2008年09月29日

見識

一国の将来を担うべき役割を任じられた男が、又、
不用意な言葉を発してその役を辞めた。

今度は国土交通省のトップ。その前は一年間で四人も
変るという珍事を演じた農林水産省のトップ。

又、一国の総理大臣が二人続けて、途中でその役割を放り投げて
辞めてしまう…。

こんなことが日常茶番になってしまえばこの国は滅びて
しまうと危惧するのは私だけではないだろう。
いつからこのような事態になったのであろうか。

昔にも短期で辞めた総理大臣もいた。しかし、その理由が
ことなる。

石橋湛山氏の場合は、病というものに勝てなくて、仕方なく
野に下った…。健康であれば、彼は又違った国づくりの
秀でた手腕を見せたであろう。

田中角栄氏はロッキード事件で辞任した…。しかし、
私が直接会った限りでは、一般のマスコミの批評とは全く
ことなった人物であった。

以前にも書いたが、何か大きな渦(外国の国益という
名のもとに、精密に仕組まれた罠に嵌められた感がある…)
に巻き込まれたのではないか…との想いが強い。

このように、病あるいはスキャンダルによって辞めた人物は
少なくない。

しかし、今のような状態はなかった。
情けない話である。

その人の持つ言葉・語彙はその人の教養の高さを示す。
教養とは、一流の大学の門を潜ったかどうかではなく、
その人の生まれてからこのかたの生き様、何を考え何を
なさんとして生きてきたか、にある。

その結果が、内面から迸る言葉となって、吐き出されたとき、
人は感動と感銘にひたるのである。

人間、一度吐いた言葉は消えない。言葉として相手に出す
までに充分思慮深きことが必要なのである。

それは、言葉は言霊として、相手に入る。
思いつきでものを言って、すぐに取り消すなどは
言語道断である。

自らの人格の軽薄さを露呈していることに
氣付くべきである。

「こころが體を動かす」、ことへの見識が確かめられる
ことにも気付くべきであろう。

それには、「知識」を「見識」とすること。更には、「胆識」
「節操」を学びとることである。
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2008年09月16日

世界同時恐慌

アメリカのリーマンブラザーの倒産。
この破たんは、底知れない怖さがある。

アメリカの経済はサブプライムローンに端を発して
倒産の連鎖を懸念している。

銀行の貸し渋り、いや「貸し渋り」ではなく、
「貸し止まり」が常識となつているという。

我が国の企業に対して、銀行の貸どまりを底支えを
して来たのが外資系の民間機関であった。
その代表かリーマンプラザーである。
その会社が倒産した…。

アメリカではすでにAIGなど、次の倒産企業の名前が
囁かれている。
FRBは明日、新しい金融政策を出す。

我が国はどうか。
今日、日経平均が約600円、大きく下落した。

そして、株不安から国債に資金が集中、あまりの上昇に
ストップを命じた。
半年前に黒字決算の上場会社が突然倒産…。こんなことが
今、常識となった今、突然の悲劇が起こるであろう。

銀行の貸どまりが引き起こした悲劇。
金融機関も機関どうしの貸し借りに疑心暗鬼になっている。
連鎖倒産の前に、信用不審の連鎖が起こっているのである。

人間が人間を信用しなくなるような社会は、破滅に向かう。
アメリカがクシャミをすれば、日本は風邪をひく、
と揶揄されている
我が国は、これから苦難の道を進むと予測する。

今まで無かった集中豪雨などの自然災害の突然の多発、
食品関係会社の偽装はとどまるところがないほどの
広がりを見せいる企業倫理の低落、簡単に人を殺す
人心の荒廃…、社会保険庁の組織ぐるみの年金改ざん等…
範をたれるべき官が、不信の頂に存在する…。

まさに、世紀末の様相を呈してきた。

田舎で自然を相手に、大地と対話しながら…、天地の
声をきく。
「合氣」の進化に身をゆだねる…。

世界がどう動こうが、関係ないと思い切り…、今を生きる。
こんな時代に師、安岡正篤先生が生きておられればどの様な
言葉で表現されるであろうか。

やっと「地蔵尊」の社が出来上がった。
明日、基礎を調整して、据え付ける。
三年かかった。

今の世の様相は、目に見えない世界から試練の
メッセージであろう。
こころしたい今の世相である。

田舎からの発信、これからも続けていきたいと思っている。
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2008年09月14日

西舞鶴は季節の変わりが激しい。
真夏から、あっという間に秋の気配に変わる。
日中は暑い。しかし、日が陰ると山の樹木の間から
冷気が下りてくる。

クツワムシが鳴き、チンチロリンとマツ虫。
かすかに鈴虫が鳴いている。自然の中の虫の
鳴き声は何故かしら、鋭く大きく感じる。

もうすぐに、スゥイーチョンと馬追い虫が鳴き始める。
秋本番には、雑木林は色づき、そして冬支度を急ぐ。
すべて葉を落とし、大地へと返していく。

そして、土となって、又、春の手助けをする…。
生命の輪廻に氣づくとき、秋を感じる。

中国の古書、采根譚に次のような言葉がある。
…春則生…寒則殺…、春はものを生み出し、冬はすべてを
殺す…というような意味で、その本位は、「…心の冷たい人は、
人関係も貧しく、生き方も貧しい。しかし、心の暖かい人は、
人を和やかにさせ、楽しく愉快な人生をおくることができる…」
ということである。

こころを豊にするのも、貧しく資するのも、こころの持ち方
で決まる。

合氣武道は、その意味でこころを知るには、一番を言えよう。
それは、すべての體の動きにその表武者の生きて来た証が
表現されるからである。

指導者は、體技の型だけの指導ではなく、その人間の全てを
把握して、如何に生きるかという内面にまで氣を向けた
指導が求められる。

まさに、運命との対峙、そして運命を変える立命に向けて
の指導が、指導者に求められるのである。

格闘技である合氣武道は、最終的には、命のやり取りで終わる
のが一般論である。

しかし、自らの運命を変え、立命とする努力は、人に対する
想いと、社会に対する敬虔な行為があってはじめて可能となる。

秋は、「こころ」を感じる時期でもある。
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2008年09月08日

半農半武X

古書店で何気なく手にとった一冊の本、「綾部発 
半農半Xな人生の歩き方88}。
著者は塩見直紀氏とある。読んでみて共感した。

氏は二十代後半から「本当のゆたかさとはなにか」に
疑問を持ち、さらには環境問題・食糧自給率への関心が
サラリーマンを決別させ、綾部の実家に帰って農業に…。

「半農半X}とは何か。氏は持続可能な農ある小さな
暮らしをベースに自分の得意なことや大好きな仕事を
して社会に生かしてゆくこと」と定義している。

さらに氏は、半農と言っても農業のみを指している
のではない。
生命を生み出す大地に、関心を寄せ、自然の生命と
共感することが出技る感性と自らの生き方に
氣付くことであると…。

一度伺ってみたいと思っている。

私は平成7年に「阪神淡路大震災」を体験し、それから
約二年掛って地域防災計画・防災都市づくり計画を
策定した。

このことは以前にも書いたが、通常他の市町村は
コンサルタントに委託する。
しかし、コンピュータでの解析以外はすべて自作である。
他市と比べて十分の一以下の委託費で策定した。

話を戻そう。そう何が言いたかったかというと、
自らの生命保持に必要な最低限のもの、即ち水、食べるもの
などは、自分で作り出すことが大事であることに
気づいたのである。

今、西舞鶴の小さな集落にお世話になって、村の人々の
生活を見てその感を一層強くした。

もともと人間は生きる為に必要なものは自分で作り出していた。
そのDNAは誰にもあるはずである。

それが時代とともに、農業社会から工業社会、そして
知価社会、IT社会と変遷してきた。それとともに、
一次産業が衰退していった。

この二十一世紀は、「帰農の時代」あるいは「水の時代」
と言われて久しい。
すべての人々に農を…というつもりはない。
しかし、「自分は何によって生かされているか」をもう一度
振り返る時期にきていることには間違いない。

表題に「半農半武X}と書いた。
農と言えるものではないが、土地はある。そして、現在無農薬で野菜作りにせいを出している。
米以外は何とか出来る。

そして武を通じて、求め来る人たちと共に人生の妙を語り、
生かされていることを自覚する。
そして少しでも社会のためにと、浅学を振り絞って
考える毎日でもある。

何れ米も作りたい…。表札にはこう記してある
「NPO法人 都市問題総合研究所
・農村と都市交流センター」と。
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2008年09月07日

講習会余話

帰り道、お茶を飲みましょうということになった。
舞鶴の道場のOさんは、時間の関係もありやむなく帰られた。
高槻の四人、雑談が弾んだ。

その中で、やはり仕事に対する様々な想いがある。
特に、人間関係。そらそうであろういくら科学が発達
したとはいえ、最後は同調をうながし、お互いの合意形成
が完成しなければ、人は生きてゆけないのである。

PCや携帯電話でメールで意思を伝える、又、様々な情報を
掴む、そして判断、決断をする。

しかし、えてして自分の独りよがりが出てしまう。
相手の真のこころの中を読み取れないで、感嘆詞や
短い言葉から、独断と偏見が始まる

人間関係がギクシャクするということは、大抵そのような
ことが発端となって、深見にはまり込んでしまう。

時間が経てはなおさら重症になる。
リーダーとなったものは、特に氣を付けなければならない。

まず、相手のこころのうちを十分知ること。
そのためには、相手が主題に対して、「もう話すことはない」
と言わしめるくらい、相手の立場になって、訊く姿勢が肝心。

その時も「聞いてやる…」というような態度が微塵も
出してはいけない。ひたすらに慈顔温容を保つ。

さらには、適度な相槌を打ち、相手が話しやすい雰囲気作り
にも氣をくばる。特に氣を付けなければならないのは、
相手の言葉をさえぎってこれが正しいという口調で
主張することは厳禁。

そうしている間に、相手のこころの内を把握する。
そして相手のやる気を潰さないように、言葉を選んで
これからは、こちらの考えを述べる。

「…君のいう、このてんについては、少しこのような
ことも入れてみたら、どうなるかなぁ…」
「君のことだか、もうすでに考えていると思うが…」など。

「清水に魚棲まず」のたとえがあるように、「正論」では
仕事は進まない。

何が正論かは、断定することはできない。正論の意味は、
「道理の正しい議論」ということである。

すなわち、道理が整って初めて議論になる。
大方は整っていない議論となっている可能性が高い。

ここには、双方がお互いの全てを吸収するくらいの
腹が出来ていなければならない。
すなわち、「清濁あわせのむ」度量が必要。

そのためには、如何なる場合にも心が静まっていることが
求められる。

次に、相手の全体(こころと體」を読む。以前にも述べたように
「氣」は「こころ」の触手であり、絶えず外に向かって
出ていく性質をもつ。しかし、こころは内に向かう性質を
もつ。

だから、「氣」の出が弱まってしまうと、引きこもりになり、
ひいては、心因症の様相を呈してくる。

自らを変えていく特効薬はない。
師の安岡正篤先生は運命を変えること、この努力こそが
人間に与えられた偉大なるものであるそれは
「立命」であると喝破された。

日々の積み重ねが実るのである。
そのためには、まず、意識改革から始めよう。
継続は力であることを認識しょう。

合氣武道はそのための、一つの方便である。
その意味で、講習会などに参加するのは意義ある
ことで、あの人がどう変わっていかれるか、どうなられ
たか…、見せていただくのも、これまた楽しい。
又、雑談しましょう。
posted by 弘心 at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月06日

昇級段講習会

久し振りに受験者をつれて参加した。
二代継承者の籐平信一君になってから、形式が変わった。
新しい組織にしたい、との彼の想いが伝わってくる。

参加者約四十人、指導員をも含めるともっと増える。
心身統一合氣道会大阪本部の代表の山本師範が、軽快な
語り口で、話していく…。

統一道のテスト。なかなか時間のいるものだ。
16項目の氣のテストを一人一人行う、これも
根気のいるテストである。

しかし、この受験の効用は、座禅と同じといえる。
受験者の最初の関門、心身統一合氣道の初段の受験である。
それから、このプログを読んでいるという人に会えた。
Sさんという人である。
一度舞鶴をご案内しましょう。是非来て下さい。
posted by 弘心 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月03日

夏が終わった…

肌をさすような暑さが、朝夕には肌寒く感じるようになった…。
夏野菜も胡瓜はもう、枯れ始めている。
しかし、万願寺甘唐、茄、伏見の甘唐、青紫蘇、鶴紫はまだ
勢いをつけている。

突然の総理大臣の辞任…。「またか」との思い。
なぜか歴代の首相は二代目、すなわち二世議員である。

昔の企業の経営者は、世襲的に子息を将来、後継ぎと
考えた場合、帝王学を学ばせた。

それを政治家に見た場合、そのような教育は無かった
としかいえない。

責任感のなさ、決断のなさ、即ち精神的中心と
なる哲学が無いと言っても過言ではないだろう。

そして、「言葉」がない。
相手を十分納得させるような、さらには心惹かれる様な
大向こうを唸らせるような言葉がない。

それに比べて、米国の大統領選挙に見られるように、
人を引き付け、感銘をさせるような言葉が吐き出される。
人々は、その言葉に夢を託す決心をする…。

「オバマ」氏が「チェンジ!」の一言で、人々の心を
掴んだように…。

言葉には「言霊」が宿る、と言われている。
前途多難である。
posted by 弘心 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月02日

自己を観る

そして、お互いに悟りを得ようとする境地になっていくならば、こんな騒がしい世の中はなかろうじゃないかという、世の中に対する大きな悲願、慈悲が必然的に起きてきます。その悲願とともに、自分に与えられた職業なり何なりに向かって突進していくということは、宇宙の中を非常に浄化せしめ、つまり仏教でいう極楽の世界をつくらんとする眼心であり、おそらくキリストでいうところの天国の再来をつくらんとする気持ちであろうと思います。
そういう気持ちになった場合、それは仏教的にいうならば、仏の立場において人間の世界に飛び出している。ですから他の人間的ないざこざ、人間的なことに対して。びくともしません。それはいうならば、名誉とはいったい何であるか、地位とは一体何であるかというような根本的な原則から解決できていますから、地位にも恋恋とせず、名誉にも恋恋とせず、ただし、地位がある人ならば、世の中を済度していくのに都合がよろしい、名誉があるならば、多くの人たちを済度するのに便利です。そこに地位も認め、あるいは名誉も認めていますが、すでに名誉に拘泥していない。つまり婬して婬することがない。これが根本的な大きな自己の据え方の原則です。ここから出発しなければ自己は定まるものではない。死を常に眼前に追うてびくびくして追って自己の定まることはない。
 まず、生死解脱、生死脱皮、それは無の哲学に徹しることです。無の哲学を頭の上で解剖して、わかったとか、知ったとかではいけない
。それは人間的なひとつの脳の働きにすぎないのであって、かえってじゃまになる。自分は理論的には無の哲学がわかった。ところが死が迫ってきた時に、いっそう自家撞着に陥って矛盾が多い。それなら知らん方がいい。知る以上は、知るという言葉じゃなくて、徹するという言葉、つまり、自分の五体がその中に溶け込んで来て、それを擁する、だからまず自己手段というものから入っていかなければならない。…………省略…………。

このなような内容であつたように思う。
私は「…自己手段というものから入って…」については、
合氣武道を通じて教えます。

そして、陽明学の「知行合一」として実践してく。
つまり、人格を涵養する、そのために心身統一合氣道を
用いているのです。

自らの運命を正しい方向に変えていく、
つまり「立命」とするために…。

たまには、弘心塾にいらっしゃいませんか、
お待ちしております。
posted by 弘心 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月01日

自分を観る3

………略………
白隠禅師は、「動中の工夫は、静中の工夫に勝ること百千万倍」といいました。工夫ということは、自己がいかに無であるかどうか、一切の万有であるかどうかということを見極めんとする心構えをいっているのですが、動中の工夫は静中の工夫に勝ることが百千万倍だというのです。これをしいて禅的に言うならば公案とでももうしますか、公案とは一つのなぞを解決せざればおかずというような考え、もし自分が無であり、他も無であるということを主張するならば、はたしてそんなものがあるかどうかを自分が一つの概念として持って、それを果たそうとするその心組みを公案と名付けています。そして自分がじっと考えていくなのらば、それは座禅のときに限らん、飯食っておろうが、セッチンに行ってクソたれておろうが、その工夫を続けていくとは静かな座禅に勝ること百千万倍といいます。
しかしそれは口でいえばそれだけですが、なかなかできるものではない。電車にのっても、あっちの顔も見、こっちの顔も見る、出来事もおこるといったふうで、そんなにじっとかんがえられるものではない
。しかし、本当に注意力があるならばそは可能である。
こうして四六時中自己無なりというものが如何にあるかということを念頭におくと、それは自分を殺している姿だということを言っているのです。自己というものは常に瞬時のひまなく起きている。その起きている自己を、念頭にあるものをじっと殺す。その姿はもう自己を殺し尽くしている姿です。
禅では、その殺してなにもかも自己を殺しきった時、初めて自分が無なら無と思うている公案にガチッと合う日があるというのです。これを悟りといっています。自己を殺して、公案と自己がガチッと一つに打ち解けてしまう。そして起きてきたものが悟りである。その悟りは無の公案に徹したものですから、他も自分もないということがそこで初めて力強くわかるわけです。
まず禅の修行の行き方は自己を殺すその殺し方です。それはちらっと瞬時の間自己を殺すことはできます。けれども、長く続けて本当に徹することは、容易ならん時間を要します。そして自己を殺した中から出てきた自己がほんとうの自己だといっているのです。今までの自己はうその自己だった。他についてまわった自己だった。そこからパッと出てきた自分は本当の自己であって、この自己は宇宙のはじめから終わりに至るまで関連した自己だ。われわれ人間は宇宙のなにもののしわざかしらん。ただ両親いうものをかりてでてきてはおりますが、決して両親の中に私があったのじゃない。両親がまだ赤ん坊のときに、私を生む能力も、私の体のタネも何もないはずです。ところが春季発情期に至って、その恋しい、慕わしいという人間の欲望が起きてきて、これが製造した。
 すると赤ん坊は春季発情期以前にはなかったかというと、そうはいえない。あったじゃないか。形の上からいくと、一体人間はどこから生まれてきたか。これはおそらく宇宙が太陽系統からパッと出てきて、この辺でうまいこと宙ブラリンにぶらさがっていて、その中には一切の万物をつくるところの機能があって、その機能が非常に複雑怪奇に集まって出来上がったものが人間である。そう考えてみると、私どもの生命力は宇宙にあるはずだ。その宇宙にあるもの、天何おかいわず、死わかれ、地なにおかいわず、万物生死せしめるもの、これが生命力というか、宇宙の一切のものをつくるのです。
おそらくキリスト教ではこの万物創造のものを「神」というているのじゃないでしょうか。仏教は創造とは申しません。創造以前です。
 この「一機」というもの…これは言葉に出ないのですが、これは仏と名付けているのです。ですからこの仏は宇宙に遍満しているわけです。猫になり、犬になり、牛になり、馬となり、私になる。これは何かの因縁で姿をかりていますが、同じ元素です。仏教では「草木国土悉皆成仏」という言葉がありますが、草も木も猫も杓子も仏である。セッチンのダラ虫も仏であるといっているのはそこなんです。
「悉仏性」と言っていますが、自己は無なりといったところへパッと来た自分というものは、この宇宙の氣息にふれて生きている。これは本当の自己であり、同時に仏であるということです。宇宙に遍満している自分である。ただここに時間、空間をかりて、ある種の因縁が凝結してそういう形をなしている。この私という形のものは消えていくでしょう。けれどもこの消えていくものがすでにこの宇宙には先に遍満しておったものだということがわかります。そうなると自分はない。同時に一切のものがあるということが、あるがままにここに肯定せられます。これを肯定するならば、この世の中をこんない毎日ケンカばかりして騒がしゅうしていることをなんとか救わなければいけない。
つづく
posted by 弘心 at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする