そして、お互いに悟りを得ようとする境地になっていくならば、こんな騒がしい世の中はなかろうじゃないかという、世の中に対する大きな悲願、慈悲が必然的に起きてきます。その悲願とともに、自分に与えられた職業なり何なりに向かって突進していくということは、宇宙の中を非常に浄化せしめ、つまり仏教でいう極楽の世界をつくらんとする眼心であり、おそらくキリストでいうところの天国の再来をつくらんとする気持ちであろうと思います。
そういう気持ちになった場合、それは仏教的にいうならば、仏の立場において人間の世界に飛び出している。ですから他の人間的ないざこざ、人間的なことに対して。びくともしません。それはいうならば、名誉とはいったい何であるか、地位とは一体何であるかというような根本的な原則から解決できていますから、地位にも恋恋とせず、名誉にも恋恋とせず、ただし、地位がある人ならば、世の中を済度していくのに都合がよろしい、名誉があるならば、多くの人たちを済度するのに便利です。そこに地位も認め、あるいは名誉も認めていますが、すでに名誉に拘泥していない。つまり婬して婬することがない。これが根本的な大きな自己の据え方の原則です。ここから出発しなければ自己は定まるものではない。死を常に眼前に追うてびくびくして追って自己の定まることはない。
まず、生死解脱、生死脱皮、それは無の哲学に徹しることです。無の哲学を頭の上で解剖して、わかったとか、知ったとかではいけない
。それは人間的なひとつの脳の働きにすぎないのであって、かえってじゃまになる。自分は理論的には無の哲学がわかった。ところが死が迫ってきた時に、いっそう自家撞着に陥って矛盾が多い。それなら知らん方がいい。知る以上は、知るという言葉じゃなくて、徹するという言葉、つまり、自分の五体がその中に溶け込んで来て、それを擁する、だからまず自己手段というものから入っていかなければならない。…………省略…………。
このなような内容であつたように思う。
私は「…自己手段というものから入って…」については、
合氣武道を通じて教えます。
そして、陽明学の「知行合一」として実践してく。
つまり、人格を涵養する、そのために心身統一合氣道を
用いているのです。
自らの運命を正しい方向に変えていく、
つまり「立命」とするために…。
たまには、弘心塾にいらっしゃいませんか、
お待ちしております。
2008年09月02日
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