師と友
師と友は、私たちにとって第二次の父母兄弟です。「骨肉の親」に対して言えば「道の親」と言えます。それは私たちの疲れ、病む心と意志に尽きることのない力と光を与え、疑いや悩みばかりの人生に、意味と喜びや楽しみを恵んでくれる者であります。
よい師や友を得た時、私たちは、ちょうど塵と埃や喧しい騒がしさや濁った空気の都会を去って深山幽谷に入ったように、思わず清新な氣を深く呼吸し、心身はふたたび健やかに蘇るのであります。
そして、おのずから生まれた英霊(優れた人の魂)の雰囲気が、私たちの踔歯濫ュ(才気や文章の筆力が風を巻き起こすかと思われるほど勢い強いこと)させて、どうかすれば絶望としていた人生に、また神秘的な生き生きとした気分で会い向かわせ、なえてしまいそうだった両脚に強い力を与え、四股を踏み鳴らさせるのであります。
師は、私たちに先立って人世の大変な苦労と闘い、人生の深い道理を探り、優れた人の魂の高い峰を登りつくしつつある人であります。友は、自分と前後して真剣にその後に続いている者であります。
それだけに、道を修める者の間にはおのずからまた肉親の情とは違った敬愛、いわゆる道情が通い合う。これは、人間にとって肉親の情愛よりさらに高い次元の心の作用であります。私たちに親のないことは耐えがたいほどの不幸であるように、師友のないことは最も深刻な寂寞、寂しさであります。
孔子の第一の高弟である顔回が亡くなった時、孔子はその家にお悔みに行ってひどく嘆き悲しんだ。如何なる場合にも乱れるこのない孔子が、珍しくも哀傷を極めた姿を見せたのに驚いた従者が、後で「先生は大変なげき悲しまれましたね」と言うと、孔子は、「そうたったか。彼の死を嘆き悲しまずに誰のために嘆き悲しむことがあろうか」とため息をついたという。
師弟の道情の細やかさがしみじみ味わわれます。
このようにして師との縁は実に深く深遠なるものが窺えるので在る故に、「縁を断つ」ということは、師にとって断腸の思い万感の想いが心底にあることを知らねばなりません。