2018年05月02日

吉田寿三郎先生(故)

吉田寿三郎先生(故)のこと
今から13年前の平成17年五月に一つのボランティア活動団体が閉会をした。23年間続けてきた高槻ウエルエージング協会である。
昭和58年に7人から始めた。シビルエンジニァーが何故福祉を‥といぶかる人が大半であった。この団体を発足させるまでに、さらに十数年遡ることになる。

高槻市は京都と大阪の丁度中間に位置し、昭和40年代には十年で人口が倍になるという全国でも有数の人口急増都市であった。市の予算の半分は教育予算すなわち学校の建設費である。そのためにインフラ整備は他市と比べて低いものとなった。

そのような中にあって公共事業の目玉は、中心市街地を平面交差で分断している私鉄の連続立体交差化事業があった。初代の建設準備室長として国の採択に向けて取り組んでいた。
鉄道の仮線敷きとしての役割も兼ねた都市計画道路を新たに鉄道の北側に計画をした。
大阪医科大学の敷地が少し都市計画道路に掛かった。当医科大学の卒業者で作る仁泉会というのがあり、その代表者の一人が「市民病院の役割もして市には多いに貢献しているのに、その大学の敷地を道路にかけるとはけしからん」と反対の意向を示したのである。その時の大学の反対のための委員会委員長で吉田壽三郎という衛生学公衆衛生学教室の教授がおられた。週に三日は教室に通うことになった。

京都大学の医学部出身で国際老年学会の理事をされており、わが国でも著名な先生であった。
白髪の穏やかなその容姿と先生の説かれるアカデミックな論調は、全ての人を魅了せずにはいられないすばらしい先生でした。私はその吉田学校の最初の生徒でもあった。

当時に「日本老残」「デイケァーのすすめ」「高齢化社会」などの多くの著書があり、昭和40年代にすでに五十年後の超高齢社会を見通されていた。北欧が60年から90年かけてゆっくりと高齢化社会へ移行したのに比べて、日本はわずか25年で同じ状態になることへの危機感をいつも口にされていた。毎日と言ってよいほど、電話が掛かり一時間ほどその話をされる。「奥山さんいよいよ迫ってきましたよ。今、一人の老人を五人で養っていますが、三十年先には二人で一人となります。抜本的な考えをしなければ破綻しますよ。具体的には富の再配分です‥‥」最初は全く分からなかった。当然であろう専門分野が違うのである。

しかし、少しずつ頭の中が変わっていくのが自覚できた。私自身は都市工学科を出て、総合計画・都市計画・橋梁・都市公園・道路・橋梁・高架事業・都市再開発・高層建築…などを専門としていた。私の頭には、構造的な思考が勝っていました。しかし、その構造物や建築物は誰のために造るのか…人間が主となる目的で造らなければならない…その点が欠けていたことに氣がつきました。人間を知ることが大切…ということに氣がついたのです。その意味で吉田先生との出会いは、天が私に与えたものとの想いに達しました。
1978年に国際老年学会の後をうけて、京都国際会議場で京都大学総長奥田東先生を中心として、吉田先生は京都国内シンポジウムを開催された。アメリカのバトラー博士など世界から老年学の権威者が集まって来られた。私もその一端を担わせていただいた。僅か三十分でしたが、財団法人氣の研究会の藤平光一先生が「氣について」話された。心が体を動かすことを「折れない手」を壇上で実験され、バトラー博士などが腕を出して真剣な顔でテストをしておられたのが目に浮かぶ。

厚生省の時代には同省の課長より先に合格したためいずらくなったこと、当時の日本医師会の武見会長から絶大な信頼を受けられたこと、肺結核の治療に新しい画期的な論文を発表、しかし、学閥による抵抗から実際に表に出ることがなかったこと等、いろいろりなお話しをうかがうことが出来た。特に昭和の三十年代から自らスェーデンに行って数十年後に必ずや遭遇する超高齢社会解決策を求められたがその答えはなかった。わが国の福祉施策は北欧をモデルとして作られてきた。失敗もまたそのとおり模倣をしてきたのである。

「先生はアカデミックな分野で活動されています。私は具体的に地域で実践をさせていただきます」、先生が主宰されている「日本ウエルエージング協会」とおなじく「高槻ウエルエージング協会」をつくります。土木技術者の福祉ボランティア活動の始まりであった。

資金がないため、福祉論文などの応募をして稼いだ。大阪社会福祉協議会の福祉論文募集に今までの活動記録を論文にして応募した。第一席に入賞した。その時の審査委員長は、大阪府の福祉計画である。「ファインブラン」の中心であり、地域福祉論で有名な大阪市大の名誉教授である岡村重夫先生であった。大阪社会福祉協議会の講堂で、福祉の専門家や民生委員、行政職員など約800人を前にして、二時間しゃべらせて頂いたことも懐かしい想い出である。その後、愛は地球を救う、の団体から380万円の移動入浴車の贈呈を受ける。読売新聞の愛と光の事業団からの寄贈など、一躍全国ネットとなった。

特別事業部として「寝たきり老人等の在宅における入浴援助事業部」をつくって八年間行った。(移動入浴車で延べ250人の寝たきり老人を在宅において入浴)市議会、自治体への働きかけ(誓願)をして制度化へと移行させたことは、ボランティア活動の真髄とも云えるものである。無償性・継続性・提言性‥ボランタリズムの自覚が求められる。

因みに、高槻ウエルエージング協会の設立趣旨は、「人間が、真の人間として尊厳を保ちながら生きることのできる地域社会の創造」である。
シビルエンジニァーとしてその後の街づくりの視点をその主旨をコンセプトにしたことは言うまでもない。

私の人生の一部を変えたともいえる吉田先生は、既に鬼籍に入られている…。もっともっと先生と一緒に居て、お話を聞きたかった…そしてもっと役に立たせて頂きたかった…。想いが募るばかり…。先生との出会いには改めて感謝で一杯である。




posted by 弘心 at 22:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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