2023年08月17日

台風7号による限界集落久田美の被害について、舞鶴市長の見解を問う

久田美に住んで約20年…。今回の久田美地区の被害は著しいものがあります。原因は、上流からの流木によるものです。為政者は、全ての災害の原因の究明にこそ責務があるのです。
久田美川の災害は、突き詰めて言えば人災ではありますまいか…。
上流の流域面積内にある森林の管理に問題がある。材木の搬出のため切り出した木材を防災の意味から流出対策をしなければならない。
調査をすべきであります。
もし、財産区財産であれば請け負った者の責任を問うべきです。

話は変わりますが、久田美川は、一級河川です。その管理者は国、それを京都府が代行し、さらに舞鶴市に…。
管理費は京都府、舞鶴市に流れているはず。しかし、草刈など管理は限界集落久田美村のボランティアに任せて、僅か消耗品のみ支給…。こんなことは言語道断!舞鶴市が実施すべきであります。
以上、二点。市長の見解をお聞かせ下さい。
posted by 弘心 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

長老の話


今年もお盆の日がやってきた…。昨年の今頃、隣家のKさんが92歳で亡くなられた。
私がこの限界集落に移住をしようと決意したのは、元舞鶴市長江守氏の影響にもあったが、実際古民家を見てその隣に住まれていたKさんの人柄にもあったことは事実である。今から約24年前の話。
物件を下見に行ったとき、初めて出会った。その時に村の歴史や、前を流れる一級河川久田美川に纏わるものとして(弘法大師空海がこの地を訪れた折、一杯の水を河川で物を洗っていた老婆に所望した…老婆は「旅の者には飲ませる水はない」とけんもほろろに断った…。その時、空海は黙って手に持っていた杖で川に突き立てた。その時からその区間だけ水の流れがなくなった…)など話された。実際、川の水は十メートル上流からなくなっている…そして十メートル下流から流れ出している…。その区間だけ水は伏流水となっていた。
このような話は、全国どこでもあることが後でわかった。
次にある時、Kさんが真顔で「わしが死んだら、村の寺からは葬式はだしてくれるな、〇神社に頼んでほしいと息子に言っておいた、と憤懣やり場のない表情で話された。この村には村が建立した寺がある。宗派は曹洞宗。
「わしの親しい者と住職を変えてもらう運動をしている、どうすればよいか教えてほしい」とのこと。」
その理由は、僧侶としての人格がない…話をすれば、フィリッピンへ〇を買いに行った話ばかり、嫁を家に縛り付けて、自分の年老いた母親の面倒を見させて車の運転免許も取らせない…。まだまだある、人をみると口癖のように「よい院号がある、250万出さんか」。Kさんは、「人間として正しい生き方や人の道を説くことが住職の仕事なのに、全く真逆なことを平然としてやっている。怪しからん、そんな人間に死んでお経をあげてもろても、何のありがたみもない…」こんな住職は許せんとのことであった。
正論である。

色々と調査をして、過去の事例などを資料にして渡してあげた。結論として、住職の更迭は非常に難しいということになった。
具体的な事例、例えば宗教法人を設立した寺であれば、財政運営に疑問点があり法人財産の横領、不明慮な会計処理など…があれば可能性はある…ということである。
わが国に仏教が中国から伝来したのは、538年、552年とされているが538年が正しいのではないかとされている。
特に鎌倉新仏教は、次の6宗。浄土宗、浄土真宗、時宗、法華宗、臨済宗、曹洞宗。詳しい内容は省きますがが、仏教界に新しい動き始まった時代と理解している。
私は大学の都市工学科を出て都市計画、道路、橋梁、河川、都市公園、都市緑地、都市再開発、最終処分場、ごみ焼却場…そして建築まですべての事業に携わってきた。
しかし、考えてみれば全て人の生活に深く関わるものばかりであることにふと気が付いた…。そのためには、人間を知ることが大事である、との思いから
大学で佛教学を学びなおしました。特に原始仏教(釈迦が生まれてから死ぬまでを言う)には深く傾倒していきました。
高価なサンスクリット語辞典を手にして、苦労した思い出がある。
それからの私の街づくりの内容は大きく変わりました。
話は元に戻して、私の家の宗旨は日蓮宗。先祖代々日蓮宗の寺には寄進をされてきました。その寺には先祖代々の墓もある。立派な寺を建造して活動をされている。宗門が寺の生活の糧として、様々な年中行事をつくり活動されている。
日蓮に関する歴史的経過及び今出版されている関係書籍に目を通してきた。
並びにNHKの日蓮に関する放送を視聴した。日蓮は自ら釈迦に例えるぐらい釈迦を本尊としている。そして、今の日蓮宗派の各寺は日蓮の六老祖といわれている六人の弟子の何れかの系統を受け継いでいる。
日蓮は、国を想い憂い、国民の幸福を願い,祈願し、時の為政者に直接嘆願した。其の為の迫害は歴史の通りである。
しかし、現在の釈迦の想いを受け継ぎ、行動する者は存在しないと言っても過言ではない。更には、釈迦の説く真理にもとづいての日常的な説法などはない…。三時思想、末法の時代といわれる現在、氣づきそして行動を起こす宗教者が存在しても良いのではないか…と思われる。
posted by 弘心 at 12:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする