そういった面から考えていきますと、自己というものは全部相手と対立していることなのです。もし、相手が世の中にないとしてみたら、果たして自己ありやと考えてみると、自己というものはさようにして相手があった場合に自己がある。そして自己と思うもの自分というものを考えてみた場合、五尺何寸のからだがあって、これはみんな肉であり、皮膚であり、血であり、唾液であり、小便である。本当の自己というものは一口にいってこころだ。精神だ。しかし心、精神というものはあるのかないのか。いくらたたいてもどこにもないじゃないか。頭のてっぺんから足の先まで自己というものはちっともない。ところが相手がでてくるときはそれがふっと出てくる。怒るという自己がないはずの自分が、相手が怒らしたら、怒るという自己が起きてくる。笑うという自己がないはずの自分が、相手が笑わせると、笑うという自己がおきてくる。そうなってみると自己というものははたしてありやいなや。禅では、自己無なりというところに到達する。
自己無なり。自己無ならば相手も無なんだ。一切のものはことごとく無である。ことごとく無であるとするならば、生まれたというのも無であり、死ぬというのも無である。ここに初めて生死というものがない。自己がある場合に死ぬ。自己のない場合は死なない。こういうことなのです。
そうなれは自己がないとした場合、いかようにも相手が自己を脅迫しようと何しようと、ない自己に何をしているのだということで、ちっともこっちはくらつかない…。
有名な快川国師が織田信長に捕えられ、山門の上にのせられて、下から火をかけて焼かれた。一山の僧四十何人ことごとく火で焼かれたときに、あの有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉が出たのです。あの態度は自己無でないと出てこない。自己ありとせば、あるものがなくなるのに恐怖の念がないということはないはずです。自己無というところに立ってあの態度ができた。つづく
2008年08月26日
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