2015年03月23日

「財団法人 氣の研究会を振りかって」

戝団法人氣の研究会」を振り返って
昭和46年9月16日、元合氣会総師範部長 合氣道十段藤平光一先生が、私財を投じて財団法人氣の研究会を厚生省認可のもとに設立されました。この事実は、わが国はもとより世界の合氣道界には、大きな刺激を与えました。
合氣道の真髄を求めて止まない多くの人たちは、全国津々浦々から藤平光一先生のもとに駆け参じました。その熱気たるや大変なものでありました。
年に数回開催されました千葉県勝浦にあります日本武道館研修センターには、全国から参加された人たちで溢れかえっていました。
当時から44年過ぎた平成26年度で解散致しましたが、日本及び世界に「合氣道」を広められた功績は、実に偉大なものであります。
しかし、日本においてはその功績を抹殺しようとする動きがあります。
現に合氣道創始者植芝盛平翁から最高段を允可された師範の中で、みずからの合氣道の技の実力で、世界にその成果を示された師範は、皆無に等しいと見ることが出来ます。

合氣道創始者植芝盛平翁を、生涯師として仰がれ、師の難解な言葉の中から、「合氣道は、相手の氣を導いて崩し投げる…」即ち、「氣」について悟られて、それを合氣道の技に具現化されました。即ち、「心が身体を動かす」原理を会得されたのであります。

そして、合氣道創始者植芝盛平翁の説かれる合氣を引き継がれたのであります。植芝盛平翁とは、説明の仕方、指導方法は異なりますが、伝えようとされる内容は全く同じであります。
藤平先生は常々「合氣道から「氣」を取り去れば、唯の踊りと一緒である…」と言われた言葉が今も鮮明に頭に残っています。

私たち藤平光一先生の門下生として、この厳粛なる事実を忘れてはなりません。
今、藤平光一先生が残された「心身統一道・心身統一合氣道」という道燈を二代継承者藤平信一会長が守り育てておられます。

さて、戝団法人氣の研究会が設立されて、五年目に「戝団法人氣の研究会五年の歩み」という冊子が今から約40年前に、限定数で発行されました。その中で主だった方々の言葉を紹介させて頂きます。藤平光一先生が如何に世界の多くの方に影響と感動を与えられたかがお分かりになります。


氣の研究会五周年記念によせて
毛利松平   元国務大臣 元環境庁長官 衆議院議員
私と藤平会長との最初の出会いは、昭和11年5月であった。当時私は慶応本科二年で柔道部の副将をしていた。その日、慶応予科の柔道部の日吉の合宿に行ったので在ったが、一人の新入生が負けん気になって、熱心にけいこしているのが強く印象に残っている。それが藤平会長であった。早生まれの上に中学四年修了で慶応の試験にパスして入学したとかで、他の学生より二歳は若く、多分満十六歳位であったろう。童顔も未だ抜けきっていなかった。
卒業後お会いしたのは、昭和15年6月満州撫順炭鉱に於いてであった。満鉄に奉職し、三千人の青年隊の隊長をしていた時であった。当時、恰も東亜に戦火が拡がり風雲益々急を告げるに至り、学生の海外渡航は一切禁止され、満州、支那大陸に日本の学生の姿を見かけなくなった。そんな時、不意に慶応の学生二人が尋ねてきた。藤平氏と藤井驍一氏であった。どうやって渡航したのかと聞くと、南洋木材の専務をしている知人に頼んで、臨時航員として、船員手帳も正式に作ってもらい、ボルネオで木材買い付けをし、それを上海に運ぶ船に便乗したと云うのである。上海でその船と別れ、南京、徐州、済南、天津、北京から蒙古を経て満州に入ってきたとの事であつた。後年、合氣道普及にアメリカを始め海外諸国を飛んで歩く旅行癖は、この頃からあったのかも知れない。
その年の暮、私が所要で日本に帰った時、慶応柔道部の後輩が集まってくれた。私は、学生時代、柔道の他に植芝盛平先生について合氣道をも学んだ。合氣道も今の様に流暢な優雅なものではなく、激しい武道であった。余程道心堅固なものでなければものにはならない。慶応柔道部で、誰か之を極める者はいないかと、みんなの顔をみながら心で物色したが、これはと思う顔がない。
その中に藤平氏の顔があった。「うん、これなら立派にやっていけるだろう」と心に思い「百人力の先生がいる。君はこれから行って習わないか」と名刺に紹介状を書いて渡した。藤平氏はニコッと笑って「ハイ」と言っただけであった。
一つの事を三十年続けるという事は容易ではない。藤平会長はそれ以来今日まで、三十六年という長い月日を唯一筋に道を求めて精進されて来たのである。
その間、禅・美曽岐・滝の修行など、あらゆる修行を極め、遂に合氣道を単なる武道から脱皮させ、心身統一の大道、人間の正しく生きる道として集大成させたのである。今や国内はもとより、海外に広く之を普及し、世界の人々より感謝渇迎されている。その努力さる事ながら、世界中の人々に人類の副音を
もたらした功績は誠に偉大なものがある。
ここに氣の研究会の五周年を心から祝福すると共に。藤平会長の益々の御精進御奮闘を祈って止まない次第である。

藤平先生へのメッセージ
ジョージ・R・有吉  ハワイ州知事
藤平先生のハワイにおける御活躍について述べ、先生の合氣道の紹介と教えを通じてのハワイ州民の生活への多大な貢献に感謝することは、私の大いなる喜びとする次第であります。
1953年に合氣道を単なる護身術やスポーツとしてではなく、生活に対する全く思想的なアプローチで、しかも、全ての人間にとって恩恵を与えるものとして我々は初めて本格的に学んだのであった。
それ以来、藤平先生は何度もいらしては、合氣道に入門し肉体的にも精神的にも稽古をしている人々の輪を広げて行きました。最近になって、この偉大なる先生はハワイに氣の研究会を設立し、合氣道の真髄であり、また、我々にどのようにして日常生活での人間関係に会氣道を生かしていくかを、よりよく理解させるところの、氣の思想の原理を教えて下さいました。
ハワイ州は、藤平先生が教えと書物を通じて何千人もの州民を、より豊かに、より楽しく、より健康的な生活をさせて下ったことに感謝いたします。我々は
この素晴らしい先生がおやりになる全てにおいて成功なさいますよう祈ります。
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posted by 弘心 at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月04日

映画「KANO」が描く日台の絆

台湾全島が熱狂した。昭和6年、全国中等学校優勝野球大会に台湾代表として出場した嘉義農林が、内地の代表を次々と下し、決勝戦に進出したのだ。現在、夏のビッグイベントとなった甲子園球場を舞台に繰り広げられる高校野球の大会に、当時日本の統治下にあった台湾から代表としてはるばる海を渡ってやってきた台湾南部の嘉義のチームの健闘は、台湾のみならず、全国の人々に感動を与えた。日本人、台湾人。台湾先住民からななる混成チームの善戦、健闘が大きな要因であった。
野球のみならず、ダムを建設し嘉義と台南の平野部を一大穀倉地帯に変え、今日でも台湾で尊敬されている八田與一を登場させるなどストーリーを作っていった。
徹底した人選と演技指導がなされ、監督は先住民が日本に対して反乱をおこした霧社事件を扱った映画「セデック・バレ」を製作した魏徳聖。一番のキーとなる近藤兵太郎監督役には香港映画にも出演したことのある演技派の永瀬正敏を起用した。
 野球をテーマとする映画で難しいのはフォームやプレーがひどいとしらけることだ。約千人ま野球経験者の中から13人が選ばれた。特に嘉義農林のエース兼4番の明捷役には名門輔仁大学の現役野手、曹佑寧が抜擢され徹底的な演技指導を受けた。企画から4年、2014年2月に完成した映画「KANO」は、全島優勝時を再現して、台北から特別列車を仕立て、関係者一同が嘉義に向かい、駅からかっての嘉義の練習場へパレードした。6万人以上か参加し、冒頭から大変盛り上がった。上映開始にあたり「日本の植民地支配を美化するのか」「あんな映画は見るな」といった声も聞かれた。関係者は「観てから批判してほしい」と訴え、一度上映されると大変な人気を呼んだ。
人々に広がる感動と共感
台湾では映画のエンディングマークが出ると、配役、製作関係者、協力者の名がスクリーンに映っている最中でも、観客はどんどん帰ってしまうのが普通だが、「KANO」に限って「終わり」と同時に拍手がおこり、主題歌が終わるまで誰も席をを立たなかったという、
3民族が協力して近藤監督のもと必死でプレーを見せる。特に甲子園に来て決勝進出まで3連投の対中京商業戦では、右人さし指の爪がわれ血染めのボールを投げ続ける呉投手と、それを励ます監督とチームメートの姿に台湾の若い層は感動の涙をぬぐいながら映画館を出てくるありさまだった。
 史実とは若干時期のずれがあるが、ダム完成で水田に水が流れて行くもようと嘉義農林の甲子園出場決定をダブらせる手法も効果的で9月に再上映となった。昭和6年の台湾と日本を舞台とするため、近藤監督と選手の会話はじめ住民の話す言葉のほとんどが日本語で観客は字幕で理解する以外ないのだが、青春ドラマ、人間ドラマとして純粋に楽しめる内容が共感を呼んだ大きな要因であった。
日本でも1月末から限られた映画館とはいえ、全国で上映が開始された。
中国、韓国と関係がぎくしゃくする昨今だが、戦前の台湾でこうした出来ごとがあったこと。なぜ現在、台湾の人々がこの映画に共感するのか、ぜひ見て考えてほしい。(産経新聞、正論。池井優慶応大学名誉教授)
台湾全島が熱狂した。昭和6年、全国中等学校優勝野球大会に台湾代表として出場した嘉義農林が、内地の代表を次々と下し、決勝戦に進出したのだ。現在、夏のビッグイベントとなった甲子園球場を舞台に繰り広げられる高校野球の大会に、当時日本の統治下にあった台湾から代表としてはるばる海を渡ってやってきた台湾南部の嘉義のチームの健闘は、台湾のみならず、全国の人々に感動を与えた。日本人、台湾人。台湾先住民からななる混成チームの善戦、健闘が大きな要因であった。
野球のみならず、ダムを建設し嘉義と台南の平野部を一大穀倉地帯に変え、今日でも台湾で尊敬されている八田與一を登場させるなどストーリーを作っていった。
徹底した人選と演技指導がなされ、監督は先住民が日本に対して反乱をおこした霧社事件を扱った映画「セデック・バレ」を製作した魏徳聖。一番のキーとなる近藤兵太郎監督役には香港映画にも出演したことのある演技派の永瀬正敏を起用した。
 野球をテーマとする映画で難しいのはフォームやプレーがひどいとしらけることだ。約千人ま野球経験者の中から13人が選ばれた。特に嘉義農林のエース兼4番の明捷役には名門輔仁大学の現役野手、曹佑寧が抜擢され徹底的な演技指導を受けた。企画から4年、2014年2月に完成した映画「KANO」は、全島優勝時を再現して、台北から特別列車を仕立て、関係者一同が嘉義に向かい、駅からかっての嘉義の練習場へパレードした。6万人以上か参加し、冒頭から大変盛り上がった。上映開始にあたり「日本の植民地支配を美化するのか」「あんな映画は見るな」といった声も聞かれた。関係者は「観てから批判してほしい」と訴え、一度上映されると大変な人気を呼んだ。
人々に広がる感動と共感
台湾では映画のエンディングマークが出ると、配役、製作関係者、協力者の名がスクリーンに映っている最中でも、観客はどんどん帰ってしまうのが普通だが、「KANO」に限って「終わり」と同時に拍手がおこり、主題歌が終わるまで誰も席をを立たなかったという、
3民族が協力して近藤監督のもと必死でプレーを見せる。特に甲子園に来て決勝進出まで3連投の対中京商業戦では、右人さし指の爪がわれ血染めのボールを投げ続ける呉投手と、それを励ます監督とチームメートの姿に台湾の若い層は感動の涙をぬぐいながら映画館を出てくるありさまだった。
 史実とは若干時期のずれがあるが、ダム完成で水田に水が流れて行くもようと嘉義農林の甲子園出場決定をダブらせる手法も効果的で9月に再上映となった。昭和6年の台湾と日本を舞台とするため、近藤監督と選手の会話はじめ住民の話す言葉のほとんどが日本語で観客は字幕で理解する以外ないのだが、青春ドラマ、人間ドラマとして純粋に楽しめる内容が共感を呼んだ大きな要因であった。
日本でも1月末から限られた映画館とはいえ、全国で上映が開始された。
中国、韓国と関係がぎくしゃくする昨今だが、戦前の台湾でこうした出来ごとがあったこと。なぜ現在、台湾の人々がこの映画に共感するのか、ぜひ見て考えてほしい。(産経新聞、正論。池井優慶応大学名誉教)
忘れられた嘉義農林の活躍
日清戦争の結果、台湾を領有した日本は、植民地当時の一つとして野球を利用した。野球を普及させると同時に、満州、朝鮮とともに外地の中学の代表を日本で行われる全国大会に参加させ、内地との一体化を図ったのである。
だが、やってくるチームの選手はほとんどが日本人であった。現地で生活する日本人子弟が通学する学校が予選を勝ち抜いて出てくるのが通例だった。
台湾代表も大会参加以来、台北一中など日本人選手で構成される台北のチームがは8年連続して甲子園にやってきた。しかし、近藤兵太郎が南部の嘉義農林の監督を引き受け、民族にこだわらず選手を集め、猛練習で鍛えた結果が台湾の地方大会を勝ち抜き、代表として海を渡って甲子園への道へとつながったのである。
この嘉義農林の活躍は戦後の台湾ではほとんど忘れられた出来ごとであった。
50年にわたって統治した日本に代わって台湾を統治することになった国民党政権は、日本時代の遺産を払拭するため、野球もその対象とし、ましてや3民族結束がもたらした甲子園の成果など消し去りたかったのだ。
だが、リトルリーグの世界選手権優勝など、野球が台湾の一体化に効果が在ると判断した政権の方針変更で、ついにはプロ野球まで創設されるに至った。こうした状況の変化の中、先住民が日本に対し反乱を起こした霧社事件を扱った映画「セデッく・バレ」を製作を魏徳聖監督が、この映画のリサーチ中に資料を見つけ、「これは!」と思い、存命中の出場選手はじめ関係者にインタビュ―するなどとして脚本を仕上げた。(正論から抜粋)
私は、野球の顧問として、王貞治氏の名前もあり、技術的指導もあったと推測している。漢民族・先住民・日本人からなるチームを、日本の要人から、指摘を受けると近藤兵太郎監督は、「民族は関係ない!全く関係ない!夫々の若人が一つの目標に向かって頑張っていくことに意義がある!何が問題なのか!」と語気を強めて言い切る場面は、この映画の一つの山場だと思っている。

 私は、過去の台湾の人達、並びに今の人達から、本来の日本人の姿はどうであったか、又、日本人としてどうあるべきなのか、ついて多くを学ばせて頂いた。
児玉源太郎・後藤新平・新渡戸稲造などの先達が台湾でおこなった施策についても
人によって異なる批評もあることは承知しているが、彼らは、少なくとも植民地としての対応ではなく、日本の領地として本土と同等同様な考えで台湾の近代化に臨んだと理解している。私は戦後の教育を受けた。封建制度・教育勅語・修身…、などの言葉には、充分な理解を放置したまま、心をとざしてきた。しかし、今改めてその中身を思慮した時、今の日本人が、忘れさせられた、ものがある。と実感している。
台湾の人達から、その想いを、思い起こさせてくれたことに、深く感謝するものです。私は、心身統一合氣道という武道を通じて、台湾の多くの人達との6年にわたる交流を重ねて来た。台湾に、和を重んじる日本精神、武士道精神を、そして、人をつくり、組織をつくり、国をつくる為の「四維」すなわち、「礼・義・廉・恥」を涵養して、人格の涵養に少しでも役に立てればこれほど嬉しいことはありません。













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posted by 弘心 at 14:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする