2014年07月02日

日常の工夫について

今から40年前に、書いた文章である。多くの書き物の中からこれを選んだことには、
長年トラウマとなった事件が存在する。長男の死であった。
当時財団法人氣の研究会(藤平光一会長)が発行していた「心身一如」に、当法人の
評議員をさせて頂いた時に連載ものとして載せて頂いたものである。

「日常生活を共にするあらゆるものに対して感謝の念を持つ」ということを
実感としてとらえること。
 越前永平寺の門前にかかっている橋を半杓橋といいます。
この橋は永平寺の開祖、道元禅師が朝、杓で橋の上から水を汲んで顔を
洗われるとき、杓の半分の水だけで洗われ、残った水は川へ返されたと言うので
この橋の名になったと云われています。
 又、由利滴水禅師が雲水の頃、師匠が洗顔をされたあとの水を
捨てようとすると、師匠が「その水を犬死にさせないで野菜にかけてやりなさい、
野菜は喜び、水も生きて働くではないか」と云われた言葉に深く感ずるところがあり、
この教訓を一生忘れぬために「滴水」と名乗られたのだといわれております。
 一杓の水に対してもこれだけの謙虚な心を持つのであれば、日常の生活の
あらゆるものに対する感謝の念はおして知るべしであります。
 最近、ある人が子供に食事の時に「御飯つぶを一つ残さず食べなさい。
もったいないですよ」と注意したところ「今日本はお米が有り余っているんだから、
そんなことは考えなくてもいい」と答えたと云います。
 物を大切にする心が弱い者は、自らの生活も仕事も中途半端であり、
逆に物を大切にする人は、必ず仕事も自らの生活にも真剣であり、自他共の生命を
大切にする人であります。 
 物を大切にするということは、義理も人情も正しくわきまえて、
出すべき時は潔く出すが、一枚の紙も、一滴の水も無駄なく物の生命を尊び、
その恩恵に感謝し大切に、有効に使っていくことであります。
 全ての人間の使うものは、人を生かすために現わされているという謙虚な心が、
さらに自ら高い次元へ導くことでありましょう。
 「のみ」や「かんな」を大切にする番匠は絶対に手足を怪我するということは
ありませんし、鍬や農機具を感謝の心で使い、農作物を作る大地に感謝の心で
手を合わす農夫には、これまた豊作が続くという、物を取り扱う心がそのまま自らの
生活・生命・仕事に跳ね返ってくるのであります。

 二宮尊徳の許へ貧乏で明日食べる米にも困っていると訴えてきた村民がありました。
二宮尊徳が、その人の台所をみて、あちこちに散乱している鍋釜をゆびさして、
「今まで長年お世話になった鍋、釜、そして、台所の隅々まであと片づけをして清め、
心から礼をいい、その後に餓死せよ」という意味の言葉の一言を言われたと
いうことでありますが、このことは、物に困るような人間は
あらゆる物に感謝のないこと、その恩恵に浴しながら恩を恩と思わぬ人間である
ことを妥協なく教えられてのであります。
 私達、日常の生活においても同じことであります。家庭にある主婦は、
一日働いて帰ってくる主人を思い、心をこめて作る夕食であれば、味も違ってきます。
又、それを受けて主人が心から「おいしい!」と感謝の一言を出す家庭の子供には
食べ物の好き嫌いがありません。
 「子は親の鏡」という言葉がありますように、子供は親が行なってきた
過去、現在の全ての行いなりを写し出してくれます。
 子供の病氣や、怪我、又事故等は、夫婦の間に何かあった時に生じます。
 これら、眼の前にわき起こる不幸災難は、大自然の警告と考えられるのであります。
すなわち宇宙和の原則から少しでも離れた考え、行い、生活をすれば
宇宙からの危険信号が発せられると考えられます。
 その危険信号は、「それ以上筋道がはずれると、もっと大きな災難か生じますよ」
という前ぶれであると考えてよいと思います。つづく
posted by 弘心 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック