2008年06月30日

産みだす苦しみ

本格的梅雨の様相になってきた。
畑もまだ半分の仕上げ。

畑を耕していると、水路のところでガサガサと音がする。
何かと思ってふと見ると、ウリボウが餌を探している。

一瞬、「とつてやろう!」意識が働く、近づいても逃げない。
親から逸れた子供であろう。

追い詰めると、じっと体を硬くして縮まっている。
そして、こちらを見る目が何故か愛くるしい。

ほっとけば、又、畑を荒らされる。
今までの被害が頭をよぎる。
しかし、彼らとて、ただ本能にまかせて、
自然の中の食べ物を探しているだけである。

人間様の勝手で、ただ敵対ししているだけであろう。
山へ追い返した。ボタン鍋を逸した…。しかし、
今の猪は、食べごろではない。脂がなく、
食に向かないようである。

食べる氣はない。生き物をの命を絶つことに、
拒絶感が非常に強い。
全てが生きている。人間もその中の一個だから…。

第一回舞鶴心身統一合氣道表武大会が無事終わった。
残念ながら、全員の参加は望めなかった。

子供クラスは二人の参加のみであった。
高槻からもK君が子供と参加してくれた。感謝である。

五年近く経つ。継続は力なり、の言葉通り
、大変上達された。
はじめに、私から、弘心館合気道の基本的考え方を話、
その目的とするところ、さらには、精神的位置づけを話した。

会員が「守手」「攻手」にたって體技を表武した。
その合間に、私が求めるものを具体的に説明していく。

舞鶴市へドイツから来られたいた数人が、市の方に連れられて、
見学、

體技・剣技・杖技等を終えた。
最後に五人以上を相手にする多人数掛けを行った。
合氣会も心身統一合氣道会、その他の合氣道も大体、
パターンは定まっている。あらかじめ決められた形を取る…。

今回は、全く新しい形を作り出すことにした。
しかし、不発に終わる…。
難しいものである。

一人でも受け身を取ろうとする者が
いてはいけない。如何に相手を倒そうとするか、の
「機」がなければならない。

體技などの単体の技は、全て、見直し、再建した。

しかし、多人数掛けでの「守手」として新しいものを
生み出すことは出来なかった。

しかし、理路的には完成している。
如何にして、調和を崩してくる複数の相手を、
地に崩すかが
課題である。

楽しみが増えた。
次回では、あっというものを見せたい!!!
posted by 弘心 at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月23日

グレシャムの法則

今から約40年前、自分の存在について想い悩んだ時期があった。
「個の存在」についてである。

文学書などでは解決しなかった。洋書に頼るしかなかったが、
それもまた不発に終わった。

子供の頃から、合氣武道を学んできたことが、
その意味を武道に求めて行った。

合氣会での修行も行き詰まりを感じた。
力の強いものには、技が掛らなかった。

何故か、本部での指導者は手頸が異常に太く、
余計に技が掛りにくかった。
聴く所によると、腕をビール瓶で叩いて鍛えているとのこと。

「米糠二合持つ力があれば合氣道は出来る」とは間違いでは?
合氣道の稽古では、どうしても力での技であり、
ギクシャクして上手くいかない。

そんな日々が続いたある日、総師範部長の籐平先生が
辞めて行かれた。
盛平翁亡きあとの後継者は、合氣道十段の
籐平先生との噂があった。
(技術は籐平光一氏、運営は植芝吉祥丸氏との役割分胆)
しかし、理事会ではそうはならなかった…。

その後心身統一合氣道を創設され、合氣道から「氣」をとれば、
ただの踊りだ。と説かれる籐平光一氏について、
一から学び直した…。

今、良かったと思っている。
長年続けていくうちに、體が自然の動き、
もともとDNAが持っていた體の動きに目覚めていった。

「力の合氣道」から「氣の合氣道」…しかし、
不思議なものである。
本物の合氣道を求めで、全国から集まったあの熱気は
何だったのか。

師は、「氣」を練りあうことの需要さを説かれた。
そして、技の乱れを防ぐために30の体技を造られて
いまに至っている。

しかし、今、本物であるべく「合氣道」が、「氣が出ている」
「技の大きさ」「リズム」の三つを標榜して、
派手なパフォーマンスをしている。

何故なのか、「氣」という言葉と「臍下の一点」だけが
一人歩きして、それだけで合氣道が分かったつもりに
なっているからである。

「氣」を練ることなど、どこかに行ってしまった。
さらには、體の基本の動きに対する體の各部分の
正しい遣いかたについて充分でないからである。

今、「合氣」を会得し、あらためて振り返った時、
合氣道はまだ完成されたものではないことがはっきり分かった。

弘心館合氣道の求めるところは、三つある。そして進化している。
「錬氣」…氣を練り合うこと。そのためには、全身の各部を
  正しく遣うとともに、206の骨と500ある筋肉
  (特に體の中の筋肉を意識して正しく遣うことにある。
  そして「合氣」を会  得することにある。
「表武」…武を表すこと。(静體技・動體技・流體技として)
「實践」…教えの本質を、社会に実生活にいかすこと

そして、その精神性は「陽明学」に置くことは言うまでもない。
すなわち、「知行合一」である。
posted by 弘心 at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月21日

畑仕事

一週間間過ぎると、草が10pは伸びている。
これから八月までは、草との闘いである。

二台の草刈り機がフル回転の時期でもある。
刈っても刈っても伸びてくる…。当たり前のこと。

種を蒔いて、野菜の芽が出る。しかし、後から生えてくる
草の方が先に伸びてくる。

そして、知らぬ間に野菜の芽に覆いかぶさるようにして、
太陽の光を遮断する…。
そして、何時の間にか野菜は消えてしまう…。

ものを言わない植物なのだが…、土の中では歯列な闘いが
繰り返されている。

一番上の畑は一切手を加えないでそのままにしておいた。
すると、長い間見なかった「茗荷」が一斉に芽を出した…。

水蕗、野蕗も伸び伸びと広がりだす。
毎年その顔を変えてくる。
それだけ地下では、暗黙の激闘が繰り返されているのであろう。

食物にとっては、太陽の光がその生存のカギを握る。
陽の光を我先に求めて、天に伸びようとする。
それも他と少しでも
早く…。

天地に伸びる…、人も同じである。
posted by 弘心 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月17日

茶と武

日本屈指の茶師、前田文雄氏の話をTVで聴く機会があった。
氏は、大学卒業後、企業に勤めた後、父親のあとをついで
茶師の道に入る。

転機は27歳の時に来た。
茶葉の大量の仕入れ時に、良いものだけを買う。

その時、師である父の一言、「良いお茶だけを探し出すのが
茶師ではない、どうでも良いお茶の中に本物が潜んでいるのだ」
「お茶がわかっていない!」。
その意味がなかなか分らなかった。

「うちへ来たお茶は見捨てない。良くして世の中に出す。
それが真の茶師だ」。

そのことが自らのものとしてわかるまで
「お茶の声に耳を澄ます…」五年の月日が過ぎた。

彼は今、売れ残りの茶葉と向き合う。
そして、「合組(ごうぐみ)」をすることにより、それぞれの茶葉の
特徴を混ぜ合わせて、独特の風味のある最高のお茶に仕上げる。
それが茶師の仕事であると…。

「良いお茶とは、伸びるお茶を言う」と。
彼は、仕事の合間に空手の修練をする。
決断する時に、必要な意識を高めるために…と。

彼の言葉の中で、すごく惹かれる一言がある。
それは「茶葉を観る時、じっと見ない。
見ると意識が働いてしまう。
さっと見流す…、すると無意識に感じてくる…」

一つの道を窮めていくと、全てが一つになる。
合氣武道も同じである。
教える立場にあるものは、形だけでなく、人間としての
内側を観る、

そして人格の涵養に努力することが第一義であろう。
慕ってくる者には、限りない愛を、そして至誠・至公で
対峙することが必要である。

そして、相手と対峙した時には、相手を外観を観ない。
見ているとも無く、見ないでもなく、慈眼温容の眼差しで、
無意識感で相手の内(心)観る…。

茶道も武道も…道と名の付くものの真髄がそこにある。
posted by 弘心 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月14日

異変

毎年6月の第一日曜日には敷地内の湧水水路から、
源氏ホタルが乱舞する。
しかし、今年はその姿はない。

何故か、カワニナが減少して、その姿も見ない。
カワニナの天敵のせいなのか…。

あるいは大陸(中国)からの最近の黄砂に含まれる
重金属のために酸性物質となって降り注ぐために、
生態系に変化が少しづつ進行しているのかも知れない…。

裏の土蔵の際を流れている水路も、オニヤンマのふるさと
である。
八年前には多くのヤゴが土蔵の壁を登って、孵化した。
そして、その水路の上を幾度となく繰りかえり旋回をしていた。
道場の吐き出しの引き戸を開けておくと、必ず入ってくる。
そして、旋回して又出ていく…。

その姿も昨年から、激変した。今年はどうであろうか…。
posted by 弘心 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月10日

宇宙の調和が崩れる時…

本を詠むのが好きで、月に数回は書店に立ち寄る。
不思議な現象を眼にした。

「蟹工船」「資本論」という名前の本が積み上げられて
並べられている。
最近良く売れるという。

今から40年ほど前、大月書店の「資本論」28巻を
読破したことがある。
その時に、「背教者、カウツキー…」という言葉も覚えた。

「歌声喫茶」でロシア民謡を、アコーディオン奏者のリードで
うたった時期もあった…。

若き青春時代の一時的な麻疹にかかって…。
しかし、何か一つの大きな流れがあった。

今はどうであろうか。
年収200万円の低所得層の若者が1000万人を超えているという。
働く意思意欲があっても働く場所がない「ワーキングプァー」
と言われている層である。

そしてさらに、全く働く意思のない「ニート」と
呼ばれる層も約460万人…。
そして、政治は、超高齢社会に対して無策といってよいほど、
空虚化している。

国会の予算委員会を見ても、しらけてしまうような
討議が繰り返されている。

年金問題、後期高齢者医療問題…、そして、
人の命を無視する事件が頻発している…。

昨日の秋葉原の14人の殺傷事件は今の我が国の
行き着く所まで行きついた状況を端的に表していると
言っても過言ではない。

隣国の韓国では、アメリカからの牛肉問題で、100万人のデモ。
そのキーマンは、驚くべきことに、小中高生である。
そしてさらには14歳の少年が立ち上げインターネットの
署名には、短期間で約140万人の署名が集まったとのこと。

何が違うのであろうか。
同じ儒教の洗礼を受けた国でありながら、
全く異なった状況である。

しかし、マグマのように地中深くに燃え立つものが
少しづつ地表に近付いてくるような氣がしてならない。

恣意的人工的な異変か、それとも自然現象的な天地異変か…。
何故か不気味な「氣」を感じるのは、私でだけであろうか。
posted by 弘心 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月03日

起業者・経営者の資格

日本電産の永守重信社長の経営哲学を聞いた。
若くして小型モーターの開発を手掛け、日本の企業への
売り込みに成果が上がらない時、単身アメリカに渡り
商談をまとめ、会社の危機を救う。

その後、M&Aで多くの中小企業を買収。
そして、リストラなしで、再建する。

赤字を黒字にされたのも尋常ではない。
僅か11か月で、5.6億円の赤字を20億円に変えた。
「日本サーポ」という会社である。

その会社の元社長はいう「今まで気付かなかったことに着目
されたのには驚きと自らの無知を知りました…」と。

永守氏は言う。
「今日も有難う。明日はもっと上手くいきますように、
明後日は更に上手くいく…と念じる」ことです。
まさ、にプラスの発想である。

そして、@「社員にコスト意識をUPさせる」
そのためには、一つ一つの行動には稟議書をださす。
意識付けである。

A真面目に働くほど報われることを意識させる。
再建一年限りの早期出社。

B無駄な経費の徹底した排除(ボールペンなど事務器具の使いまわし、無駄な照明器具と取り外しと消灯など。

C会社経営が上昇すれば、社員には利益率に応じた
ボーナスが出る。

そして、作業効率のアップのための作業機器の定位置化…、
彼自身が職場を回り、社員との指示と対話…など。

彼の発想は、
「行き詰った時こそチャンス」
「社員の怠惰は社長の責任」
「汚い会社は利益はマイナス」
「社員は才能は5、やる気は100がよい」…。
「目標は会社が世界中に広がり、楽しく働く社員の姿
を見ることが夢」
と云う。

最近には見られない人物でもある。

彼の経営主観は、「ともに幸せなること」とその為には
独り独りの社員の人格向上のための躾をする。
「情報の共有」トップと社員との信頼は意識の共有であること。
「対等に話あう」「ともに苦労する気構え」
「徹底した無駄の排除」となる。

纏めれば次の五点になる。
常に氣が出ている
「確実な指示」「経営方針の徹底」
常に相手の心を知る
「対等に話し合う」
「情報の共有」
常に相手の氣を尊ぶ
「意識・情報の共有」
常に相手の立場に立つ
「対等に話し合う」「リストラはしない」
常に率先窮行
「徹底した無駄の排除」

となる。

これからの時代に彼のような人物が出現することはあるので
あろうか。

彼は言う。
「富士山に登るには、周到な準備と重たい荷物を背負うことが
求められる。
そして、時間をかけて歩いて歩いて、頂上に達する。
しかし、今は違う、都会の真ん中からヘリコプターで
富士山の九合目まで行き、ティシャツであとを登り、
そして、又帰る。
こんなことでも登ったことにはなる。
しかし、心と體に刻みこまれた登山には雲泥の差があることが、
起業でも言うことができる。

そこには、何故企業なのか、何の目的で企業を起こすのか、誰のためなのか、基づく哲学は何か…などが明確かどうか、が求められるのである。1人1人の社員が集まって組織となる。その組織が会社を形成するのである。経営の原点は、人にある。
posted by 弘心 at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

二代継承者

心身統一合氣道会の会長として、籐平光一宗主の
子息籐平信一氏が二代継承として、受け継つがれ
指導者研修の講師として、来阪した。

彼が四歳の時、学生時代、結婚式の時、本部道場で、
関西地区本部でと一つ一つの節目で会ってきた。

素晴らしく成長された。
只、35歳、人格が滲み出るには年が浅い。

籐平会長の名代として、アメリカ、ヨーロッパへ
指導に行く機会が多くあり、様々な人種との対話と
合氣体技の対峙で、自身がついているように伺えた。

講習会のあとの食事会での席上で、いろいろな話をした。
その中で私は「合氣道は格闘技であることを自覚すべき」
「踊る合氣道ではない」「人格の陶冶に基本を置くこと…」
など、忌憚ない言葉を投げかけた。
彼は頷き、同様の趣氣を表してくれた。

父親から様々な想いを受け継いでこられたと想像する。
しかし、「氣」「臍下の一点」とその言葉から派生する
語彙だけでは長続きは困難であろう。

「氣」「心」についても、もっと深く、語源、中国・
我が国での歴史上での変遷等、学問的にも思慮することも必要だ。

さらには、東洋哲学の歴史的変遷と学問的見地から、
日本人のもつ精神的背景とその構造にも系統立てて、
認識することが求められる。

そして、自然人としての人の體の持つ潜在的な正しい「動き」
「働き」についてまで、言及すべきであろう。
心の法則と身体の法則を説くならば、「體」の仕組みと
正しい動きからまず説くべきであろう。

その上に立った経験と体験からの発言でなければならない。
まず、自分自身が何者なのか、何のために今存在するのか、
何所へ行こうとしているのか…など自己検証をまず乗り越え
なければならない。

敢えて苦言を呈するのは、心身統一合氣道の創始者である
父籐平光一宗主の書かれた「唱句集」において、
一つの矛盾律があるからである。

新しい組織作りに挑む姿は、頼もしい。
ただし、父親の教えのみでは駄目である。「宗主が…仰った…」
「宗主が技については…」などとの発言が多いのは無意味である。
教えそのものを自らのものにしていない証拠でもある。
「子(弟子)は、父親(師)を乗り越えてこそ一人前である…」
との言葉がある。

「虎の威を借る狐」であってはならない。
これからの精進を祈っている。
彼であれば、その想いは、速かれ遅かれ成就されるであろう。
見守っていきたい。
posted by 弘心 at 13:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

進化

嘉納治五郎氏が日本の柔術から乱取りを取り入れ、
試合形式として広めた柔道が変わりつつある。
日本の伝統の柔道と、「柔道」から「JUDO」と表記される
ヨーロッパのJUDOとは、異なってきた。

日本柔道が「一本を取る」ことにこだわる、奇麗な柔道である。
しかし、勝ちにこだわるヨーロッパのJUDOは一本には
こだわらない。
きたないJUDO。すなわち、相手に奇麗な柔道をさせない
JUDOなのである。

具体的には、日本は、間合いをとり、腕、袖をとって
技を仕掛ける。
ヨーロッパのJUDOは、相手に間合いを取られないで、
身体を密着させて技を仕掛けるのである。

特にグルジア(あらゆる格闘技の技など)を多用する。
その意味は、当然一本となると思われた瞬間に體をひねり、
相手の體に密着させて反転させて、有効を取る、などである。

今回の北京オリンピック代表を決める大会では、その様子が
はっきりと見えた。

日本の重量級の代表となった石井 慧氏の勝ち方はまさに
それを目指していた。
彼の口から、次のような言葉がもれた。
「日本の柔道は進化していない」
「ヨーロッパは進化している」と。

そして、野球選手で日本からメジャーへ、そして大きく
活躍しているイチロー選手も
「日本はフォーメーション、型に捉われ過ぎ、それが個性を
潰している」と。

嘉納治五郎氏をして「合氣道が本来の柔道である」と
言わしめた合氣道もその視点で見た場合、
進化しているのであろうか。

少なくとも、「合氣」について日夜心が體を動かす修練に
心を砕いている者には、一つの示唆でもある。

又、低迷する我が国の経済においても同様、如何に低迷からの
脱出を図るか、今、新しい発想(進化)が求められている。
posted by 弘心 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする