2008年07月25日

自然とともに

以前にも話した通り、今、田舎での生活は私が
生まれる前から定まっていたように思う。

勿論合氣武道との出会いも…。父から習った
八光流とも同じであろう。

三週間前に草を刈り、耕運機で耕した場所が20pの
雑草に覆われている。又1からやり直し。

朝、5時に眼が覚める。
畑の草ひき、體の動かし方は人とは異なる。

腕の力は使わない、指は草を軽く挟むだけ。
肩を使う、肩甲骨を使う。疲れない。

鍬で畝をしつらえる。鍬は杖の動きと同じ、體の動きは
大腰筋とハムストリンクス、肩甲骨、股関節、肋骨…、など。

朝食は野菜オンリー。畑から胡瓜、茄、ピーマン、
万願寺甘唐を食べるだけ採る。

万願寺、茄、ピーマンは焼いてポン酢で、胡瓜は塩もみして、
さらに、蔓紫の葉を採って軽く湯がいて、ポン酢で頂く。

玉ねぎを薄くスライスして、少量のオリーブ油で炒める。
白米と発芽玄米のご飯、きのこの味噌汁。

そして1日が始まる。
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2008年07月23日

38.6

今日の舞鶴の気温である。観測史上一番高い気温。
38.6度…聞いたことのない数字。

地球の温暖化とはいえ、何処か何かおかしい。
以前にも書いたが、不吉な予感がする…。

天地異変が起こらなければ良いが…。
私のこの弘心塾の建物のある地も、調べてみると、
約40年毎に災害が起こっている。

今から四十年前に大規模な土砂崩れがあって、隣の家が
押し流されたようである。

その為に砂防堰堤が設置されている。
地球全体も、地表を振動させて調和を保たせている。

それと同時に、地域でも小さな身震いをさせて、
ランドスケープを変化させている。

特に、西舞鶴地域には、急傾斜の危険個所が多数存在する。
行政は、年次計画をたてて、その対策としての保全工事を
実施しなければならない。

防災意識は、官民とも都市部とは異なる。
特に自然災害については、意識も対策も格差がある。

限界集落である地域では、何事もじっとして頭の上を
通り過ぎて行くのを待つ。

そんな形で自らを守ることを、代々受け継いできたことが
行政に向けての権利としての要求が出て行かない結果と
なったのであろう。

しかし、暑い。
畑の植物も、枯れないで耐えてくれている…。
学ぶべきことは多い。
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2008年07月19日

舞鶴港

????????男は波止場へ 来るたびに
過去への階段 下りるのか
その名も舞鶴 風吹く港
俺は魅かれて ここへ来た


????????煙草の赫い火 ブイの灯か
セピアに霞んで 海が鳴る
立たずむその先 連絡船の
姿見えたよ 幻の


????????男と女の 舞台幕
下ろしたとでは もう開かぬ
おまえのその夢 その行末に
なぜに報いて やれぬ奴

????????死ぬ気で生きれば 誰だって
いい日来るもの 見えるもの
その名も舞鶴 旅立つ港
俺もここから もう一度

今年の三月に、TEICHIKU RECORDSから出た曲である。
作詞坂口照幸、作曲弦 哲也、組曲前田俊明氏の作品。

歌手は、三田りょう、低音で歌うメロディーは、
日本海独特のうす曇りのなかのどんよりとした
物悲しい雰囲気の曲。

しかし、よく聴いてみると、舞鶴港の雰囲気を
よく表しており、「岩壁の母」とは、又、一味違った
演歌である。

今から、五十年ほど前に、大阪の中央公会堂で、
審査委員長に当時の人気歌手、林伊佐夫氏が来られての
大阪で初めてのど自慢大会があった。

二百人が喉をきそった。朝十時から始まって、終わったのが
午後四時位までかかったので良く覚えている。

予選を勝ち抜き、本選で二位になった。
同じ歌を歌えば、一位だったと想う。自分だけが曲を
変えた結果であった。

その時は、三浦光一の「東京の人」を歌ったように思う。
今、その時のことを思って舞鶴港を聴くと、
東京の先進都市の華麗な詩と、舞鶴の詩。その違いが
良くわかる。

さすが、作曲家、弦 哲也氏である。
その地方の雰囲気をよく表している。私が以前にブログで
、ジエロのことを、歌謡界の救世師になると紹介、実現した。

その歌、「海雪」の中で「出雲埼」が出てくる。
出雲崎のある自治体は、挙ってレコードの売り上げに
補助金まで出すとのこと。

舞鶴もどうかな…。
詩が少し暗い…。ヒット曲としては少し無理なような…
しかし、応援したい。

この歌に、心惹かれるものがある。
とすれば、詩の持つ意味であろう。

男と女の織りなす恋の切ない心情…
言葉や理屈では、はかり知れない心の葛藤…
言語での表現には限界があることを知りながら
あえて言葉の綾を織りなす。

誰の胸にも、少しは触れる…
苦しい想い、切ない想い、どうにもならない想い…
そんな旋律が、心琴を揺さぶる…
心の襞に忍び寄るような感情が…

一つの場面として、演歌は、演じて見せてくれる…。
その中に、今の現実の自分を置いてみる…

心の若さである。生きる糧でもある。
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2008年07月15日

伝承2

様々な方法でもって、心と體を一つにする方法を
説こうとする。
その伝え方がまた大変むつかしい。

「氣」についても、人の「こころ」から出る触手
としての「氣」と、天地煌然の「氣」があることを
認識する。

まず、「心の調和」。
何事にもとらわれないとは言うがなかなかそうはいかない。
しかし、「自然に振舞う」ことを意識することだけで
何も難しいことをくどくどと言わなくてもよい。

「自然」の意味は
・おのずからそうなっている様
・本性・本質
・造化の力によって成った一切のもの、すなわち、
 人間を含めた天地間の万物
・宇宙
とある。

「體全体に散らばって存在する「こころ」を、
正中心軸上にある下丹田の一点。その一点は宇宙の
中心であることを一瞬にして意識する
(心身統一合氣道でいう「氣の意思法」)

そして、「氣」はその一点から四方八方無限に外部に
向かって、迸って出て行く、そのことを意識する」

すなわち、「こころ」は常に内に向かおうとする、
「氣」は外に向かう性質を持っているのである。

次に、「體の調和」

「全身を弛緩させて、即ち、ゆったりとさせて、
宇宙から降り注ぐ垂線と自らの正中心軸とを一致させる
ように意識して、地と接する足の裏全体に均等に重みを
分布させて立つ」

自然の法則に従えば、全ての體の部分は地軸(地球の中心)
に向かって、降りている。
その法則にしたがうだけでよい。

體の各部があるべきところに在ると想えば良い。
唯それだけである。
そして、「こころ」が「體」を動かす、ことに帰着する

最後に、「対峙するものとの調和」

「存在する全てのものは、自然と絶対的関係のもとに
調和されている」まず、このことを認識する。

相対するものとの関係は、双方の「氣」が
交わることなく互いのこころの示すところに向かって
迸っていることをいう。

双方の「氣」が接触する時、二者間の調和は崩れる。

対峙する相手(攻手)が、此方(守手)に「氣」を
当ててくる時(調和を崩そうとするとき)、守手の
「氣」は、真っ向からぶつかることなく、「調和」の
方向(自然・天地・宇宙)に同化させる。

そのことは、相手を「地」に戻すことになる。
即ち、崩してやるのである。
そして相手は再生する。争いはない。

宇宙・自然と一体となることの序曲である。
自らの「氣」と天地の「氣」を同化させる、
すなわち、「我舞えば、天地舞う」のである。
posted by 弘心 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伝承

私たちは、自らの想いを他に伝える一つの手段として、
言語を用いてる。
しかし、言葉だけでは物事の本質は伝わらないことも
知っている。

一つの目的に向かって、自らの行為を全身全霊で
打ち込み継続して、その過程あるいは結果から
観えてくる本質を自覚する。即ち、止観する
ことである。

さらに、教える側と教わる側との間に、一つの緊張感が
必要なことも分かっている。
即ち、啄同機である。

心身統一道を一つ例にしてみよう。
心身統一道の研修には、いろいろな切り口がある。
しかし、その本質は一つである。

中村天風師の心身統一道から、心身統一合氣道の
籐平宗主はヒントを得られて「心身統一道」と
されたことは周知の事実である。

心身統一の本質は、調和すなわちバランスである。
その調和には次の三点が考えられる
@ 心の調和
A 體の調和
B 対峙物との調和

雷のため中断します。つづく







安岡正篤師は、それらの概念して「中庸」とされた。
posted by 弘心 at 17:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月10日

自らの存在

これから舞鶴へ帰り
舞鶴での合氣の修練
様々な想いの人たちとのふれあい
素晴らしい人たちばかり
その中にあって、伝えようとする

私は戸惑う
言葉を…體を…視線を…感情を…身振りを
五感いや六感までも
同じことを喋っている
しかし、ことなる

私の體から迸るプラーナが
相手の今の全身をなめる
その味さ加減によって…
内容がかわっている

氣付いてくれるか…難しい…
相手は全身で受け皿をつくる
一つになる…
その人の内部に、一つの節ができる
求めるところ。

まさに魂と魂のぶつかり合い…
妥協はない
力を抜いて、全身を開放する
自らを内観する
體の隅々までを意識して…

あとは、天地(宇宙)にまかせる
波動から何百万年を経て、今この瞬間に
存在する自分…
「無から有は生じえない」とすれば
わたしはわたし以前に何かあったのだ…

そのながい過程で、すりこまれた
自然の動き…
その動きを今、よみがえらす…
その延長線上に合氣の技が存在する
體が受け付けない動きのものも…
無用である。

自己の存在感を見失って彷徨する
現代人…
今、心と體・精神と肉体のドラマが
求められている
心にも體にも自らの潜在心が持っている
全てを取り戻そう…。

止観することにより…
それが得られる
「こころか體を動かす」本当の意味を
そして、自らの運命を宿命とせず
立命としてはばたこう。
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2008年07月08日

生きているいみ

 意識がひかりを求めて動き始めた…
 遠い遠い空間を時間をかけて来た
 そんな意識が残っている
 いつもの見慣れた景色が目の表象
 として意識しだす
 これが現在心なのか…
 
 潜在心になった意識が
 體全体で過去のものといいだす
 全身の細胞かざわめきだす
 これからなにをするのですか…と
 問いかけ始めた…
 
 潜在心のなかから、子供が出てきた
 その顔は、はっきりとは見えない
 しかし、體が悲しみに
 つつまれていくのが、わかる
 亡くした子供…

 みがわりとなった子供…
 どのように変わったのですか…と
 問いかけてくる
 自我を捨てた…自然に生きてきた…
 人のためにと…少しは役に立つようにと…
 精一杯生きてきたよ
 
 頷いてくれた…これからもそうだよ、と
 うれしそうな顔をして、ふりかえって
 行き去った…
 生きるとは、いのちを感ずること…
 ただ肉体だけが、息づいていること
 ではない…

 内なるいのちの躍動を感ずるとき
 そこに真実の生がある…
 いかされていることへの報恩と感謝
 人のために、世の中のために…
 一隅を照らすことへの執着が…
 
 今生きる支え…いのちの尽きるまで…
 そして、あの人を想い続けていたい…。
 
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掃除の心

掃除をするということは、ただゴミを吐き出しあるいは、
拭いて汚れを落とすことだけを意味するものではない。

昔から人は、その中に精神的な何かを感じ取っていた。
掃除を、悟りを開くための修行にまで高めたというのは、
我が国においては天台宗が一番といわれている。

比叡山延暦寺の浄土院では「掃除地獄」と呼ばれる苦行が、
今も続けられている。

浄土院は、宗祖伝教大師最澄の墓所で、この行は最澄の
廊の守り役の「侍真(じしん)」という僧に課せられている。

侍真は、最澄が生きているかのごとく、墓前に食事を捧げ、
経を読み毎日を暮らす。その中でも最大の任務が「掃除」である。

廟がある浄土院には沙羅双樹と菩提樹の木が一本ずつ
植わっている。

拝殿を隔てた前にはには叡山苔が一面に生えている。
そして、これらの庭には、紙屑は勿論、一枚の葉が
おちていることも、一本の雑草が生えていることも
許されない。

「侍真」は木の葉が風に散るやいなやそれを拾い、
草が芽をだすや即座に抜く、その合間にもほかの葉がちり、
ほかの草が芽をだす。

これを追い回して、侍真の一日は明け暮れる。
こんな生活が12年間続く。

「最下鈍の者も、12年を経てば、必ず一験を得る」という
最澄の言葉に由来する年限で、この期間は延暦寺の寺領から
一歩も踏み出してはならないことになっている。

この過酷な修行に挑戦を許されるのは、比叡山の中でも
選ばれた僧だけである。

侍真になるには「好相行」というこれもまた想像を絶した
修行を突破しなければならない。

一日のうちに22時間を唱名と礼拝にすごし、これを仏の
幻を見るまで続けるというもので、そんなことで侍真は
10年に一人出るか出ないかといわれている。

そして、12年間、新聞も読まず、ラジオも聞かず、
もちろんテレビも見ず、ひたすらに掃除に励んでいると、
奇妙な能力が身についてくるといわれる。

掃除地獄を経験したある高僧は、「木の葉がはらりと落ちる
音が、ドーンと、まるで大木が倒れたような音に聞こえる」
といっている。

そして、叡山苔を割ってつくしが芽を出す時は、メリッと、
コンクリートが裂けるかのように響くという。

しかもどのあたりに芽をだしたかまでわかるというのだ。
掃除の奥義は、実にこんな深いところにある。

日常家事に忙殺される一般の主婦も掃除が持つ精神的な
奥深い意味だけは、どこか心の片隅で憶えておきたいものだ。

自分自身の魂を、肉体の中に美しく住まわせるために…。
posted by 弘心 at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

擬きょうだい

「日本社会の基礎構造は、血縁、遅延、社縁の三つの原理によって支えられている。しかし、都市化と過疎化のため、地縁による人的紐帯は急速に崩壊しつつあり、また、核家族・少産の進行によって血縁の絆も極度に弱体化されてしまった。その代わり社縁だけは地縁や家の原理を吸収して肥大する一方で、そのうち非人間化マシンになりかねのない。
地縁と血縁原理を再生するためには、核心的な方策を講ずる必要があろう。
少産社会では、一人っ子どうしが結婚して一人っ子をもうける場合が多くなるだろう。この子には叔父も叔母も従兄もない、血縁的に孤立した人間になる。こうした人たちが、今後多数を占めることになれば、血縁の網目による社会構造を失ってしまう。
子供が健全な心身の発達をとげるには、きょうだいが多いにこしたことはのない。しかし、それが望めぬあらば、擬きょうだいを作ることを推奨したい。それには幼児期に集団生活をさせ、きょうだいとおない゛濃度の親密さで結ばれたの仲間ー擬きょうだいをもつことである。社会の形成は幼児期においてなされることは、サルの隔離実験な野外観察においても実証されている。
擬きょうだい作りには、母親はむしろ職を持つ方がよい。粘着した母子関係や過保護が避けられ、むしろ濃密な親子の愛情を回復ことができるだろう。保育所や幼稚園の重要性は、こうした観点から見直す必要があろう。(京大霊長類研究所教授・河合雅雄)

上記の文書は、1986年(昭和61年)10月29日(水)の新聞への投稿記事です。

今の社会構造の一部をいみじくも予見されている。
それは、所得格差を生み出し、人間としての尊厳性をも
破壊しょうとする雇用形態である。

しかし、母親が仕事を持つことについての意見には、
少し異なる。

我が国が保育園の必要性を全面に打ち出した時には、
福祉国家として北欧のスエーデンでは、廃止論が
大勢をしめ、閉鎖をした。

このことは、「いくら優秀な保母が存在しても、
母親に勝るものはない」との結論からである。

母親が仕事を持つ持たないは別にして、子供を一人の
人格を有する人間として見ることのできる母親を
育成することがまず重要ではないか。

その為に行政は最良の施策を打ち出すことが望まれる
のである。
その上にたっての集団生活としての集合教育の場は
必要であろう。

それ以前に、都市部と地方の現実を直視することが
必要ではないか。

都市部にあつては、人関係の希薄からの孤独死、
あるいは孤立化。コミュニティの弱体化。

地方において、超高齢化による地域の滅亡につながる
「限界集落」問題。

双方に求められるのは、他人同士であっても
「擬きょうだい」関係が出来るような地域の
人関係の構築が一番望まれるのではないか。
posted by 弘心 at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月07日

世界観

今日から北海道で世界G8によるサミットが始まった。
経済大国の綱引きが始まる。

各国の首脳に聞いてみたい。
「一滴の水」に何を想い、考えているのか。と。

環境問題は、まさに、「一滴の水」がその原点であろう。
我が国のマスコミが日本人が従来から持っていた精神
「もったいない」の言葉の意味としてではなく、別の意味
から啓発をしているのが不思議。

1人1人のCO2削減計画なるもので、節電、エネルギーの
無駄遣いを戒めている…。

今までの日本人には、当たり前のこととして、
「もったいない」としてあった。

今は、外国人がこの言葉の意味を感じて、本を出して、
説いている。

CO2と言えば、何か先進的な人間であるかのように…。
天地との共存を望み、天地に生かされていることを
何時になれば、人の心の中まで入るのであろうか…。

天地(宇宙・大自然・創造主・神…)との調和が崩れたとき、
初めてその試練を受けて氣付くのであろうか…。

過去に学びたい。
posted by 弘心 at 09:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大地に学ぶ

朝から、畑の草ひきをする。
作業にはタイミングが必要。

余り早すぎると、「ブヨ(1oほどの吸血昆虫」にかまれる。
赤く腫れてかゆい、掻くと血が出る。治るのに一週間は
掛る。夕方も駄目である。

大地にしっかりと、根を張り、引き抜かれまいとする。
それを小さな道具を使って、引き抜く。

指先に氣を通して、軽く攫む。そして腕の筋肉はあまり
使わない。
肩甲骨を用いる。すると、疲れない。

體の根幹、すなわち、體幹を天から降りる垂直線に入れる。
その姿勢は崩さない。そして腕、肩、足、腰を自在に使う。

そのためには、全身の骨格を意識して、必要な骨を用いる。
骨を意識して、上下左右にゆする…。
體内の筋肉は、必要に応じて応えてくれる。

抜いた草は、やがて又、大地に帰る。そして、土となり、
作物を育ててくれる…。
感謝である。

畑に立った時、私は天地をムスプ垂直線とともある…
即ち自らの正中心軸(正しい體幹)を得る…。

宇宙の中心の一点を、下腹に意識しだす…
全身にある心が、その一点に集まる…

天と地から、無限の氣が入るのを意識する…
體のチャクラーが微妙に振動を始める…
宇宙との一体感…。

そうなると、體には疲れがない…
體の動きが、波動が、體に備わった自然の
動きに同調する…。

鍬を剣に変えて大地に振り下ろす…
大地は快く迎えてくれる…

「合氣」への入り口である…。
posted by 弘心 at 09:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一滴の水に宇宙をみる

若州一滴文庫へ行った。
福井県大飯町にある。

作家水上勉氏が主宰されているを若州人形座の
拠点として、また宗教・美術・文学などの資料
展示する施設として約7000uの敷地に建設された
ものである。

水上氏の想いは、子供たちが本を読むことで人生や
夢を拾ってほしいということ、文庫の名称にもなっている
「曹源一滴水」の思想を顕彰するすることに在る。

大都市に建っているようなものはいらない。
都市の物まねはいらはいらない。
小屋でいい、という水上氏の想いをもとに建築された。

谷間に溶け込んでいくような佇まいの建物、
人を包み込み展示物がバックとして充分な役割を果たし、

互いに協調し合い、見る者に訴えかける空間をめざし、
それにふさわしい材料・工法が選ばれている。
(因みに、この建築物は、1990年に
中部建築賞を受賞している)

施設としては、本館を中心に、竹人形館、
くるま椅子劇場、竹紙工房、六角堂、茅葺館、庭園で
構成されている。

捨てられる竹の皮、笹を煮て紙をつくり、その紙から
人形の面をつくる。
竹ひごで作られた頭部に面をつけられて、竹で作られた
人形の手足。

着物を着せられて、命を吹き込まれて
様々な表情で演ずる人形。

まさに、捨てられるものからの再生である。人形が
いきる。

捨てられる一滴の水は、万物を育てる命をもっている。
雨は、水蒸気となった雲から、地上に落ちてくると一般的に
云われているが、ある説には、実は雨は、
宇宙の彼方から下りてくる。
その一滴の中には、万物の生命が入っていると…。

今年の注目すべく若手女性歌手。青山テルマの曲が
流れてきた。最愛の人に聞いてもらいたいと。

????????そばにいるね」
…どんなにはなれていても、いつもこころのなかにいるよ…

????????何ども」
…なんどもなんどもきみをおもって、未来をおもった…
posted by 弘心 at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月05日

心の再生

「少(わか)くして学べば、壮にして為(な)すあり。
壮にして学べば、老いて衰えず。
老いて学べば、死して朽ちず」

佐藤一斉の言葉である。
幕末の思想家であり、教育者であった。
この言葉を残して、八十八歳の生涯を閉じた。

戦後六十年余の現在を見た時、我が国の人間、人物と
その生き様、そして人間関係、人心の荒廃は著しい。

立派な大人も目先の金儲けに翻弄され、将来を担う
青少年の学識ばなれ、そして本離れ、それに加えて
、逆境に生き抜く意欲、気構え、志の有無に危惧する。

佐藤一斉のように生涯にわたって学習をつづける
「志」を失い、これがあらゆる混乱・低迷の原因に
なっているのではないか。

私は、合氣武道を「止観」することにその基本的
心構えを説く。

「運命」を「立命」にする、基本でもある。
posted by 弘心 at 13:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月03日

新しい村づくり

「ルーラル・アメニティタウン構想」この言葉を作ったのは、
もう、20年前位になる。

自然との共生・セミインディペンデンスな共同体・人間が
真の人間として尊厳を保ちながら、生きることの創造…
などをコンセプトにした。

自然の形態としての「ランドスケープ」は、
自然の法則(風・水・火・などが宇宙の動きと同化して
嵐風雨洪水火災などの現象によって、全てのものは、
水平に帰する動きをとる(すなわち、中心に向かって
集中する動き)。

しかし、私は逆に「再生」の形をとりたい。
自然とは、そのときどきの動き・働きに協調して、
一番バランスのとれた形をとろうとする。

その現象に逆らわないで、元の形に戻す。
そんな考え方をまず、ぺーパーロケーションで表現する…。

具体的には、自然を残し、山をつくり、池をつくり、
道はウッドブロックで覆う。、

樹木が道を守り、木漏れ日の中に佇む日本古来の
軸組み工法で組み立てられた木造の住居、太陽光と風力から
電力を取り出し、生活排水は全て七軒を一つにした

クラスターが協働で管理する合併槽と土壌浄化で行い
一切外部には排出しない。

一つの単位は250坪の土地に28坪の家が建つ。
その数は100戸。

約150坪の農園には、四季折々の野菜が作られ、
2本植えられたリンゴの木(総数200本)からは、
ワインが造られ、村の祭りに全員が食する。

百人が作る農業法人は、有機・無農薬・減農薬栽培。
生活者に直接販売する。その収益は公平に分配される。

そして、ルーラル・アメニティタウンは、その思想は、
ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーとも共通する。
そして、陽明学とも…。

舞鶴市に対しては、人口増・税の増収・地場産業の育成・
地域資材の活用…など、総合計画の思想にも相容れる。
手法は、「地上型コーポラティブ手法」をとる。

進みだした。


posted by 弘心 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

戻ってきた!

遅れてホタルが飛び始めた。
しかし、数は少ない。一時のように乱舞とまではいかない。
うれしい。

何故、例年より遅れているのか…。不思議。
明日は、上の畑に種を蒔く。

下肥えには肥料として毎年「ニームファーム」を使う。
ニームオイルを絞ったカスである。
これで土壌を活性化させる。

更に「ニームオイル(商品名よってこん)」を
定期的に噴霧する。
害虫が寄ってこないとともに、その生態、変態を阻止して
成長を止める効果がある。

定期的に施す肥料には「ニーム(商品名ドットナル)」。
これらは特定非営利活動法人都市問題総合研究所と
代理店契約をしている「四万十社」の製品である。

害虫には他社の製品より水に溶けやすく効き目が良い。
御かげで無農薬栽培が出来る。
人体には、無害であることは国が証明してくれている。

ミミズが驚くほど太く大きくなり、耕してくれる。
しかし、モグラがトンネルをつくる。ペットボトルで風車を
作って建てればその震動で防げる。

特にニームファームは、茄の苗の時の根切り虫や病原菌に強い。
御かげで、長い間収穫が可能となる。

「つるむらさき」が一面に芽を出している。間引いて
大きくする。
つるむらさきのお好み焼きは、美味である。

山菜には事欠かない。ノビルも花が咲き、種をつくり、
種を落としている。
二度目の新芽が出る。
これも、餃子やお好み焼き、炒め物として食する。

自然に生えたジャガイモも収穫出来る…。しばらくすれば、
茗荷が一面に出てくる。

山裾からの湧水は、小さな池に入り、池の下からの湧水と共に
洗い物、畑の水と恵みを与えてくれる。

これも何時かは、飲み水にしたい。
この土地の以前の持ち主は、飲料水として使われていた
歴史がある。名水とのこと。

池の傍にお地蔵さんがある。聞くところによると、
「目に効くお地蔵さん」とのこと。この水は腐らない。
先住者は、この水で目の病気を治されたという。

水をあげて、お願いをしている。どうか私と出会いを
させて頂いた人たちの目をお守りくださいと…。

社を新しくさせて頂くと約束をして、三年にもなる。
以前にも書いた。
今年こそ、材料は購入した。木を刻み、
ブロックを積み、屋根を葺き新しいところに入って頂く。

もう少しお待ち下さい。必ず今年はしますから…。

明日も、剣を鍬に持ち替えて、大地と対話する。
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2008年07月02日

天地異変

環境問題が少しづつ表面化して、人々が意識しだした
ように感じる。

その役割にはマスコミの役割が大きい。
私どもが、知る情報は新聞・テレビ・ラジオ等を
媒体として受けてにわたる。

そして、安堵感も危機感もその度合いに応じて、起伏する。
今、「G8サミット」に注目が集まった…。
しかし、「原油と食糧の双子の高騰」に翻弄されている。

今の世界の様態は、「土地や水、食糧、燃料などの
限られた資源をめぐる戦争は、人類の歴史が始まって以来
繰り返されてきた。
だが、そうした圧力が、地球上のほとんどいたるところに
同時にのしかかってきたことはこれまでになかった
(朝日新聞主催地球環境シンポジウムにおける英国の
ベケット前外相の言葉)」このことに尽きるであろう。

少し違う視点から見てみたい。
人間が起こす様々な事件や現象と、地球いや宇宙・自然が現す
現象がある。
このことには因果関係がないように思われて論じられる
場合が多い。

私はそうは思わない。私は合氣武道の解説でよく
「宇宙との調和」という言葉を吐く。

この宇宙に存在するものは、「総量不変の法則」にある。
人のいう現世と来世においても同じである。
すると、化石燃料の枯渇化、化石燃料の多量使による
CO2の増加、そして地球の温暖化。

温暖化による干ばつや日照りは、人間の生き死にかかる
主食物の生産を著しく減少させる…。

温暖化によるものは、それだけではない。海面が上がる。
農地が減る。
感染症の流行地図が変わるなど、災厄の拡大…、
大規模な人口移動の誘発…など、
限りなく、現状を変えようとする力が働く。

そうであろう。人の體に例えれば、病原菌の侵入には、
體を熱く、高温にして抵抗する。

さらには、體の骨格を再調整してそれに立ち向かう。
さまざまな體自身を変化させて元の状態に戻そうとする。

最近の自然災害、中国四川省の激震・我が国の東北地震・
季節感がない温度の変化・海流の変化が及ぼす魚の異変…。

人間においては、若者の無差別殺人、尊属殺人の激化。
仕事社会にあっては、弱肉強食の露な現象、
人間の尊厳性の壊失、

具体には、秋葉原の殺人事件など、食品偽装問題、
偽装請負問題、企業トップの資質の欠如…。

政治においては、議会制民主主義の崩壊、不信、
官僚腐敗、特に、後期高齢者医療問題、
おしぼりタクシーなど…。
まさに末期症状を呈している。

この不調和をどのようにして、修復するのか…。
もう人智では無理であろう。

動物がからだについた、余分な水滴を全身を振り動かして、
飛ばすように、地球も行うであろう。

関東にあっては東京大地震、東海地震、関西では、
京都の花折れ断層・黄檗断層、和歌山沖の南海トラフ、
大阪中心の上町断層…これらの地震はいつ起こっても
不思議でない状態にある。

このまま負の連鎖が続けば、世界で大規模災害が
それも同時多発的に起こるのではないか…。地球を元の姿に
戻すために…。
獣が身ぶるいするように…。

その時、初めて自然に対する畏敬の念が認識されるのではないか。
posted by 弘心 at 13:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

モディリアーニ展

6月30日、招待を受けていた大阪北区中之島にある
国立国際美術館へ行った。
内覧会・開会式・レセプションへである。

毎回招待して頂き、一般の方より、一足先に見ることが
出来ることは大変うれしい。島学芸課長には感謝で一杯。

しかし、不思議な絵である。モディリアーニの絵については、
何故か首の長い顔の長い、しかも、全体的に統一体の
様相ではなく、身体の中心軸も何故か、もゃーっと
している印象しかなかった。

どこにそ魅力があるのか、もう一つ分らなかった。

今回、世界中から集められた油絵・素描約150点の
出展により、国内では過去最大級規模の展覧会である。

この大阪会場では、モディリアーニの最後の作品と
されている≪自画像≫が展示され、彼の原点から
代表作までの全容を知るのに素晴らしいものでした。

この展覧会を通じて、深く知ることが出来たことは幸せである。
モディリアーニは1884年に生まれて、20世紀初頭に
パリのモンテンパルナスで活躍した。

彼の創造の原点は、アフリカやオセアニア、
東南アジアなどの民族美術においている。
すなわち、プリミティヴイズム(原始主義)に端を発している。

彼が一時、彫刻に意識をもった。その題材は、
「カリアテッド」(建築用語で古くはアテネの
アクロポリスにあるアレクテイオンの人柱に見られるような、
リンテル(マグサ石)支える女性像をいう)であった。

私の絵画に対する少ない知識から察するには、
彼が描く対象物は肖像画が多い。
その意味もプリミティヴイズムに潜む人間の
深層感覚で捉えた「物の本質」を描こうとしたのではないか…。
浅学の予断と偏見ではあるがそのようにも想う。

その意味で婦人像を観ると、彼がパリで道行く
高貴で優雅な女性を飽きることなくスケッチしたことは
頷ける。

その肖像画には、何故か、ものありげな、意味を含んだ
表情と肢体であることも伺える。

(不謹慎ではあるが、先のカリアテッドの素描を
最初見た時、なぜか通天閣の「ビリケン」と
「ウルトラマン」の顔が思い浮かんだ…)

是非、この機会に会場に足を運んで頂きたい。国際美術館のこの素晴らしく企画された展覧会に。
posted by 弘心 at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする