過日、永平寺の官首宮崎奕保(えきほ)様が、106歳を人生の最期として1月5日に還浄されました。
師は、お弟子達に「人間は、常に栄誉栄達や財力を求め、それを成就することを人生としているが、それはまことに悲しいことであり、欲の中で迷いつつ泳いでいるようのなものだ。実は筍が一枚づつ皮を抜きとる筍の皮を脱ぎ取る如く、その脱ぎ取る如く、その欲を脱ぎ去ることが真の人生であろう」と説論されたと聞いております。
私は、人間は心にも体内にも「善玉」と「悪玉」を有していて、けっして「善玉」ばかりてはなく、この二つを「共有」し、これをうまく調整している人が、世間では「善い人」であり、「健康な人」と言われているとおもうのです。病気は、「悪玉」の心が「悪玉」の身を過保護して、「暴飲暴食、喫煙」を放置し、身勝手にするから「悪玉」が横着をして「病」になると思います。そして「悪玉」を「敵視」して、にくんだり、闘いを挑んで「薬」で倒そうとすると「悪玉」は、これを拒んで暴れまわり、「副作用」として仕返しにかかるのではないか 「善玉」も「悪玉」も「共生」させて、これを制御し調整することが実は「養生」を続ける人生であり、「聴聞、聞法」の日おくりとおもいますが、如何でしょうか。以上
僧は、齢80最を過ぎておられる。長い間、学校の校長先生として務められておられた。浄土真宗のお寺に生まれて、布教と保護司として地域に携わってこらた方で叙勲を受けられたそうである。
最少限度のお布施とされ、戒名料、食事料、お車代、など一般にとられているような費用は一切取られていない。自らの生活費とお寺の維持費の一部になるものだけを、読経料として、受け取られるだけである。しかし、宗派仏教としての枠組みからは出てはおられない。
釈迦の教えは、「真の人間とての生き方」を説いているものである。
死者を弔うだけのものではないことは、言うまでもない。
紹介しよう。
田舎坊主の愚言
昨年は、「偽りの一年であつた」とか。
産地の偽装、消費期限、賞味期限のごまかし等で、「赤福」、「吉兆」等が、マスコミにたたかれました。清水のお坊さんも、「こんな字が選ばれることは、誠になげかわしい」と告げておりました。
だました人や業者のみが、批判されたり、たたかれたりしている中にありながら、一度だって、だまされたり、世の流れに流され、つまらぬ慣習を伝統としていることにならされて、自分自身がだまされたり、だまされていることも氣付かずにいる大衆の「無智」に忠告を与えるマスコミの現状をあなたは、どう思っているのでしょうか。
だまされ易い素質をもつ日本人が多いから、だます人や業者が絶えない面を大衆は、しっかりと見極めて、「他人が悪い、悪い業者が多すぎる」と言う前に、そのようなものを生み出している己をもっと厳しく問い返さないと駄目でしょうね。
「こんな字が選ばれて」と嘆いておられるお寺さんやお宮さんにお尋ねいたしたいですね。「あなた自身、お礼やご祈祷が真実、無病息災、家内安全を保障します」と、人間の愚かな期待や不安を「慣習と伝統」の名にかくれて大衆をごまかしていませんか。新学期になると「進学保証の神仏」が流行し、新生児誕生前になると「安産のお礼」が売り出されたり、誠にまやかしいものが多く残存し、多くの日本人の「あまえ、もたれ、願望」からくる「騙され易い素質」を助長してはいませんかと。
憲法の第9条を守り、平和を求められる人々の中にも、何故か「春闘」とか、「要求貫徹に向かって戦いましょう」と「闘」の語を無批判的に使われたことがありますね。
又、自らの心やさしい親切心を外に見せて、病に倒れて入院中の友を見舞われて、外見温厚そうな素振りをされつつも、心の中にある「病」に対する人間的のな「にくしみ」から、つい「闘病に心がけて下さい」と「闘」の語が出てくるではありませんか。
親鸞聖人様は、このあさましい人間の心を自らの心の中にも内在していることを嘆かれて、「修善も雑毒なるゆへに、虚仮の行とぞなづけたる」と説かれています。如何に美しい、立派な善の行為としておこなっている人間の行いも、常に内面にはきたない、にごった汚れた人間自性の悪が潜んでいるもので、真の行ではありがたく、偽りの多い虚構の行ではなかろうかと厳しく自らを省みられているのです。
日本にも、古来より素晴らしい言葉が多く残されていますね。
むやみやたらと相手と争い、たたかう心をもたず、共に目標にむかって努力しましょうという「切磋琢磨」等。角や骨や石等の荒々しいものを磨き上げ、勉めに励んで共にがんばりましょうとね。
又、「闘病」なんて不用意な語ではなく、生きる力を養いましょう。
育てましょうと「養生」という素晴らしい言葉がありますね。
教育は、まことに大切であります。然し、一つ誤って「進学競争」に勝利するなんて考えで、若し、先生がそのことにとらわれて「皆さん、しっかり勉強して、この厳しい進学競争に勝ち抜きましょう」なんて言葉を発したならば、一体どこに「生命の大切さ」なんてあるのでしょうか。
過日、永平寺の官首宮崎奕保(えきほ)様が、106歳を人生の最期として1月5日に還浄されました。
師は、お弟子達に「人間は、常に栄誉栄達や財力を求め、それを成就することを人生としているが、それはまことに悲しいことであり、欲の中で迷いつつ泳いでいるようのなものだ。実は筍が一枚づつ皮を抜きとる筍の皮を脱ぎ取る如く、その脱ぎ取る如く、その欲を脱ぎ去ることが真の人生であろう」と説論されたと聞いております。
私は、人間は心にも体内にも「善玉」と「悪玉」を有していて、けっして「善玉」ばかりてはなく、この二つを「共有」し、これをうまく調整している人が、世間では「善い人」であり、「健康な人」と言われているとおもうのです。病気は、「悪玉」の心が「悪玉」の身を過保護して、「暴飲暴食、喫煙」を放置し、身勝手にするから「悪玉」が横着をして「病」になると思います。そして「悪玉」を「敵視」して、にくんだり、闘いを挑んで「薬」で倒そうとすると「悪玉」は、これを拒んで暴れまわり、「副作用」として仕返しにかかるのではないか 「善玉」も「悪玉」も「共生」させて、これを制御し調整することが実は「養生」を続ける人生であり、「聴聞、聞法」の日おくりとおもいますが、如何でしょうか。以上
僧は、齢80最を過ぎておられる。長い間、学校の校長先生として務められておられた。浄土真宗のお寺に生まれて、布教と保護司として地域に携わってこらた方で叙勲を受けられたそうである。
最少限度のお布施とされ、戒名料、食事料、お車代、など一般にとられているような費用は一切取られていない。自らの生活費とお寺の維持費の一部になるものだけを、読経料として、受け取られるだけである。しかし、宗派仏教としての枠組みからは出てはおられない。
釈迦の教えは、「真の人間とての生き方」を説いているものである。
死者を弔うだけのものではないことは、言うまでもない。
2008年02月19日
雪の舞鶴
カタコトという除雪車の音で目が覚めた。
一晩で約30センチの積雪である。
今から三年前にも大雪の時があった。
その時は道路まで出るのに、二日掛って雪かきをして車を出した。
このときは約50センチの積雪でした。どんよりとした空、振り続ける雪…、風が雪を舞い上げる…。
風の音以外は聞こえない。
ときおり、ヒヨドリが餌を求めて、庭の南天の赤い実をついばみに来る。夜には、狸が餌を求めて、犬走りを走る。
そしてお土産を置いて行く。朝の仕事の一つにその処理がある。
隣家の梅原きぬえさんから、大根を頂く。
以前に畑の大根をいるだけ抜いて持って行って下さいと言われていた。しかし、遠慮していた。
「凍ってしまうので…持ってきた。たべて…」と。
今年で数えで百歳になるおばあさんは、すこし足腰が弱ってきたと話されていた。このごろは雨戸が閉まっている日が多い。
自分で薪を焚いて風呂を沸かして入っておられる。
自給自足に等しい生活をされている家が大半だと推測する。又、老人人口比率も50%を超えている。このことは自治活動が困難になってきていることにヒタヒタと近づいていることを示している。
村の一人の方は「十年後は考えられない、いや、考えない…」との言葉が深く耳に残っている。
ひとり亡くなり、又ひとり亡くなり…、その家が空き家となっていくことへの恐怖心が伺えた。
全国で「限界集落」といわれている村落が約3000箇所存在すると言われている。そのうちの一つが、この村(久田美)でもある。
国も都道府県も市町村も、至急対策がほしい。
舞鶴市の総合計画では確か人口の減少することを是とした内容である。まちづくりはそんなものではない。人口増に向けての基本構想・基本計画となるものが何故出来ないのか。
「人口が減少します…」ということは、何もしない(計画がない)ということである。そうであれば、自治体の職員は市長以下いらない。
事業をしてほしいと言えば、金(予算)がないという。金がなければ
頭を使えば良い。市町村こそ、知識を知恵にする。即ち、知識・見識・胆識の有無が問われる組織はない。さらに節操を重んじることである。
今こそ、「見識」すなわち物事の本質を観る目を持ってほしい。
前の市長には、様々な提案をした。志半ばで引退された。残念である。次期の総合計画の見直しにあたっては、知識人はもとより多くの異なった世代の委員によって構成されることを願いたい。
土地利用の見直し、住みやすいまちづくり、住民の命にかかわる事業は重点的に進める、若者が働く場所の創設、地域の特性を生かした村おこし事業、全国から注目されるあるいは第一位となるまちづくり…
等いくらでもある。「礼・義・廉・恥」を実践すれば良い。
話は変わるが、宮崎県知事の東国原詩氏に、当選された時に手紙を出した。私の約40年の地方行政の一端を務めてきた経験からの助言である。
議会、官僚との接し方や人材育成についてである。
まず、幹部職員には県についての想いを小論文に書かすこと。
そして、相手を知ることから始める、など…である。
実行されたようである。その後の知事はTVのとおりである。
舞鶴市(舞鶴市民)にとって何が必要なのか。その本質は何か。
その為の知恵をだすことが今求められるのではないか。
一晩で約30センチの積雪である。
今から三年前にも大雪の時があった。
その時は道路まで出るのに、二日掛って雪かきをして車を出した。
このときは約50センチの積雪でした。どんよりとした空、振り続ける雪…、風が雪を舞い上げる…。
風の音以外は聞こえない。
ときおり、ヒヨドリが餌を求めて、庭の南天の赤い実をついばみに来る。夜には、狸が餌を求めて、犬走りを走る。
そしてお土産を置いて行く。朝の仕事の一つにその処理がある。
隣家の梅原きぬえさんから、大根を頂く。
以前に畑の大根をいるだけ抜いて持って行って下さいと言われていた。しかし、遠慮していた。
「凍ってしまうので…持ってきた。たべて…」と。
今年で数えで百歳になるおばあさんは、すこし足腰が弱ってきたと話されていた。このごろは雨戸が閉まっている日が多い。
自分で薪を焚いて風呂を沸かして入っておられる。
自給自足に等しい生活をされている家が大半だと推測する。又、老人人口比率も50%を超えている。このことは自治活動が困難になってきていることにヒタヒタと近づいていることを示している。
村の一人の方は「十年後は考えられない、いや、考えない…」との言葉が深く耳に残っている。
ひとり亡くなり、又ひとり亡くなり…、その家が空き家となっていくことへの恐怖心が伺えた。
全国で「限界集落」といわれている村落が約3000箇所存在すると言われている。そのうちの一つが、この村(久田美)でもある。
国も都道府県も市町村も、至急対策がほしい。
舞鶴市の総合計画では確か人口の減少することを是とした内容である。まちづくりはそんなものではない。人口増に向けての基本構想・基本計画となるものが何故出来ないのか。
「人口が減少します…」ということは、何もしない(計画がない)ということである。そうであれば、自治体の職員は市長以下いらない。
事業をしてほしいと言えば、金(予算)がないという。金がなければ
頭を使えば良い。市町村こそ、知識を知恵にする。即ち、知識・見識・胆識の有無が問われる組織はない。さらに節操を重んじることである。
今こそ、「見識」すなわち物事の本質を観る目を持ってほしい。
前の市長には、様々な提案をした。志半ばで引退された。残念である。次期の総合計画の見直しにあたっては、知識人はもとより多くの異なった世代の委員によって構成されることを願いたい。
土地利用の見直し、住みやすいまちづくり、住民の命にかかわる事業は重点的に進める、若者が働く場所の創設、地域の特性を生かした村おこし事業、全国から注目されるあるいは第一位となるまちづくり…
等いくらでもある。「礼・義・廉・恥」を実践すれば良い。
話は変わるが、宮崎県知事の東国原詩氏に、当選された時に手紙を出した。私の約40年の地方行政の一端を務めてきた経験からの助言である。
議会、官僚との接し方や人材育成についてである。
まず、幹部職員には県についての想いを小論文に書かすこと。
そして、相手を知ることから始める、など…である。
実行されたようである。その後の知事はTVのとおりである。
舞鶴市(舞鶴市民)にとって何が必要なのか。その本質は何か。
その為の知恵をだすことが今求められるのではないか。
2008年02月18日
詩の心
今から約50年ほど前、いや半世紀と炒った方がよい。
今のように、テレビが普及していなかった。ラジオが唯一の外部からの情報を伝えてくれていた。
石鹸を造る会社、名門の牛乳石鹸があった。その会社がスポンサーで
確か毎日放送と思うが、「牛乳石鹸歌謡学校」があった。
この学校の一人に選ばれて、毎週水曜日に大阪の電通スタジオへ通った思い出がある。
その時に流行歌・歌謡曲なるものを、発声・コールユーブンゲンなでの基礎となるものを教わった。
又、エコー歌謡学院の同期生に、「あんた泣いてんのね」で一世風靡した松山恵子がいる。そのお恵ちゃんは、死ぬまで変わらない容姿で、京都の名前は忘れたが河原町通りにあったクラブで逢ったのが最後でした。その当時、大阪南の「ベラミー」で、関西が生んだジャズ歌手坂本すみ子の修行時代があった。ゴッド姉さんの異名をとる和田アキ子も数年後いた。
市村俊之(ピアニスト)の司会で「素人物まねコンクール」に出演した大阪南の映画館の「国際会館」での収録のとき、前座で若かりし藤田まことが、淡谷のり子の「別れのブルース」などの物まねで出演していたのが懐かしい。
そして一年後に、「TVコマーシャルタレント養成」に応募した。
難関を突破して入った。一年後、関係者から「東京のフジテレビのロイ・ジェームスの…紳士録」での共演者に行かないか、と言われた。
思い悩んで、先生に相談した。「お前はアホか!」と、漫才のホットブラザースの「のこ切り演奏」のお題目のような一言をあびせかけられて、チョン。
話を元に戻して、流行歌、歌謡曲、演歌、艶歌、怨歌…などと歌全体の総称が変わってきている。
多分、詩の持つ内容からの変化なのかも知れない。
しかし、阿久 悠氏が登場されてから大きく変化してきた。
詩の形式もどちらかと言うと七語調から、散文形式となり、行数も
四行〜五〜六〜十一行までと多くなる傾向にある。
若い作詞家、作曲家が多く誕生していることもまた、変化する一因なのであろう。しかし、昔の作詞家の詩には短い言葉で奥行きのある意味をこめたものが多い。その故、短くて良かったのではないか。
短かく適切な言葉こそ、人の胸深く沈みこむ力が強いことを先人は知っていた。
最近の詩を紹介したい。
(信濃恋歌)
湖水に根雪の 白い影
君の横顔 思い出す
帰らぬあの日を 秋桜と
やさしく語る 道祖神
信濃恋歌 風の詩
(ゆめかぜ)
女らしくて 気持ちが純で
母によく似た 人だった
人の前では 見せないが
生きる優しさ 顔に秘めていた
夢風は夢の風 あの人は今どこに
しあわせを集めては
しあわせに泣いている
(悲しい街さ〜TOKYO〜)
街も人も変わった
何処か遠くへ行きたい
ひとり生きるには
ただの悲しい街さ〜TOKYO(OOSASKA)
愛する女性も今は
誰かの胸に抱かれているだろう
煙草を揉み消すように
サヨナラ言えたら
夜は終わるだろうか
男は涙見せずに 思い出を語るもの
いずれも半年以内に歌われている曲です。
詩の持つ意味が、その人の人生の中の生き方の一遍と重なり合った時、共感を呼び起こす、そして、心情の吐露を疑似体験する。
この意味合いが深いほど人の胸を打つものとなるのであろう。
この世界も「心が體を動かす」ことに他ならない。
今のように、テレビが普及していなかった。ラジオが唯一の外部からの情報を伝えてくれていた。
石鹸を造る会社、名門の牛乳石鹸があった。その会社がスポンサーで
確か毎日放送と思うが、「牛乳石鹸歌謡学校」があった。
この学校の一人に選ばれて、毎週水曜日に大阪の電通スタジオへ通った思い出がある。
その時に流行歌・歌謡曲なるものを、発声・コールユーブンゲンなでの基礎となるものを教わった。
又、エコー歌謡学院の同期生に、「あんた泣いてんのね」で一世風靡した松山恵子がいる。そのお恵ちゃんは、死ぬまで変わらない容姿で、京都の名前は忘れたが河原町通りにあったクラブで逢ったのが最後でした。その当時、大阪南の「ベラミー」で、関西が生んだジャズ歌手坂本すみ子の修行時代があった。ゴッド姉さんの異名をとる和田アキ子も数年後いた。
市村俊之(ピアニスト)の司会で「素人物まねコンクール」に出演した大阪南の映画館の「国際会館」での収録のとき、前座で若かりし藤田まことが、淡谷のり子の「別れのブルース」などの物まねで出演していたのが懐かしい。
そして一年後に、「TVコマーシャルタレント養成」に応募した。
難関を突破して入った。一年後、関係者から「東京のフジテレビのロイ・ジェームスの…紳士録」での共演者に行かないか、と言われた。
思い悩んで、先生に相談した。「お前はアホか!」と、漫才のホットブラザースの「のこ切り演奏」のお題目のような一言をあびせかけられて、チョン。
話を元に戻して、流行歌、歌謡曲、演歌、艶歌、怨歌…などと歌全体の総称が変わってきている。
多分、詩の持つ内容からの変化なのかも知れない。
しかし、阿久 悠氏が登場されてから大きく変化してきた。
詩の形式もどちらかと言うと七語調から、散文形式となり、行数も
四行〜五〜六〜十一行までと多くなる傾向にある。
若い作詞家、作曲家が多く誕生していることもまた、変化する一因なのであろう。しかし、昔の作詞家の詩には短い言葉で奥行きのある意味をこめたものが多い。その故、短くて良かったのではないか。
短かく適切な言葉こそ、人の胸深く沈みこむ力が強いことを先人は知っていた。
最近の詩を紹介したい。
(信濃恋歌)
湖水に根雪の 白い影
君の横顔 思い出す
帰らぬあの日を 秋桜と
やさしく語る 道祖神
信濃恋歌 風の詩
(ゆめかぜ)
女らしくて 気持ちが純で
母によく似た 人だった
人の前では 見せないが
生きる優しさ 顔に秘めていた
夢風は夢の風 あの人は今どこに
しあわせを集めては
しあわせに泣いている
(悲しい街さ〜TOKYO〜)
街も人も変わった
何処か遠くへ行きたい
ひとり生きるには
ただの悲しい街さ〜TOKYO(OOSASKA)
愛する女性も今は
誰かの胸に抱かれているだろう
煙草を揉み消すように
サヨナラ言えたら
夜は終わるだろうか
男は涙見せずに 思い出を語るもの
いずれも半年以内に歌われている曲です。
詩の持つ意味が、その人の人生の中の生き方の一遍と重なり合った時、共感を呼び起こす、そして、心情の吐露を疑似体験する。
この意味合いが深いほど人の胸を打つものとなるのであろう。
この世界も「心が體を動かす」ことに他ならない。
2008年02月14日
言霊
言霊とは、「言葉に宿っている不思議な霊威」「古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた」(広辞苑)といわれている。
さらに、言葉とは、「人の音声の意味を持っているもの。また、それを文字にあらわしたもの」と記されている。
少し話はそれるが、1986年に編纂された「漢語林」の著者鎌田 正(東京教育大学名誉教授・文学博士)はその著書の中で、「漢籍が我が国に伝来して以来、言語・文学・思想等、我が国の文化が漢字・漢語を媒体として発達したことは、事新しく述べるまでもない…近年における科学技術の進歩はまことに目まぐるしく、言語生活も機械化の開発に伴い、その能率的効果の顕著な反面、漢字・漢語に対する知識が著しく低下し、誤字ないしは狂言戯語ともいうべき当て字の氾濫は、見るにたえないものがある。これは漢字を国字としているわが国にとっては、きわめて重大なことと言わなければならない…」と述べられている。
文字の字源が象形文字といわれいることからも西洋の言語とは根本的に異なっていることは事実である。
このような意味あいをもっている言葉は、日本人の心に直接響き入り込む。
昨日の新聞に、90最の夫が87最の寝たきりの妻を殺したと記事があった。その原因は、「妻が命令調で指図したから…」と。
近所の人の話では、「とてもそんなことをする方ではありません。よく介護をされていましたのに…、疲れられたのでしょう」そんなコメントをされていたのを聞いたとき、やりきれない思いがした。
振り返ってみると身びいきかも知れないが、男性が女性に危害を加える時は、言葉に誘発されるのが多くみられる。
元来、男は寂しがり屋なのである。以前にも書いたが、連れ合いが亡くなれば、そのあと二年半位で男は弱るか死に至ることが多いと云われている。高齢者では特に多いようである。
小さい時から母親に甘やかされて育てられた男は、その潜在心に母体への高い依存度が蓄積されているのかも知れない。
男は母親から創られたのであるから当然と言えばそれまでだか…。
大体男が年をとると、夫婦間での呼び方が変わる。夫は妻を「おかぁちゃん」というようになるらしい。しかし、女は邪険になる、すなわち「うちのおとうちゃん」ひどいのになると「うちのおっさん」いずれも関西の下町ではあるが…。
逆に言えば、それだけ男が弱い生き物といえるであろう。
しかし、精神的自立をした男は異なる。山田方谷(陽明学者)などはそのあまりの清貧さに女房が逃げて帰ったといわれる。
その人、人の「こころざし」が違うのであろう。
世の男性よ、菅子の言う「四維」を自覚し、自分造りをしよう!
次の言葉を長野の元友人に捧げたい。
「愛の存在に対しては、ただひとつの証拠があるのみである。即ち関係の深さであり、関係する各人の活発さと強さである」(エーリッヒ=フロム『愛するということ』)
さらに、言葉とは、「人の音声の意味を持っているもの。また、それを文字にあらわしたもの」と記されている。
少し話はそれるが、1986年に編纂された「漢語林」の著者鎌田 正(東京教育大学名誉教授・文学博士)はその著書の中で、「漢籍が我が国に伝来して以来、言語・文学・思想等、我が国の文化が漢字・漢語を媒体として発達したことは、事新しく述べるまでもない…近年における科学技術の進歩はまことに目まぐるしく、言語生活も機械化の開発に伴い、その能率的効果の顕著な反面、漢字・漢語に対する知識が著しく低下し、誤字ないしは狂言戯語ともいうべき当て字の氾濫は、見るにたえないものがある。これは漢字を国字としているわが国にとっては、きわめて重大なことと言わなければならない…」と述べられている。
文字の字源が象形文字といわれいることからも西洋の言語とは根本的に異なっていることは事実である。
このような意味あいをもっている言葉は、日本人の心に直接響き入り込む。
昨日の新聞に、90最の夫が87最の寝たきりの妻を殺したと記事があった。その原因は、「妻が命令調で指図したから…」と。
近所の人の話では、「とてもそんなことをする方ではありません。よく介護をされていましたのに…、疲れられたのでしょう」そんなコメントをされていたのを聞いたとき、やりきれない思いがした。
振り返ってみると身びいきかも知れないが、男性が女性に危害を加える時は、言葉に誘発されるのが多くみられる。
元来、男は寂しがり屋なのである。以前にも書いたが、連れ合いが亡くなれば、そのあと二年半位で男は弱るか死に至ることが多いと云われている。高齢者では特に多いようである。
小さい時から母親に甘やかされて育てられた男は、その潜在心に母体への高い依存度が蓄積されているのかも知れない。
男は母親から創られたのであるから当然と言えばそれまでだか…。
大体男が年をとると、夫婦間での呼び方が変わる。夫は妻を「おかぁちゃん」というようになるらしい。しかし、女は邪険になる、すなわち「うちのおとうちゃん」ひどいのになると「うちのおっさん」いずれも関西の下町ではあるが…。
逆に言えば、それだけ男が弱い生き物といえるであろう。
しかし、精神的自立をした男は異なる。山田方谷(陽明学者)などはそのあまりの清貧さに女房が逃げて帰ったといわれる。
その人、人の「こころざし」が違うのであろう。
世の男性よ、菅子の言う「四維」を自覚し、自分造りをしよう!
次の言葉を長野の元友人に捧げたい。
「愛の存在に対しては、ただひとつの証拠があるのみである。即ち関係の深さであり、関係する各人の活発さと強さである」(エーリッヒ=フロム『愛するということ』)
2008年02月11日
ジエロ
ジェローム・ホワイト・ジュニアー、1981年アメリカはピッツバーク生まれ。26歳の黒人歌手。
それも演歌歌手である。
おばあちゃんが日本人でその影響で演歌が好きになり、2003年NHKのど自慢で合格。
今、急激に人気上昇中。
彼の歌声を聴いていると、黒人とは思えないくらいに、低音から高音までその音域はひろい。
素晴らしい声である。
ジーンズにスニーカ、頭にはキャップ、軽いジャンパー?どうみてもジャズがラップを口にしそうな青年である。
どうして演歌なのですか?の質問に、「若い人にもっと日本の演歌の良さを知ってほしい。その為に歌っています」と。
低迷する演歌界にあって、救世主になろう。
好きな歌手は、美空ひばり、五木ひろし…、なのだ。
そして好きな食べ物は?には、「納豆と焼き魚」日本人以上に日らしい。
オリジナル曲がないときに、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」をきいたとき、背筋が震えた。うまい!!
今、オリジナル曲「海雪」を歌っている。
今年の演歌歌手のトップを行くであろうと予測する。期待したい。
日本人はどうも、民族がもつ様々な様式・文化については否定する気質がある。
合氣道もしかりである。
心身統一合氣道の創設者籐平光一翁が若い時に世界28カ国に広められた。その時翁は、そのことに既に氣付かれていた。
そして、逆に外国で認められれば、日本でも認められるのことから、翁は世界に向けて広められたのである。
そして、日本人の合氣道十段籐平光一の名前は
世界に知れ渡った。その延長線上の今の合氣道があるのである。
その意味では、先にの述べたジエロ氏の演歌は合氣道と似通っている
。
それは彼がジャズを生み出した黒人ということからも来ているのかも知れない。
いずれにしても今の日本には「礼」「義」をはかり、「見識」「胆識」を心底におくことである。すなわち、「物事に本質を観る」ことの大切さを改めて叫びたい。
それも演歌歌手である。
おばあちゃんが日本人でその影響で演歌が好きになり、2003年NHKのど自慢で合格。
今、急激に人気上昇中。
彼の歌声を聴いていると、黒人とは思えないくらいに、低音から高音までその音域はひろい。
素晴らしい声である。
ジーンズにスニーカ、頭にはキャップ、軽いジャンパー?どうみてもジャズがラップを口にしそうな青年である。
どうして演歌なのですか?の質問に、「若い人にもっと日本の演歌の良さを知ってほしい。その為に歌っています」と。
低迷する演歌界にあって、救世主になろう。
好きな歌手は、美空ひばり、五木ひろし…、なのだ。
そして好きな食べ物は?には、「納豆と焼き魚」日本人以上に日らしい。
オリジナル曲がないときに、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」をきいたとき、背筋が震えた。うまい!!
今、オリジナル曲「海雪」を歌っている。
今年の演歌歌手のトップを行くであろうと予測する。期待したい。
日本人はどうも、民族がもつ様々な様式・文化については否定する気質がある。
合氣道もしかりである。
心身統一合氣道の創設者籐平光一翁が若い時に世界28カ国に広められた。その時翁は、そのことに既に氣付かれていた。
そして、逆に外国で認められれば、日本でも認められるのことから、翁は世界に向けて広められたのである。
そして、日本人の合氣道十段籐平光一の名前は
世界に知れ渡った。その延長線上の今の合氣道があるのである。
その意味では、先にの述べたジエロ氏の演歌は合氣道と似通っている
。
それは彼がジャズを生み出した黒人ということからも来ているのかも知れない。
いずれにしても今の日本には「礼」「義」をはかり、「見識」「胆識」を心底におくことである。すなわち、「物事に本質を観る」ことの大切さを改めて叫びたい。
2008年02月04日
{ 「せめたりー倶楽部〜女たちの青春!第二章〜」
私の法人はメセナ活動をしていますが、それを支えてくれる堀野三郎という友人がいる。
彼との交友は、もう十八年は経つ。
彼は公認会計士でありながら商演劇のプロデューサとして活躍されている。特に、アメリカの喜劇作家でオスカー賞を受賞したニール・サイモンの作品だけを取り上げて上演する日本ではめずらしいこだわりのプロデューサなのである。
確か高槻文化振興事業団に公演依頼に持ち込んでから五年後にやっと実現できたことが懐かしく思い出される。
今から十五年ほど前、当時の女性専務理事の一言がカチンと頭にきた。
「あなたは土木技術屋さんですね、なんでニールサイモンをしっているのですか?それもありますが高槻ではそんなんは受けませんよ。だって市長そのものがカラオケしか知りませんからね。又、高槻市民も知らないですし…まぁーあきませんよ」とのお言葉。
何のための文化振興事業団なのか、そんなに低い文化なら、それを側面からもり立てて、少しでも高槻市民の意識向上のために仕掛けていくのが、仕事と違うか!と憤りを感じた。
その後、五年間堀野氏と私との何度と訪問をして、丁度私の友人が担当部長で就任してきたので、彼の力添えもあり、実現した。
確か岡田真澄・水谷良枝(二代目水谷八重子)が出演したニールサイモンの作品だった。
岡田真澄氏や水谷良枝氏と楽屋で楽しくお話をさせて頂いた。
水谷氏は新派の要となり、現在も活躍されているが岡田氏は一昨年?亡くなられた。ご冥福をお祈りしたい。
話をもとにもどして、その時、当劇場始まって以来の「大入り袋」が出た。丁度、その日、エントランスで私の招待客を待っていたら、その女性専務理事がみえた。「Oさん、おめでとうございます。良かったですね…」「ハイ、おかげ様で…」後の言葉は呑み込んで抑えたことがこれまた懐かしい。
ニール・サイモンに魅かれたのは、彼の作品はすべて、セリフが長い
それを演じる役者さんも大変だと思う。しかし、彼の作品には、人間が感じられるのである。その意味で私自身のめりこんでしまった。アメリカ人的感情の入り込んだものではあるが、それを上手く訳して役者に演じさせているのも堀野氏の骨頂である。
高槻市民も舞台を見て、屈託なく笑っている。そしてそのあと、チョッピリ感傷的になっている。少しでも現実から離れて、あぁー、こんな世界もまたあるんだなー、しかし、どこかであったような…と想いが湧き出て、又明日への生きる糧になればそれで良いのです。
そんなことの積み重ねが、人(市民)の心を動かす源になっていくのではないでしょうか。それが文化振興事業団の仕事と違いまっか…
と。
今回は、作:アイヴァン・メンチェル、翻訳:丹野郁弓。
演出:竹邑 類
出演:丘みつ子・進藤恵美・汀夏子(元宝塚)・小野寺昭
那智ゆかり(元松竹歌劇)・汐夏ゆりさ(元宝塚)
大変面白く、又考えさせられる舞台でもある。全国で16の公演を企画されている。近くに来た時には、ぜひ見て下さい。
私の法人の活動に御賛同頂いた企業、個人の方々にこの場をお借りして、厚く御礼申し上げます。この次の企画は、二年後です。その節はよろしくお願いいたします。
彼との交友は、もう十八年は経つ。
彼は公認会計士でありながら商演劇のプロデューサとして活躍されている。特に、アメリカの喜劇作家でオスカー賞を受賞したニール・サイモンの作品だけを取り上げて上演する日本ではめずらしいこだわりのプロデューサなのである。
確か高槻文化振興事業団に公演依頼に持ち込んでから五年後にやっと実現できたことが懐かしく思い出される。
今から十五年ほど前、当時の女性専務理事の一言がカチンと頭にきた。
「あなたは土木技術屋さんですね、なんでニールサイモンをしっているのですか?それもありますが高槻ではそんなんは受けませんよ。だって市長そのものがカラオケしか知りませんからね。又、高槻市民も知らないですし…まぁーあきませんよ」とのお言葉。
何のための文化振興事業団なのか、そんなに低い文化なら、それを側面からもり立てて、少しでも高槻市民の意識向上のために仕掛けていくのが、仕事と違うか!と憤りを感じた。
その後、五年間堀野氏と私との何度と訪問をして、丁度私の友人が担当部長で就任してきたので、彼の力添えもあり、実現した。
確か岡田真澄・水谷良枝(二代目水谷八重子)が出演したニールサイモンの作品だった。
岡田真澄氏や水谷良枝氏と楽屋で楽しくお話をさせて頂いた。
水谷氏は新派の要となり、現在も活躍されているが岡田氏は一昨年?亡くなられた。ご冥福をお祈りしたい。
話をもとにもどして、その時、当劇場始まって以来の「大入り袋」が出た。丁度、その日、エントランスで私の招待客を待っていたら、その女性専務理事がみえた。「Oさん、おめでとうございます。良かったですね…」「ハイ、おかげ様で…」後の言葉は呑み込んで抑えたことがこれまた懐かしい。
ニール・サイモンに魅かれたのは、彼の作品はすべて、セリフが長い
それを演じる役者さんも大変だと思う。しかし、彼の作品には、人間が感じられるのである。その意味で私自身のめりこんでしまった。アメリカ人的感情の入り込んだものではあるが、それを上手く訳して役者に演じさせているのも堀野氏の骨頂である。
高槻市民も舞台を見て、屈託なく笑っている。そしてそのあと、チョッピリ感傷的になっている。少しでも現実から離れて、あぁー、こんな世界もまたあるんだなー、しかし、どこかであったような…と想いが湧き出て、又明日への生きる糧になればそれで良いのです。
そんなことの積み重ねが、人(市民)の心を動かす源になっていくのではないでしょうか。それが文化振興事業団の仕事と違いまっか…
と。
今回は、作:アイヴァン・メンチェル、翻訳:丹野郁弓。
演出:竹邑 類
出演:丘みつ子・進藤恵美・汀夏子(元宝塚)・小野寺昭
那智ゆかり(元松竹歌劇)・汐夏ゆりさ(元宝塚)
大変面白く、又考えさせられる舞台でもある。全国で16の公演を企画されている。近くに来た時には、ぜひ見て下さい。
私の法人の活動に御賛同頂いた企業、個人の方々にこの場をお借りして、厚く御礼申し上げます。この次の企画は、二年後です。その節はよろしくお願いいたします。
中江藤樹生誕400年
中江藤樹は、江戸初期の慶長13年(1608年)に近江(滋賀県)で生まれた。
はじめは伊予(愛媛県)大洲藩の加藤家に仕えたが、故郷に残した母親の孝養のため、近江に帰る。
その時二十七歳の藤樹は、武士をやめて、商いの道に入る。
最初は、幕府の官学となる「朱子学」を学んできたが、「陽明学」に出会うとただちに陽明学に転じわずか41歳で亡くなる。
彼は「真の人間として、如何にあるべきか」を自らに課して、村民にも強化したのである。
「藤樹は、若いときから、まず自分が自分にかえる、外物を追うのではない。単なる成功だ名誉だ権力だというものを追うのではなく、自分が本当の自分にかえることであるという教えに愕然とした。
まずそこから始まるのである。そこから常に藤樹はものの考え方を導き出している。これが彼の道になっている。(安岡正篤:『陽明学十講』第六講」
すなわち、自分に帰ることによって、自分の中にある「良知を自覚することが出来る。
ここに藤樹は陽明学と出会い、体得する必然があったのである。
こうした姿勢は学問や読書にも通じるもので、自分の心を通したものでければ単なる知識であって生きたものにはならないのである。
又、藤樹は、人間というものを省みて、考察した。その結果、人間が人間たる所以、人の心の最も大事な要素と作用は、「愛」と「敬」にある、と唱えた。その中でも「敬」を重んじたのである。
「愛は普遍的なもので、人間ほど発達しておらぬが、動物も持っておる。しかし、敬は『天地の為に心を立つ』という造化の高次の働きであって、人間に到ってはじめて発達した心である。これは人間が進歩向上しようとする所に生ずる心」(安岡正篤:『人生と陽明学』)であり、少しでも高い境地に進もうとする心である。
藤樹の弟子で熊沢蕃山は、「人を愛すれば、人もまた己を愛す。人の悦ぶ心をあつめて、親を敬ひ、子を愛す。和気身にみちて命ながし」(集義和書)の言葉を残している。
このように藤樹や番山の生きた「知行合一」の思想こそが何時の時代も人のあり方の根源をなすものである。
(参考:『安岡正篤の行動学』)
はじめは伊予(愛媛県)大洲藩の加藤家に仕えたが、故郷に残した母親の孝養のため、近江に帰る。
その時二十七歳の藤樹は、武士をやめて、商いの道に入る。
最初は、幕府の官学となる「朱子学」を学んできたが、「陽明学」に出会うとただちに陽明学に転じわずか41歳で亡くなる。
彼は「真の人間として、如何にあるべきか」を自らに課して、村民にも強化したのである。
「藤樹は、若いときから、まず自分が自分にかえる、外物を追うのではない。単なる成功だ名誉だ権力だというものを追うのではなく、自分が本当の自分にかえることであるという教えに愕然とした。
まずそこから始まるのである。そこから常に藤樹はものの考え方を導き出している。これが彼の道になっている。(安岡正篤:『陽明学十講』第六講」
すなわち、自分に帰ることによって、自分の中にある「良知を自覚することが出来る。
ここに藤樹は陽明学と出会い、体得する必然があったのである。
こうした姿勢は学問や読書にも通じるもので、自分の心を通したものでければ単なる知識であって生きたものにはならないのである。
又、藤樹は、人間というものを省みて、考察した。その結果、人間が人間たる所以、人の心の最も大事な要素と作用は、「愛」と「敬」にある、と唱えた。その中でも「敬」を重んじたのである。
「愛は普遍的なもので、人間ほど発達しておらぬが、動物も持っておる。しかし、敬は『天地の為に心を立つ』という造化の高次の働きであって、人間に到ってはじめて発達した心である。これは人間が進歩向上しようとする所に生ずる心」(安岡正篤:『人生と陽明学』)であり、少しでも高い境地に進もうとする心である。
藤樹の弟子で熊沢蕃山は、「人を愛すれば、人もまた己を愛す。人の悦ぶ心をあつめて、親を敬ひ、子を愛す。和気身にみちて命ながし」(集義和書)の言葉を残している。
このように藤樹や番山の生きた「知行合一」の思想こそが何時の時代も人のあり方の根源をなすものである。
(参考:『安岡正篤の行動学』)

