ボランティア活動23年間の思いでの一端を紹介
高槻市在職期間に特定非営利活動団体高槻ウェルエージング協会(ボランティア活動その他)を立ち上げて23年間にわたって活動をした経緯がある。その中で移動入浴車をもちいて、在宅における寝たきり老人等への入浴援助事業を8年間実施した。勿論ボランティア活動として無償である。
その実績を一冊の本に纏めて提言書として、市議会を動かして市民の権利である「請願書」を出した。各会派へ説明を重ねて全会派が賛同。民間業者に依頼すれば在宅での入浴一回3万円以上かかるものが行政(高槻市)の事業として実施されることになった。このようにすれば出来るという実績にともなう提言書が功を奏したのである。
そういった活動中に、高槻ロータリークラブから講演依頼と共に、文化基金を頂いた。以下はその挨拶文である。
高槻ロータリークラブからの福祉文化基金贈呈表彰式における挨拶
1999・4/21 西武百貨店バンケットR
ただ今ご紹介いただきました、高槻ウエルエージング協会代表幹事の奥山でございます。
この度は、皆様方の会から贈呈・表彰を賜り、厚く御礼申し上げます。
私共の会は、昭和58年3月に6人の発起人で設立いたしました。16年前でありました。しかし、この会が誕生するまでには、胎動機関としてさらに10年ほどさかのぼります。当時、高槻市市街地再開発部の企画室長としておりましたおり、大阪医科大学衛生学公衆衛生学教室の吉田寿三郎教授との出会いが発端であります。国際老年学会の理事などを歴任され、老年学に対しての造詣が大変深く、当時既にわが国の世界でも類を見ない速さで到来する「超高齢化社会」を先進国であります北欧の国、スエーデン等との対比をされ、警告をされると共に、その処方箋を「日本老残」「デイケアーのすすめ」などの著書において、詳しく述べられたのであります。昭和48年、今から、26年前のことであります。
吉田先生の話は、アカデミックな内容で、私のような門外漢には理解をするには大変苦労いたしました。
先生は、大阪医科大学退官後、「日本ウエルエージング協会」会長として活躍されています。4年前国連からわが国最初のNGO(ノンガバメントオーガニゼーション:非政府団体)として、承認されております。
そして私共は地域に根ざした実践の場として、「高槻ウエルエージング協会」を設立いたしました。
この16年間、活動を進めて参りましたが、女性を中心とした30人あまりのボランティアが主力であります。その中でも、「在宅における寝たきり老人等への入浴援助事業」は、最初手作りの機器を用いての入浴援助、そして「愛は地球を救う委員会」から贈呈を受けた移動入浴車での本格的な入浴援助活動を8年間実施いたしました。
そして、人間の命と尊厳にかかわるものは行政がおこなうもの、という結論をもって市議会への請願を行い市の制度化となったのであります。
このように私共は、ボランティアとは、自由意志の人であると共に、無償性・継続性・提言性に基づいた活動に裏付けられなければならないと考えるのであります。分かりやすく言えば世直しの為の草の根運動の主役でもあります。
私共の会が発足してから、社会福祉に関して様々な施策や言葉が生まれて参りました。長寿社会大綱から始まって福祉六法の改正、ゴールドプラン、新ゴールドプラン、介護保険法の制定、成年後見法の制定等であります。
経済面では、バブルの時代からバブル崩壊、低成長、ケインズ経済の終焉、新経済論としてのミルトンフリードマン、小さな政府。不況。リストラ、PFIなど、ボランティアに関しましても、阪神・淡路大震災以降ボランティア元年などと勝手に位置付けて、様々の官主導型のボランティアが生まれました。防災ポランティア、災害ポランティア、砂防ボランティアなど。大阪府がボランティア活用の為の指針とした「おおきにボランティア」など、ある意味では、ボランティア自身充分考えなければならない時期に来ている、と想うものであります。
その意味で、昨年、設立15周年記念事業と致しまして、俳優加藤 剛主演の「草刈り十字軍」という映画と、モデルであり実践者の足立原實氏の講演会を実施いたしました。内容は、今から二十年前富山の山岳地帯を舞台に、営林省が人手不足から行う農薬散布に反対をして植林された数百ヘクタールの山の下草刈りを全国から集まった若者が刈り上げるというものであります。
決して、阪神・淡路大震災の年がボランティア元年ではないということ、「心に正しい動機付けがなされれば、どんな場合でも人自ら動く」、そういう心を今の若者も含めて,皆持っているんだ、ということを言いたかったのであります。
わが国にもNPO法が制定され、非営利団体も生まれて参りました。アメリカでは、NPOに当たるCDC(コミュニティ・ベイスト・ディヴィロップメント・コーポレーション)が、まちづくりにまで参画をして、今日のアメリカでは、非常に重要な役割を果たすにいたっているのであります。話がそれてしまいました。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉があります。
私共は未熟であり、経験から学ぶことしかできませんが、今後、皆さん方のお力添えをいただきながら、頑張って参りたいと思っております。
これを持ちまして、表彰を受けましたことへのお礼の挨拶とさせて頂きます。ありがとうございました。
2022年06月23日
2022年06月02日
六老師の恩
今は亡き父からの相伝と老師
父、奥山喜太郎は1916年、岡山県苫田郡で生まれる。小椋喜太郎は大阪市北区池田町の奥山鉄工所、奥山家に養子として入る。奥山鉄工所を継ぐ、後に大北工業株式会社に発展、東京・名古屋・岡山に支店を置く。私が三歳の時から父は工員を相手に不思議な技を用いて修練をしていたのを幼心に記憶があります。これが後になってから解ったのですが、八光流柔術でした。父は、八光流とともに若柳流の名取でもありました。父は、後に自らの流派として「邇心流合氣武術」と名乗っています。私は父から解らないまま工員と一緒に約五年間学びました。一時途絶えた時期があります。これは父と母が離婚をして父は東京支店に滞在することが多くなったからです。私が東京での四年間の生活は邇心流を徹底的に教え込まれた時期でした。さらに、鉄工所の工員は肉体労働のため、體に大きく負担がかかり、足腰を痛めることが日常的でした。その時、父は、「手当」をしている姿がありました。これは人の體の表30裏14の経絡に沿って指圧をするもので、その時既に「氣」について理解していたようです。後に父は武術として「邇心流合氣武術」。八光併伝療術の皇法指圧から整体術として「氣之體壓療法」を創出致しました。八光流の始祖奥山龍峯氏は明治34年に生まれた方で五歳の時脳膜炎を発症。東洋医学を学び、政治活動とともに武術の修行。大東流合氣柔術武田惣角氏に師事。全国を回って多種多様な武術、武芸十八般を学び。医学については、大東盟舍の平田了山、東洋醫道会総裁南拝山について心理療法・東洋医学を学び、後の「皇法指圧」を生みだす。指圧師の浪越徳次郎氏と親交を深める。そして八光流はあらゆる戦技武道、凶器武道を否定し、ひたすら個々の身を護るための新しき日本人の心と人格を築き上げるために伝道されるものと位置づけて世界に伝道されて行きました。八光流の概要です。父が工員に施していた體壓療法は、普通の指圧とは全く異なっていました。勿論、施す相手に自らの「氣」を送り込むことを重要視しますが親指と掌を多く用います。特に親指での體壓には、三指法を用いるものです。三指法とは、@触れてA圧してB離す、のことです。当ては「親指」が主です。即ち三段階で行うことが重要でこの「離す」ことが特に重要なのです。そして上記44の経絡に沿って三指法を行います。一つの経絡への施術が終わりますと、掌での體壓を行い終わります。父は、八光流の併伝療術以外にも西式健康法、日本最初の健康体操である自彊術を学んでいました。その中から氣の體壓療法が生まれたものと思います。平成11年に亡くなりました。亡くなる前に、二つのものを私に託しました。一つは、「邇心流合氣武術」二つ目は、「氣之體壓療法」です。この二つの相伝を、私は絶やさないことを父に誓いました。その為に今、後継者を創ろうとしております。随分と前の話ですが、高槻市在職時に「ミューヘンの小学生」の著者子安美智子先生を高槻市へお招きして、講演会をさせて頂きました。確かその頃に早稲田大教授、高橋 巖先生の「ルドルフ・シュタイナー 教育講座講義」を受講していました。その中で「古代ギリシャの教育と日本の武道(心身統一合氣道)の関係とルーツは古代ギリシャにある…」述べられていました。又、上松裕二先生の著、「世界観からの建築…ルドルフ・シュタイナー論」は私の建築観に大きな変化を与えました。懐かしい想い出です。
昭和31年頃だったと思う、東京日本橋高島屋屋外ステージにおいて、合氣道創始者植芝盛平翁の合気道がはじめて公開された。父に連れられて見たのが合氣道という武道でした。
不思議な動きと技でした。150cmほどの小柄な老人が、驚くような速さで動き、触れただけで投げ飛ばしている…。その後には、このような場面は2度と見ることが出来ない。
この風景が私の武道へ誘った原点でもある。父の技とも違う…。後に合氣会へ入門。真の合氣武道を求めて「氣」を説かれる合氣道会最強の藤平光一先生に師事、中村天風師に心が身体を動かす原理を学び、一九会で山岡鉄舟の高弟日野鐵叟老師に人としての生き方を学ぶ、安岡正篤先生から東洋哲学の真髄を、特に陽明学・呻吟語・東洋倫理概論を学んだ。
更には、大学で原始仏教を学んだことは、物事の真理を見るうえに、一大事となったことは、身の震える思いを今も心に感ずるのである。
これら六人の師は、私の生き方を一大転換をさせた最高の恩師である。感謝以外になにものもない。
父、奥山喜太郎は1916年、岡山県苫田郡で生まれる。小椋喜太郎は大阪市北区池田町の奥山鉄工所、奥山家に養子として入る。奥山鉄工所を継ぐ、後に大北工業株式会社に発展、東京・名古屋・岡山に支店を置く。私が三歳の時から父は工員を相手に不思議な技を用いて修練をしていたのを幼心に記憶があります。これが後になってから解ったのですが、八光流柔術でした。父は、八光流とともに若柳流の名取でもありました。父は、後に自らの流派として「邇心流合氣武術」と名乗っています。私は父から解らないまま工員と一緒に約五年間学びました。一時途絶えた時期があります。これは父と母が離婚をして父は東京支店に滞在することが多くなったからです。私が東京での四年間の生活は邇心流を徹底的に教え込まれた時期でした。さらに、鉄工所の工員は肉体労働のため、體に大きく負担がかかり、足腰を痛めることが日常的でした。その時、父は、「手当」をしている姿がありました。これは人の體の表30裏14の経絡に沿って指圧をするもので、その時既に「氣」について理解していたようです。後に父は武術として「邇心流合氣武術」。八光併伝療術の皇法指圧から整体術として「氣之體壓療法」を創出致しました。八光流の始祖奥山龍峯氏は明治34年に生まれた方で五歳の時脳膜炎を発症。東洋医学を学び、政治活動とともに武術の修行。大東流合氣柔術武田惣角氏に師事。全国を回って多種多様な武術、武芸十八般を学び。医学については、大東盟舍の平田了山、東洋醫道会総裁南拝山について心理療法・東洋医学を学び、後の「皇法指圧」を生みだす。指圧師の浪越徳次郎氏と親交を深める。そして八光流はあらゆる戦技武道、凶器武道を否定し、ひたすら個々の身を護るための新しき日本人の心と人格を築き上げるために伝道されるものと位置づけて世界に伝道されて行きました。八光流の概要です。父が工員に施していた體壓療法は、普通の指圧とは全く異なっていました。勿論、施す相手に自らの「氣」を送り込むことを重要視しますが親指と掌を多く用います。特に親指での體壓には、三指法を用いるものです。三指法とは、@触れてA圧してB離す、のことです。当ては「親指」が主です。即ち三段階で行うことが重要でこの「離す」ことが特に重要なのです。そして上記44の経絡に沿って三指法を行います。一つの経絡への施術が終わりますと、掌での體壓を行い終わります。父は、八光流の併伝療術以外にも西式健康法、日本最初の健康体操である自彊術を学んでいました。その中から氣の體壓療法が生まれたものと思います。平成11年に亡くなりました。亡くなる前に、二つのものを私に託しました。一つは、「邇心流合氣武術」二つ目は、「氣之體壓療法」です。この二つの相伝を、私は絶やさないことを父に誓いました。その為に今、後継者を創ろうとしております。随分と前の話ですが、高槻市在職時に「ミューヘンの小学生」の著者子安美智子先生を高槻市へお招きして、講演会をさせて頂きました。確かその頃に早稲田大教授、高橋 巖先生の「ルドルフ・シュタイナー 教育講座講義」を受講していました。その中で「古代ギリシャの教育と日本の武道(心身統一合氣道)の関係とルーツは古代ギリシャにある…」述べられていました。又、上松裕二先生の著、「世界観からの建築…ルドルフ・シュタイナー論」は私の建築観に大きな変化を与えました。懐かしい想い出です。
昭和31年頃だったと思う、東京日本橋高島屋屋外ステージにおいて、合氣道創始者植芝盛平翁の合気道がはじめて公開された。父に連れられて見たのが合氣道という武道でした。
不思議な動きと技でした。150cmほどの小柄な老人が、驚くような速さで動き、触れただけで投げ飛ばしている…。その後には、このような場面は2度と見ることが出来ない。
この風景が私の武道へ誘った原点でもある。父の技とも違う…。後に合氣会へ入門。真の合氣武道を求めて「氣」を説かれる合氣道会最強の藤平光一先生に師事、中村天風師に心が身体を動かす原理を学び、一九会で山岡鉄舟の高弟日野鐵叟老師に人としての生き方を学ぶ、安岡正篤先生から東洋哲学の真髄を、特に陽明学・呻吟語・東洋倫理概論を学んだ。
更には、大学で原始仏教を学んだことは、物事の真理を見るうえに、一大事となったことは、身の震える思いを今も心に感ずるのである。
これら六人の師は、私の生き方を一大転換をさせた最高の恩師である。感謝以外になにものもない。