ハラスメントの意味は、広辞苑によると「人を悩ますこと。地位や立場を利用して嫌がらせ。をいう」とされています。
私はハラスメントに対峙するのは、基本的人権と人間としての尊厳性であると考えます。
50年前、私は在職中何度もこのようなことを経験いたしました。一例として公園緑地課長を拝命したおり、全国ではじめて公園の作業員として知的障害の人を数名雇用しました。
勿論、障害者団体からの推薦を経てでありますが全国から視察に来られました。受ける方として、大学で社会福祉を学んだ職員二名を配置したことは言うまでもありません。
その時のPR用として動画を作成いたしました。
「〇〇」に委託して作品が完成。試写会をしたとき、障害者の顔が映っていました。
私は何故ですかと「〇〇」に質問。保護者の承諾を得ております、との答えでした。
私は直接保護者に会いました。すると保護者は苦渋の顔をされて次のような言葉を出されました。「いつもなら家に閉じ込めている障害を持った子供を〇〇市に雇用していただいております。それゆえに記録映画に我が子の顔が写っていることに文句は言えません」と。
権力をもったものは知らず知らずのうちに、相手の了解を得ればそれでよい、との誤った感覚に陥るのです。
権力をもったものが第一に注意しなければならないことは、如何に相手の立場になってものを考えるかであります。
勿論、地方自治法の理念に沿って業務を遂行する責務を負っています。それは「地域住民の生命と財産を守る」ことの遵守です。
私は委託先の〇〇のとった判断について、深くお詫びを致しました。そして改めて誰かが分からない処置をほどこすことに笑顔で承諾されました。
どのような組織であろうとも「組織の在り方を決めるのはリーダーの心」であります。
知識は学校に入り講義をきく、参考書など本を読むだけでも得ることができます。しかし、これは人間の信念とか行動力にはなりません。
知識というものにもっと根本的なもの、もっと権威のあるものが加わりませんと知識というものは役に立ちません。
それは何かと言えば見識であります。
頭の中でいくら豊富な知識をもっていたとしても、それだけでは人間の形成にはなりません。知識を身心の血肉化とする、すなわち「知恵」に深化させることにあります。これが「見識」です。
それを体得することによって、信念が確立され、行動力の原点となるのであります。
知識主義から,身心を通した「見識」とそれを支える「胆識」を鍛え、さらに「節操」を持つことが人間形成には深列かつ重要なものであります。
結論として、「人格を高めなければ人の心は動かせない」ということになります。