2022年12月15日

限界集落移り住んで二十年…新しい出会い

地元の中学校生が「校区の皆様をお伺いして学ぶ」として位置づけて、高齢者宅を訪ねて、話をするというもので、訪問を受けました。
その時のお礼状です。教育は家庭教育・地域教育・学校教育の三つから成り立つものですが、近年に至っては地域教育は崩壊しているといっても過言ではありません。その中でこのような取り組みは素晴らしいものと言えます。


令和4年11月29日
舞鶴市立加佐中学校
校長 福 本 浩 介 様
舞鶴市字久田美1618番地
奥 山 弘 邇拝

花いっぱい運動について(御礼と報告)
 
霜寒の候、貴職におかれましては、益々ご健勝のことと拝察いたします。
日頃は舞鶴の学校教育に精励されておられますこと厚く御礼申し上げます。
さて、この度、事前にハガキにてご連絡を頂戴し11月16日に標記のために貴中学校の生徒3名が来られました。
質問を受けました。「中学時代クラブは何に入っていましたか」でした。私は「文芸部」で日本の国語の基礎をつくった夏目漱石が書かれた本や島崎藤村の詩など…と答えたかったのですが「えぇー文芸部?」と言われてその先がとまりました。今の中学ではそんな部はないのではと思いました。
何が質問ありますか?と私から問いかけましたが、なさそうなので、私から大阪市北区天神橋五丁目で生まれ、父が営む鉄工所と家は大阪大空襲でまる焼けになったこと、戦争を体験したこと。戦争で高槻市に疎開したこと、現在は人口36万人ですが当時は約10万人であつたこと。1947年五領小学校に行ったこと、「まちんどの子」といわれて虐められたこと…など話を致しました。
しかし、勉強して一番になったのと身体が大きくなったことで、虐められなくなったこと。高槻第一中学校、高槻第二中学校の二校しかなく、私は第一中学校へ…クラスは13クラス、一クラスは45人であったこと…。そして東京の大学で都市工学を学び高槻市に奉職。都市計画、都市再開発事業、都市計画道路など大きな事業を手掛けて、2000年退職後、江守舞鶴市長との交流で舞鶴市の街づくりのお手伝いをさせて頂いたこと。その縁で私は今の久田美という限界集落に来たこと…自らを振り返りながら少しお話を致しました。
そして今、75年修練をいたしました心身統一合氣道をもって日本国内はもとより台湾、カナダ、オーストラリア、イギリスなどへ指導に。又、久田美の弘心館道場に来られる方との交流を行っています。
三名の方には、学ぶ為の基本となる「姿勢・視線・間合い」について体験とお話しをさせて頂きました。良い出会いをさせて頂きましたこと御礼申し上げます。                              以上
posted by 弘心 at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする