2022年02月25日

今日の言葉

今日の言葉

天業

「その人の尊い人間内容がにじみ出てくるとこれを徳業という。
それが更に徹底した人間の真理に結びつくようになると道業となる。
ついに自然と人間とを一貫して繁栄することを天業という。」

この言葉は、私の師、安岡正篤先生から学んだ。
齢八十数年にして、八合目にいる…。
しかし、頂きに立つのは、時間の問題と自覚している…。
「人間の真理」とは如何なることか…。さらに、「自然と人間とを一貫…」とは何か。私はまとめてそれは「四無量心」と解釈している。
私は高等学校・大学時代、熱烈な精神的要求から、悶々として西洋近代の社会科学から、宗教・哲学・文学などの本を貪り読んだ。ダンテ、ドストエフスキー、トルストイ、ニーチェ、ワイルド、マルクスなど耽読した。さらにセネカや、モンテインやパスカル,アミエルなども好んで読んだ。
しかしどうしても不満や焦燥の念に駆られ、内心の安立には程遠いものを感じた。やはり少年のころから親しんだ東洋哲学の書にかえった。
私心の的を得たのは、生涯の師、安岡正篤先生から学んだもの以外はない。
「天業」こそ先生が求められたものだと確信した。今、師の後を追っている…。
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2022年02月23日

植芝盛平翁に教わったこと。

九年前の表武……西舞鶴教室の映像…。(フェイスブック参照)

その後、9年間…心について (何のために生まれてきたのか、今、何のために生きているのか、心は何処にあるのか、心とは何なのか) 探求し続けた結果、その真理を得ることが出来た……。「すべて心で始まり、心で終わる」そして、「心が身体を動かす」。
合氣道の技、すべてが大きく変わった…。

植芝盛平翁から四つの言葉を学んだ。
〇「わしの合氣は、米糠二合持つ力があれば出来るんじゃ…」これは、力はいらん、ということであった。氣で行え…心を導きなさい、ということであった。そして、合氣の極意は、力を抜くこと「リラックス」である、と自覚した。

〇「合氣は愛である」…と言われた….これも難解でした。
しかし、これが「争わざるの理」ということであった。
更に、難解なのは

〇「我即宇宙」〇「我舞えば天地舞う」という言葉。
全てにおいて、目的達成には自らが主となれ。心と身体が調和のとれた自然体・統一体となれば、即ち、天地(宇宙)と一体と化しているのである…。その主たるものがひとたび動き出せば、天地(宇宙)舞うのである…。ということである。すなわち、敵がない。

植芝盛平翁は、合氣というものを神がかり的な表現で捉えられたが、実は、意味深い言葉で伝えられた。
翁先生は、「おくやまちゃん、もっと強く持ちなされ…、ほれ、もっと強く…」なぜか転がされた…。今から思えば意味の取り違えをしていた。
力ではなく、氣で強く…ということでだった。

最後に教わったのは、植芝盛平翁は「合氣は呼吸」…相手が息を吸う瞬間の時が相手の隙なんじゃ…おぼえときなはれ。」いかなる時も、先に動き入っておられた。
実はこれが極意……氣の次に大事だったのである。

翁を生涯の師として仕えられた高弟の藤平光一先生は、合氣会退会後、40年経って、合氣道は「力を抜くこと」が極意と述べられている…。
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2022年02月18日

高槻市総合センタ建設のおもいで

高槻市総合センター建設のおもいで

昭和から平成にかけて都市工学・土木工学を専門として、高槻市の多くのビッグプロジェクトに携わってきた。そして、ルドルフ・シュタイナーの人智学とともにゲーテアーヌムとの出会い、わが国に初めて「ルドルフ・シュタイナー」「シュタイナー学校」「シュタイナー教育」を紹介された子安美智子先生、高橋巌先生、上松祐二先生(世界観からの建築)との交流。子安美智子先生を高槻市へ招聘して講演会を開催したことは懐かしい。そのことが建築工学との関わりとなった。

私は高槻市総合センター建設準備室長として、高槻市で一番高い中高層建築物、「高槻市総合センター」の設計を任された。
当時大阪府下で初めての設計コンペによる作品となった。
京都大学川崎清教授を委員長とする「高槻市総合センター設計審査委員会(デザインは京都大学工学部建築学部教授川崎清先生、建築様式は京都大学工学部教授川上貢先生、構造は大阪大学教授鈴木計夫先生、建築計画は大阪大学教授紙野桂人先生、都市計画は大阪工業大学光崎教授…行政関係は高槻市市議会村田君江議長、高槻市奥本務助役)を立ち上げた。
審査委員会をつくるにあたって、各大学にお願いの為、訪問した。委員長にはJR京都駅の設計委員会の委員長をされた京都大学の川崎清教授にお願いをした。先生は意匠・デザインが専門分野。何度も大学にお伺いをして了承を得た。同じ大学の川崎貢教授は、建築様式が専門で高槻市に在住、私の高校の先輩であつた。大阪大学の紙野桂人教授は、建築計画が専門であるが福祉施設の設計を主に手掛けておられた。鈴木計夫教授を紹介された。光崎教授は高槻市の都市計画分野でお世話になっていたためお願いをした。どうしても女性の委員を思い当時高槻市議会委員長をされていた村田君江議員にお願いをした。女性の議長は、当時大阪府でも初めてで話題になった。大阪薬科大学卒で理路整然と話されて議長として素晴らしい方でした。後に叙勲を受けられた。
奥本助役は、元教育委員会の部長を歴任、後に高槻市長。
素晴らしいメンバーを選出させて頂いたと自負している。

一級建築士100名以上を有する等を条件とする五社を選び各社に250万円の設計料を提示してコンペを実施した。この手法は、大阪府下で初めてであった。
私が設計コンペにあたり、示した条件は、
○高槻市のラウンドマークとして評価できるデザインであること。
○名神高速道路、国鉄東海道本線、阪急電鉄、東海道新幹線からの展望に耐えられるデザインであること。
○屋上にヘリポートを有すること。の三点であった。

後日談であるが、何故ヘリポートなのか…、市議会の特別委員会で設計概要等の説明をした時、一議員から此の必要性についての質問が出された。税金の無駄遣い…とでも言いたかったのであろう。言うまでもなくヘリポートは、ヘリコプターの発着場である。火災の時、85mの高さには、はしご車はとどかない、人命第一と考えた場合必要としたからである。
「人の命は地球より重い」と常に標榜している政党の議員に対して、「ヘリポートの費用は約4千万…。此の事業費が安いか、高いか、無駄なのか、人の命をどのように考えておられるのか…。」逆に質問をした。「…………。」納得されたようだった…一件落着。
本来は質疑応答のルール違反なのである。市の吏員は、全く関係の無い質問が出されてもそれに応えなければならないのである。答弁のみで質問はしてはいけないことになっている。前代未聞としてお叱りを受けたが、柳に風と受け流した。
さて、設計コンペの中から最優秀作品の選出であるが、市民会館の一室に審査委員の各先生方を招聘して審査に及んだ
その様子は、まる一日かけて、各社の作品を一堂に展示して、一社ずつの個評と総評を頂いた。口頭で述べられた内容は、さすが大学の教授で素晴らしく要点を確実に表現された内容は、感嘆を覚えたのを今も思い出す。
結果、五社の中から安井設計事務所の作品が選ばれた。

注目すべきは、小さな建物だが構造形式は、東京都庁がスーパーストラクチャーと呼ばれる大架構方式であるので、高槻はメガストラクチャーで行きます、と安井設計の小野構造課長に半冗談交じりで話した。実は、現実になった。
簡単に言えば、両脇に一棟ずつ鉄骨で大架構を造りその架構に各階の床構造を吊り下げていく構造である。この構造は驚くべき効果を表わした。具体的には、通常はコンクリート打ちの床には、小さなクラックが生ずるのであるが
この構造にはそれが生じなかったのである。

設計内容は、市業務スペース、図書館、小ホール(300人)、無柱空間で吹き抜けの大エントランス(小コンサート、展示会など可能スペース)、軽食喫茶、15階にレストラン他…)、そしてヘリポートなどである。
図書館と小ホールの設計は大変勉強になった。小劇場は特に音響装置には氣をつかった。残響音にはクラシックコンサートにも耐えうる内容にした。これらは自慢の一つである。これで高槻市には大ホール・中ホールそして小ホールと揃うことになった。しかし、美空ひばりの公演に大ホールが使用されたが音響装置が悪い為、嫌われた経緯がある。
設備においては、特に空調は、建物内のキャパシティーMAXの人の出す熱量、季節毎の温度・湿度・外気温・日射量など勘案して設計をした。さらにエレベーターは各階に滞留する人員をPCで計測して、多い階に優先して止まるように…。しかし、エレベーターについては、この案は予算の関係で不発に終わったことは残念…。当然耐震設計には充分配慮している。ガラスを多く使ったデザインだがマグニチュード8でも割れない構造とした。中水道は採用出来なかったのは残念…。

スーパーゼネコンO社の技術力と相まって大変好評を得た…。総工事費は、建物、設備等で約250億。建物は今も健在である。
(余談であるが、この建物の地下一階リハーサル室を、「心身統一合氣道高槻教室」として使用させていただいている)
つづく
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2022年02月05日

我が青春時代

我が青春時代

社会に出て、地方公務員として38年を過ごした。在職中での人との出会いは4,721人。「人との出会いは、決して偶然ではなく必然である」と学んだことが自分を大きく変えた。
都市工学を学び、街づくり、道路・橋梁・衛生工学と関連施設、都市公園、都市緑地、市街地再開発事業、鉄道工学と鉄道の連続交差事業、地域防災計画…など多くのプロジェクトを基礎調査・基本計画・実施計画・施工まで携わった。

当時人口十万人の高槻市は、市歌にも唄われているように、
市歌(昭和22年10月15日制定 芳賀 武 作詞 西川得了 作曲)
東真澄める淀の水 西ははるかに妙見の
眺めすがしき北摂に 誇る緑の健康地
沃野の幸の満ところ おお田園の高槻市
おお田園の高槻市
(西川得了先生は、私の一中時代の音楽を習った恩師である。今になれば、田園都市…というのは、はばかれる思いですが…)
当時は、おお田園の高槻市…田んぼばかりで、木造平屋建ての国鉄高槻駅から遥か淀川の向こうの枚方市まで一望できた。

街の骨格作りとして、環状線として市道野田下田辺線を新設。そして市道番田大塚線、西の川原塚脇線、二中西線。都市計画道路阪急北側線、都市公園…、など多くを手掛けた。
今から思えば、エべネーザハワードの田園都市論に沿った街づくりの根幹を総合計画の基本構想とすればよかったのに…と後悔している。

昭和40年代に入って、大きく変貌する。高槻市は、京都大阪の中間に位置し、それぞれ15分で行ける…。その為に人口急増都市として全国的にも有名となった。おおよそ10年で人口が倍になったのである。人口増の為、宅地造成があらゆるところで進み、まさに宅造ラッシュであった。
一つの例として、児童の数が増え、学校の新設の為の費用は市の総予算額の60%を占めるに至った。
その為、教師も全国行脚をして確保。更には、大阪府の教育委員会が不採用とした人員までも確保するに至った。これが後に、教育上の大きな問題を抱えることとなる。
同時に、この為、高槻市のインフラ整備は、大きく後退した。
又、民間のマンション計画が乱立して、日照問題、環境問題など地域住民との係争問題が起こった。
建築主から建築基準法に基づく手続きが市になされた場合、市は一定の条件が成立すれば、二週間以内に許可をせざるを得ない状況が生じた。
当時はまだ環境アセスメントなどの言葉さえなかった時代。市は苦慮することになった。
そこで、高槻市は将来、開発される地域を定めて、先にこのような事業計画であれば許可する、というマスタープランを作成することにしたのである。
それが功を奏して、開発業者と地域住民との係争問題は少なくなった。

しかし、宅地造成事業法に基づく宅地開発は、一定の割合で道路・児童公園などを確保しなければならない仕組みになっている。実際出来上がった児童公園などは、開発区域の一番隅っこに作られたり、断崖絶壁の上に、あるいは長い階段の上に造られたりしている場合が多々ある。そこには、将来住む子供や高齢者のことは、二の次とされたのである。便利なところは、宅地して…という利潤追求が優先した。

私が公園緑地課長をしていた時、宅造法関係の計画には、市が先に造成計画を作り、さらに事業の損益分岐点をはじき出して、造成主に示し、適切な公的敷地を提出して頂いた。そのことにより住民の使い勝手のよい公園などがうまれたのである。

行政は、難に為に存在するのか、地方自治法の理念にあるように、「地域住民の生命と財産を守るため…」にある。
このことを自らの中心において業務を行えば間違いはない。
                            つづく
posted by 弘心 at 13:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする