そういった面から考えていきますと、自己というものは全部相手と対立していることなのです。もし、相手が世の中にないとしてみたら、果たして自己ありやと考えてみると、自己というものはさようにして相手があった場合に自己がある。そして自己と思うもの自分というものを考えてみた場合、五尺何寸のからだがあって、これはみんな肉であり、皮膚であり、血であり、唾液であり、小便である。本当の自己というものは一口にいってこころだ。精神だ。しかし心、精神というものはあるのかないのか。いくらたたいてもどこにもないじゃないか。頭のてっぺんから足の先まで自己というものはちっともない。ところが相手がでてくるときはそれがふっと出てくる。怒るという自己がないはずの自分が、相手が怒らしたら、怒るという自己が起きてくる。笑うという自己がないはずの自分が、相手が笑わせると、笑うという自己がおきてくる。そうなってみると自己というものははたしてありやいなや。禅では、自己無なりというところに到達する。
自己無なり。自己無ならば相手も無なんだ。一切のものはことごとく無である。ことごとく無であるとするならば、生まれたというのも無であり、死ぬというのも無である。ここに初めて生死というものがない。自己がある場合に死ぬ。自己のない場合は死なない。こういうことなのです。
そうなれは自己がないとした場合、いかようにも相手が自己を脅迫しようと何しようと、ない自己に何をしているのだということで、ちっともこっちはくらつかない…。
有名な快川国師が織田信長に捕えられ、山門の上にのせられて、下から火をかけて焼かれた。一山の僧四十何人ことごとく火で焼かれたときに、あの有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉が出たのです。あの態度は自己無でないと出てこない。自己ありとせば、あるものがなくなるのに恐怖の念がないということはないはずです。自己無というところに立ってあの態度ができた。つづく
2008年08月26日
自己を観る
昭和36年頃だったように思う。
私は当時、「青春の門」をくぐっていた。
自己に対するというか、人生に対するというか、
生き方に対するこころの葛藤が渦巻いていた。
その時、当時、大徳寺塔頭徳禅寺住職の立花大亀老師の
もとで参禅していた。確か、当時で師は61歳位だと
おもう。痩せて華奢な体つきで、しかし、柔和な中に
眼光鋭く、こちらのこころを射抜くような
面ざしの方でした。
ある日の老師の話が、私のこころを変えた。
「…私たちが飯を三度食うのも、死ぬから食うのであるし、衣服をきるのも、着なくては死ぬから着るので、なにもかも、私ども人間のあらゆる働きに死ぬということにかかっておると思うのです。
だから死ぬことはそれでよいとして、生きている間どうあるべきか。
死ぬことを脱皮したうえの人間の在り方は、生活を極めて単純に、文化的にいきていきたい。生かしていくということです。これが人間の生きていく努力になってくるわけです。
禅宗ではまず何のために修行するかということが第一問題は、生死問題と言っています。…まず、死ぬということを解決する。その上で生きている問題を解決していく。この二つをカギとして修行が行われるわけです。そして、自分というものの今の立場というものはことごとく相手があるのです。そして、自分がすっかりすると、対者にとらわれている場合が大方なのです…。腹が減ったから飯を食う。これはいかにも自分です。
ところが、腹が減ったから飯をくうということになってくると、何を食ったらうまい、何が栄養になるかというような、つまり第二義的な観念がすぐについてきて、それは腹が減ったら飯が食いたいという無意味な感じではなくて、すでに第二義的な課題がそこにできてくる。
それは対者に自己をとらわれてしまっているのです。
はなはだしいものになってくると、自分がパチンコをしたいがためにわずかな金がほしい。それで運転手殺しをやるとか、立派な身分の人がデパートで万引きをしたとかいうことにもなる。それはみな相手に自己を奪われてしまっているのです…。つづく
私は当時、「青春の門」をくぐっていた。
自己に対するというか、人生に対するというか、
生き方に対するこころの葛藤が渦巻いていた。
その時、当時、大徳寺塔頭徳禅寺住職の立花大亀老師の
もとで参禅していた。確か、当時で師は61歳位だと
おもう。痩せて華奢な体つきで、しかし、柔和な中に
眼光鋭く、こちらのこころを射抜くような
面ざしの方でした。
ある日の老師の話が、私のこころを変えた。
「…私たちが飯を三度食うのも、死ぬから食うのであるし、衣服をきるのも、着なくては死ぬから着るので、なにもかも、私ども人間のあらゆる働きに死ぬということにかかっておると思うのです。
だから死ぬことはそれでよいとして、生きている間どうあるべきか。
死ぬことを脱皮したうえの人間の在り方は、生活を極めて単純に、文化的にいきていきたい。生かしていくということです。これが人間の生きていく努力になってくるわけです。
禅宗ではまず何のために修行するかということが第一問題は、生死問題と言っています。…まず、死ぬということを解決する。その上で生きている問題を解決していく。この二つをカギとして修行が行われるわけです。そして、自分というものの今の立場というものはことごとく相手があるのです。そして、自分がすっかりすると、対者にとらわれている場合が大方なのです…。腹が減ったから飯を食う。これはいかにも自分です。
ところが、腹が減ったから飯をくうということになってくると、何を食ったらうまい、何が栄養になるかというような、つまり第二義的な観念がすぐについてきて、それは腹が減ったら飯が食いたいという無意味な感じではなくて、すでに第二義的な課題がそこにできてくる。
それは対者に自己をとらわれてしまっているのです。
はなはだしいものになってくると、自分がパチンコをしたいがためにわずかな金がほしい。それで運転手殺しをやるとか、立派な身分の人がデパートで万引きをしたとかいうことにもなる。それはみな相手に自己を奪われてしまっているのです…。つづく
そばにいてね
あなたがいなければ
生きては行けないの
そばにいてね そばにいてね
独りにしないでね
そばにいてね そばにいてね
二人きりの 夢を見たいの
いつもこの手 握りしめて
そばにいてね
あなたが 恋しくて
夢でも 逢いたいの
そばにいてね そばにいてね
いつまでも変らずに
そばにいてね そばにいてね
私だけをずっと愛して
いつも肩を そっと寄せて
そばにいてね
あなたのぬくもりに
つつまれていたいの
そばにいてね そばにいてね
離れたりしないでね
そばにいてね そばにいてね
愛の子守歌を聞かせて
いつも抱かれ 眠りたいの
そばにいてね
今年の七月にでた新譜。作詞:朴健浩 作曲:金英光
日本語詞:三佳令二
この演歌は韓国の人の作詞作曲であることに興味がわいた。
メロディーは、非常に綺麗で、すぐに覚えられた。
繰り返しの言葉に感情を移入することが大事な歌。
何回も何回も詩を読み、好きな人のことをこころに
浮かべ、そして、その人に語りかけるように、囁く。
こころと詩のもつ意味がひとつになった時、メロディーに
乗せる
そうそう、歌い手は、「さざんかの宿」などのヒット作品がある
大川栄作氏である。
なぜ、大川氏が歌っているのか、彼は、非常に小節を
まわすことが上手な歌手で、この詩がそこまで小節を必要と
するのかは疑問と思う。
そんな独断と偏見はやめにして、大変上手。やはりプロ
なのである。
禅では人間のことを「半個」ということがある。
そして、半個半個で一個。すなわち、二人で一人という
意味である。人間は一人では生きてゆけない、と
いうことである。
同じ儒教のDNAを持つ東洋人、韓国の詩作り人の感性
に感心した。
今年のヒット曲になること、間違いなし。
年齢関係なしに、大いに歌ってほしい歌でもある。
愛氣で…
2008年08月22日
時代の流れ
もの心がついてから、半世紀が過ぎ去った。
そして、ファーストステージが終わり、セカンド
ステージへ何とか軟着陸をした。
二人の人生の師は、一人は亡くなり、ひとりは
その役割を終えようとしている。
一つは、自らの運命と対峙することを教えられ、
もうひとつは、自らのこころと體を直視することを教わった。
東洋哲学としての陽明学と合氣道である。
二つの教えが、今、一つに融合しつつある。
八年前に、舞鶴に新しい庵を設けて、大地との対話
すなわち武農合一「武と農の融合」を実践してきた。
半世紀にわたる合氣武道との関わりは、合氣の会得と
ともに大きく進化した。
いや、まだ進化しつつある。
武道はまさに「こころ」と「こころ」の対峙である。
すなわち、いかに、こころの孤高を保つか、である。
そして、心の触手である氣を相手に予測させない
ことが重要である。
そのためには、すなわち平常心をいかなる時にも
保持することが求められるのである。
體は、全身を弛緩させ、こころを静かに沈めて、
體の内部を意識してその内部を動かす
(205の骨と500の筋肉)
體が覚えている正しい動かし方が一番大事なことは
言うまでもない。
守・破・離
技・体技は體のもつ本来の自然の動きを再度體に確認する
作業に過ぎない。「守」を自覚する
「合氣」を会得し、こころが鎮まれば、技はもう必要ない。
すなわち、「破」である。
宇宙との一体感を自覚したとき、「離」となる。
自覚をして久しい。生きている間に、伝承することが
私に課せられた責務であろう。
そして、ファーストステージが終わり、セカンド
ステージへ何とか軟着陸をした。
二人の人生の師は、一人は亡くなり、ひとりは
その役割を終えようとしている。
一つは、自らの運命と対峙することを教えられ、
もうひとつは、自らのこころと體を直視することを教わった。
東洋哲学としての陽明学と合氣道である。
二つの教えが、今、一つに融合しつつある。
八年前に、舞鶴に新しい庵を設けて、大地との対話
すなわち武農合一「武と農の融合」を実践してきた。
半世紀にわたる合氣武道との関わりは、合氣の会得と
ともに大きく進化した。
いや、まだ進化しつつある。
武道はまさに「こころ」と「こころ」の対峙である。
すなわち、いかに、こころの孤高を保つか、である。
そして、心の触手である氣を相手に予測させない
ことが重要である。
そのためには、すなわち平常心をいかなる時にも
保持することが求められるのである。
體は、全身を弛緩させ、こころを静かに沈めて、
體の内部を意識してその内部を動かす
(205の骨と500の筋肉)
體が覚えている正しい動かし方が一番大事なことは
言うまでもない。
守・破・離
技・体技は體のもつ本来の自然の動きを再度體に確認する
作業に過ぎない。「守」を自覚する
「合氣」を会得し、こころが鎮まれば、技はもう必要ない。
すなわち、「破」である。
宇宙との一体感を自覚したとき、「離」となる。
自覚をして久しい。生きている間に、伝承することが
私に課せられた責務であろう。
2008年08月18日
夏野菜
畑の野菜がこれでもか、これでもかと実をつけてくれる。
おすそ分けの意味で、東京の親友宅にお送りした。
喜んで頂いた。大変うれしい。
胡瓜、ピーマン、万願寺甘唐、伏見の甘唐、蔓紫、
青紫蘇…などである。
農薬、化学肥料を一切使わないでの栽培であるので
安心して食することが出来る。
昨日、自然農法を提唱され、アジアのノーベル賞とも
いわれるフィリッピンのマグサイサイ賞やインドの
最高栄誉賞を受賞された福岡正信氏が亡くなられた。
95歳。
米や野菜作りにおいていかに人の手を省き、自然の力に
ゆだねるかを追及、土を耕さず無肥料・無農薬・無除草で
作物を育てることを特徴とする自然農法を確立した。
特に、アジアやアフリカ諸国の砂漠緑化にもかかわった。
海外では宗教哲学者しての評価も高い。
近いうちに、その一端を実践してみたい。
おすそ分けの意味で、東京の親友宅にお送りした。
喜んで頂いた。大変うれしい。
胡瓜、ピーマン、万願寺甘唐、伏見の甘唐、蔓紫、
青紫蘇…などである。
農薬、化学肥料を一切使わないでの栽培であるので
安心して食することが出来る。
昨日、自然農法を提唱され、アジアのノーベル賞とも
いわれるフィリッピンのマグサイサイ賞やインドの
最高栄誉賞を受賞された福岡正信氏が亡くなられた。
95歳。
米や野菜作りにおいていかに人の手を省き、自然の力に
ゆだねるかを追及、土を耕さず無肥料・無農薬・無除草で
作物を育てることを特徴とする自然農法を確立した。
特に、アジアやアフリカ諸国の砂漠緑化にもかかわった。
海外では宗教哲学者しての評価も高い。
近いうちに、その一端を実践してみたい。
三冊の本、プラス一冊
順番が逆になりました。先の本の紹介で、姜尚中氏の
本の名前は「悩む力」でした。訂正いたします。
「なぜ生きる」は、明橋大二氏(精神科医)と
伊東健太郎(哲学者)の共書である。
人生の目的は何か、について非常に分かり易く
書かれている。
しかし、人によって取り方が異なることも又事実である。
ひとつ言えることは、私が何時も弘心塾で話させて頂く
ことの中で、「今存在する自分は、必要である故に
生かされて存在している」、
という事実である。
「生かされて生きていることに意味がある」のである。
そのことは、人間だけに当てはまるのではなく、自然界の
全てのものに当てはまる。
そして、「目に見えない世界にこそ意識をおく」ことである。
すると見えないものが見えてくる…。
もう、自分は一人ではない…。命の尊さと生かされている有難さ
が沸き起こってくる。そして、他への働きかけに喜びを
見出す…。
それでは又、弘心塾で話しましょう。
本の名前は「悩む力」でした。訂正いたします。
「なぜ生きる」は、明橋大二氏(精神科医)と
伊東健太郎(哲学者)の共書である。
人生の目的は何か、について非常に分かり易く
書かれている。
しかし、人によって取り方が異なることも又事実である。
ひとつ言えることは、私が何時も弘心塾で話させて頂く
ことの中で、「今存在する自分は、必要である故に
生かされて存在している」、
という事実である。
「生かされて生きていることに意味がある」のである。
そのことは、人間だけに当てはまるのではなく、自然界の
全てのものに当てはまる。
そして、「目に見えない世界にこそ意識をおく」ことである。
すると見えないものが見えてくる…。
もう、自分は一人ではない…。命の尊さと生かされている有難さ
が沸き起こってくる。そして、他への働きかけに喜びを
見出す…。
それでは又、弘心塾で話しましょう。
三冊の本
「下流大学が日本を滅ぼす」「夫婦の格式」「なぜ生きる」
の三冊。
少子化による、「大学全入時代」を目前に私立大学の
定員割れが過去最高に、学生をお客様扱いにする大学に
社会に出て生き抜く若者を育てることができるのだろうか?
と「ひよわで、甘ったれ」と酷評。
さらには、今のキャンパスの現状を次のように表現。
・打たれ弱い、すぐ泣く学生が急増
・一人で大学に行けない学生
・批判されると泡を吹いて倒れる
・宿題を出すと怒鳴り込む親
・入学式は、祖父・祖母まで一緒に
・卒論を教授にタイピングさせる…
改めて考えさせられる本でもある。
著者は、下流社会シリーズを書く三浦展氏。
今の男女平等は、この国から何を奪ったのか。
混迷する現代男女関係を一刀両断。
そして、幸せに生きるための二人のルールとは?
・夫婦の間で男女平等はない
・一言あれば、直に女は納得できる
・子供の前で亭主をこき下ろすなど、言語道断…
「男を立てる」「内助の功」…そんな言葉はどこへ行って
しまったのか。今の夫婦に投じる画期的男女論でもある。
著者は、「渡る世間は鬼ばかり」橋田寿賀子氏。
文明がもたらす人間の苦しみを直視した夏目漱石と
マックス・ウェーバを手がかりに、苦悩を通して真に
強さを掴む生き方を提唱。
・何のために働くのか
・変わらぬ愛はあるのか
・何故死んではいけないのか
・信じる者は救われるのか
・悩みぬいて人は強くなる…
著者は、姜尚中氏。
これらの三冊の本を読んでみて、共通したものがあることに
氣が付いた。
それは、その病根として、劣化する現在日本の
経済・社会にある。
我が国は、歴史的に見て、人は一人では生きられない
ことを承知したうえで、血縁による大家族制や
地縁による共同体を形成し濃密な人間関係を築いてきた。
そして、下田沖に黒船が来てから、西欧に追い越せ
追い抜けと努力してきた。
その中で明治維新後の政府は、共同体を崩壊させ、
さらには戦後の外国からの強制的制度改革を受け
長い間にわたって培われた我が国の家族制度、
地域コミニティー。教育制度を一変させた。
特に教育は、日本人独特な思想を根底から変革。
徳川時代に培われた男女の教育思想(具体的には、子女の教育に重点がおかれた。なぜか、子どもはその国の将来を担う…、そして女性はその子どもを生み出す。人を創り出せるのは、女性だからである。その女性(母親)の精神的健全化は、ひいてはその国の存亡に関ることになるからである)を完全に崩壊させた。
橋本政権以降、市場原理主義が格差社会を作り出し、日本人としての精神的骨格を骨抜きにされた国民は建国始まって以来の受難の時代に突入した。すなわち、戦後の高度経済成長は大家族制を解体し、核家族を生み出し、バブル後は、それすら解体しつつある。
国家並びに企業は国民の生存・自由・幸福の保障と追及を自己責任の
もとに帰属させるかのごとく、制度・雇用を変化させてきた。
このような社会にあつては、特に若年層には生きる目的が絶望に変わっても不思議ではない。百数年経た現在、人間性希薄・無機質な社会に生まれ育った若者は残酷な親子・兄妹殺人が起こり、殺すにはだれでもよかった、という言葉となって絶叫する。
今、求められるのは、政治改革でもなく、その前に私たち一人一人の
意識改革てはないだろうか。
三冊の本からは、そんな声が聞こえてくる。
の三冊。
少子化による、「大学全入時代」を目前に私立大学の
定員割れが過去最高に、学生をお客様扱いにする大学に
社会に出て生き抜く若者を育てることができるのだろうか?
と「ひよわで、甘ったれ」と酷評。
さらには、今のキャンパスの現状を次のように表現。
・打たれ弱い、すぐ泣く学生が急増
・一人で大学に行けない学生
・批判されると泡を吹いて倒れる
・宿題を出すと怒鳴り込む親
・入学式は、祖父・祖母まで一緒に
・卒論を教授にタイピングさせる…
改めて考えさせられる本でもある。
著者は、下流社会シリーズを書く三浦展氏。
今の男女平等は、この国から何を奪ったのか。
混迷する現代男女関係を一刀両断。
そして、幸せに生きるための二人のルールとは?
・夫婦の間で男女平等はない
・一言あれば、直に女は納得できる
・子供の前で亭主をこき下ろすなど、言語道断…
「男を立てる」「内助の功」…そんな言葉はどこへ行って
しまったのか。今の夫婦に投じる画期的男女論でもある。
著者は、「渡る世間は鬼ばかり」橋田寿賀子氏。
文明がもたらす人間の苦しみを直視した夏目漱石と
マックス・ウェーバを手がかりに、苦悩を通して真に
強さを掴む生き方を提唱。
・何のために働くのか
・変わらぬ愛はあるのか
・何故死んではいけないのか
・信じる者は救われるのか
・悩みぬいて人は強くなる…
著者は、姜尚中氏。
これらの三冊の本を読んでみて、共通したものがあることに
氣が付いた。
それは、その病根として、劣化する現在日本の
経済・社会にある。
我が国は、歴史的に見て、人は一人では生きられない
ことを承知したうえで、血縁による大家族制や
地縁による共同体を形成し濃密な人間関係を築いてきた。
そして、下田沖に黒船が来てから、西欧に追い越せ
追い抜けと努力してきた。
その中で明治維新後の政府は、共同体を崩壊させ、
さらには戦後の外国からの強制的制度改革を受け
長い間にわたって培われた我が国の家族制度、
地域コミニティー。教育制度を一変させた。
特に教育は、日本人独特な思想を根底から変革。
徳川時代に培われた男女の教育思想(具体的には、子女の教育に重点がおかれた。なぜか、子どもはその国の将来を担う…、そして女性はその子どもを生み出す。人を創り出せるのは、女性だからである。その女性(母親)の精神的健全化は、ひいてはその国の存亡に関ることになるからである)を完全に崩壊させた。
橋本政権以降、市場原理主義が格差社会を作り出し、日本人としての精神的骨格を骨抜きにされた国民は建国始まって以来の受難の時代に突入した。すなわち、戦後の高度経済成長は大家族制を解体し、核家族を生み出し、バブル後は、それすら解体しつつある。
国家並びに企業は国民の生存・自由・幸福の保障と追及を自己責任の
もとに帰属させるかのごとく、制度・雇用を変化させてきた。
このような社会にあつては、特に若年層には生きる目的が絶望に変わっても不思議ではない。百数年経た現在、人間性希薄・無機質な社会に生まれ育った若者は残酷な親子・兄妹殺人が起こり、殺すにはだれでもよかった、という言葉となって絶叫する。
今、求められるのは、政治改革でもなく、その前に私たち一人一人の
意識改革てはないだろうか。
三冊の本からは、そんな声が聞こえてくる。
目の地蔵尊
敷地内に何故か、お地蔵さんが存在した。
訊ねてみると、「目の地蔵尊」とのこと。
前の所有者が工夫を凝らして、社を作られていたのが、
もう風化しているのを何年も前から、作り直そうと
思って今になった。
そのせいなのか、少し視力が悪くなったようにも想う。
いや、それはさておいて、基礎土台とするブロック、
セメント、建屋の木材などを買っておいた。
高槻からKさんが子供二人を連れて来てくれた。
基礎が出来、材木を刻むことが出来た、感謝。
後、一息で完成である。
敷地内の山裾から湧き出た水が、池の底からも
湧いている小さな池に流れ込んでいる。
昔は、生活水の全てをこの水で賄われていたようである。
今も、日常の洗い物や、畑の水がこの小さな池の水を
用いている。
想像するには、この水で目を洗っておられたのであろう。
その位、水は綺麗。そして不思議なことに腐ることはない。
50m離れた隣の家にも同じように湧き出ている。
調べてもらうと、名水とのことで、企業が買いに
来たそうである。
大切にしたい。
訊ねてみると、「目の地蔵尊」とのこと。
前の所有者が工夫を凝らして、社を作られていたのが、
もう風化しているのを何年も前から、作り直そうと
思って今になった。
そのせいなのか、少し視力が悪くなったようにも想う。
いや、それはさておいて、基礎土台とするブロック、
セメント、建屋の木材などを買っておいた。
高槻からKさんが子供二人を連れて来てくれた。
基礎が出来、材木を刻むことが出来た、感謝。
後、一息で完成である。
敷地内の山裾から湧き出た水が、池の底からも
湧いている小さな池に流れ込んでいる。
昔は、生活水の全てをこの水で賄われていたようである。
今も、日常の洗い物や、畑の水がこの小さな池の水を
用いている。
想像するには、この水で目を洗っておられたのであろう。
その位、水は綺麗。そして不思議なことに腐ることはない。
50m離れた隣の家にも同じように湧き出ている。
調べてもらうと、名水とのことで、企業が買いに
来たそうである。
大切にしたい。
オリンピック2
日本柔道連盟においてもこれからの柔道の行く末についても
、見解はまとまっていないように思える。
男子柔道にも、日本本来の一本勝ちにこだわる者と
JUDOを迎合する者がいる。しかし、日本のお家芸でもある
柔道として、あらたなルールが求められているのではないか。
レスリングと変わらないようであれば、本来の創始者の
想いは違った方向に行ってしまう。
例えば、相手の両足を両腕で抱え込んで倒す、諸手がり
などはレスリングのタックルと同じようなものである。
こんなもので、背中をつけて一本であれば柔道本来の
意味がない。
「効果」あるいは「優勢」とすべきであろう。
一瞬、その次の一手で相手の生命を断つ、と判断される
ような体制と技は、当然有効、効果とすべきである。
、見解はまとまっていないように思える。
男子柔道にも、日本本来の一本勝ちにこだわる者と
JUDOを迎合する者がいる。しかし、日本のお家芸でもある
柔道として、あらたなルールが求められているのではないか。
レスリングと変わらないようであれば、本来の創始者の
想いは違った方向に行ってしまう。
例えば、相手の両足を両腕で抱え込んで倒す、諸手がり
などはレスリングのタックルと同じようなものである。
こんなもので、背中をつけて一本であれば柔道本来の
意味がない。
「効果」あるいは「優勢」とすべきであろう。
一瞬、その次の一手で相手の生命を断つ、と判断される
ような体制と技は、当然有効、効果とすべきである。
2008年08月17日
オリンピック
北京オリンピックが今、話題である。
以前に柔道について書いた。
男子柔道はあまり振るわなかった。
柔道とJUDOの違いがはつきりとした大会でもある。
我が国の戦国時代における戦いは、武者どうしが
向かい合い、「我こそは…なり、いざ、勝負!」とお互いに
名乗りあって、切り結んだ。そこには、死を決して戦いに
臨む者の誇りと格式が感じ取れる。
その後、織田信長の歩兵による火縄銃の登場により、
如何にして、相手を早くしかも大量に殺すことが出来るか、
に戦い方が変化してきた。
まさに柔道の世界も同じような変化が起きていると
言っても良いのではないだろうか。
超百キロ級で金メダルをとった石井慧選手の言葉に、
「私にとっての柔道は、スポーツではない。戦いだ」
「綺麗な試合を望むなら、床体操に行けばよい。
勝たなければ、意味がない…」
この言葉は、まさに今の柔道の課題を物語っている。
武道で言う「勝ち」とは、どのようなことを指して
言うのであろうか。
「相手の命を先に奪うことで勝つ」ことが本来の
勝つ意味である。しかし、スポーツでは、「作られた
約束事即ちルールを先にクリアーしたものが勝つ。
つづく
以前に柔道について書いた。
男子柔道はあまり振るわなかった。
柔道とJUDOの違いがはつきりとした大会でもある。
我が国の戦国時代における戦いは、武者どうしが
向かい合い、「我こそは…なり、いざ、勝負!」とお互いに
名乗りあって、切り結んだ。そこには、死を決して戦いに
臨む者の誇りと格式が感じ取れる。
その後、織田信長の歩兵による火縄銃の登場により、
如何にして、相手を早くしかも大量に殺すことが出来るか、
に戦い方が変化してきた。
まさに柔道の世界も同じような変化が起きていると
言っても良いのではないだろうか。
超百キロ級で金メダルをとった石井慧選手の言葉に、
「私にとっての柔道は、スポーツではない。戦いだ」
「綺麗な試合を望むなら、床体操に行けばよい。
勝たなければ、意味がない…」
この言葉は、まさに今の柔道の課題を物語っている。
武道で言う「勝ち」とは、どのようなことを指して
言うのであろうか。
「相手の命を先に奪うことで勝つ」ことが本来の
勝つ意味である。しかし、スポーツでは、「作られた
約束事即ちルールを先にクリアーしたものが勝つ。
つづく
2008年08月05日
脳活性化術
脳科学者、茂木氏の話では、
「同じことを繰り返すこと」が良いと言われる。
フランスのワインづくりは、何百年も同じことを繰り返して
ワインがつくられてきている。
しかし、同じことでも、観察力が広がり、その過程で
研ぎ澄まされた感性と直観力が働き、新しいものが生まれて
くるのであると…。
「創造すること」創造とは、思い出すことである。
絶えず記憶をたどり、思い出すことが良い。すなわち
側頭葉から前頭葉の働きを活発化させる。
「何事にも意欲があること」が重要。
これらには年齢は関係ないとのことである。
以前に合氣道のホームページでも述べたように、
「止観(しかん)」という言葉がある。
この意味は、一つのことを深く極めて行くことにある。、
一つのことを継続して行じて、深めていくことにより、さらに
その物事の真理が見えてくる。
即ち、継続は力なり、の所以である。
私は、そのことを、農と武を通じて実践している。
合氣武道を通じて、一心不乱に求めていく中に、光明を
観ようとしているのである。
「同じことを繰り返すこと」が良いと言われる。
フランスのワインづくりは、何百年も同じことを繰り返して
ワインがつくられてきている。
しかし、同じことでも、観察力が広がり、その過程で
研ぎ澄まされた感性と直観力が働き、新しいものが生まれて
くるのであると…。
「創造すること」創造とは、思い出すことである。
絶えず記憶をたどり、思い出すことが良い。すなわち
側頭葉から前頭葉の働きを活発化させる。
「何事にも意欲があること」が重要。
これらには年齢は関係ないとのことである。
以前に合氣道のホームページでも述べたように、
「止観(しかん)」という言葉がある。
この意味は、一つのことを深く極めて行くことにある。、
一つのことを継続して行じて、深めていくことにより、さらに
その物事の真理が見えてくる。
即ち、継続は力なり、の所以である。
私は、そのことを、農と武を通じて実践している。
合氣武道を通じて、一心不乱に求めていく中に、光明を
観ようとしているのである。
攻めの行政
大阪府庁の移転が囁かれている。
今日、大阪市長と大阪府知事が意見交換があった。
現在の大阪府庁の建物は、上町断層のすぐ横に
位置している。
耐震的には、震度6で倒壊するそうだ。
耐震工事費には約160億必要。大阪市が今、
二次破産の憂き目にあるWTCは時価160億。
丁度良い値段である。ワールドトレドセンターは
バブルの時代に立てた総工事費約1200億の建物。
大阪府知事は、道州制を考えて考えているそうだ。
その意味では、位置的には丁度よい。
たしか以前に大阪府庁の建て替え計画は出来ていた。
確か黒川きしょう氏が基本構想・基本計画・
一部実施設計まで手掛けている。
私の在職時に、年次計画が示されていた…。
あの設計料は無駄だったのか。
いずれにしても大阪府は大きく変わろうとしている。
しかし、話題は変わるが、消費者物価指数が昨年の
十月からプラスに転じている。
年の六月で1.9。この数字が2以上になれば、
経済的には危険水位である。
インフレには、収入すなわち給料が上がれば良いので
あるが、上がっていないのに、物価だけが上がっていく…。
もっとこの視点に焦点を合わせた施策を国に求めると
ともに苦言を呈してほしい。
生活に伴う具体的な施策を打ち出すこと、
食糧生産施策を中心にした道州制を…。
その意味で若い知事に期待したい。
今日、大阪市長と大阪府知事が意見交換があった。
現在の大阪府庁の建物は、上町断層のすぐ横に
位置している。
耐震的には、震度6で倒壊するそうだ。
耐震工事費には約160億必要。大阪市が今、
二次破産の憂き目にあるWTCは時価160億。
丁度良い値段である。ワールドトレドセンターは
バブルの時代に立てた総工事費約1200億の建物。
大阪府知事は、道州制を考えて考えているそうだ。
その意味では、位置的には丁度よい。
たしか以前に大阪府庁の建て替え計画は出来ていた。
確か黒川きしょう氏が基本構想・基本計画・
一部実施設計まで手掛けている。
私の在職時に、年次計画が示されていた…。
あの設計料は無駄だったのか。
いずれにしても大阪府は大きく変わろうとしている。
しかし、話題は変わるが、消費者物価指数が昨年の
十月からプラスに転じている。
年の六月で1.9。この数字が2以上になれば、
経済的には危険水位である。
インフレには、収入すなわち給料が上がれば良いので
あるが、上がっていないのに、物価だけが上がっていく…。
もっとこの視点に焦点を合わせた施策を国に求めると
ともに苦言を呈してほしい。
生活に伴う具体的な施策を打ち出すこと、
食糧生産施策を中心にした道州制を…。
その意味で若い知事に期待したい。

