社会に出て、地方公務員として38年を過ごした。在職中での人との出会いは4,721人。「人との出会いは、決して偶然ではなく必然である」と学んだことが自分を大きく変えた。
都市工学を学び、街づくり、道路・橋梁・衛生工学と関連施設、都市公園、都市緑地、市街地再開発事業、鉄道工学と鉄道の連続交差事業、地域防災計画…など多くのプロジェクトを基礎調査・基本計画・実施計画・施工まで携わった。
当時人口十万人の高槻市は、市歌にも唄われているように、
市歌(昭和22年10月15日制定 芳賀 武 作詞 西川得了 作曲)
東真澄める淀の水 西ははるかに妙見の
眺めすがしき北摂に 誇る緑の健康地
沃野の幸の満ところ おお田園の高槻市
おお田園の高槻市
(西川得了先生は、私の一中時代の音楽を習った恩師である。今になれば、田園都市…というのは、はばかれる思いですが…)
当時は、おお田園の高槻市…田んぼばかりで、木造平屋建ての国鉄高槻駅から遥か淀川の向こうの枚方市まで一望できた。
街の骨格作りとして、環状線として市道野田下田辺線を新設。そして市道番田大塚線、西の川原塚脇線、二中西線。都市計画道路阪急北側線、都市公園…、など多くを手掛けた。
今から思えば、エべネーザハワードの田園都市論に沿った街づくりの根幹を総合計画の基本構想とすればよかったのに…と後悔している。
昭和40年代に入って、大きく変貌する。高槻市は、京都大阪の中間に位置し、それぞれ15分で行ける…。その為に人口急増都市として全国的にも有名となった。おおよそ10年で人口が倍になったのである。人口増の為、宅地造成があらゆるところで進み、まさに宅造ラッシュであった。
一つの例として、児童の数が増え、学校の新設の為の費用は市の総予算額の60%を占めるに至った。
その為、教師も全国行脚をして確保。更には、大阪府の教育委員会が不採用とした人員までも確保するに至った。これが後に、教育上の大きな問題を抱えることとなる。
同時に、この為、高槻市のインフラ整備は、大きく後退した。
又、民間のマンション計画が乱立して、日照問題、環境問題など地域住民との係争問題が起こった。
建築主から建築基準法に基づく手続きが市になされた場合、市は一定の条件が成立すれば、二週間以内に許可をせざるを得ない状況が生じた。
当時はまだ環境アセスメントなどの言葉さえなかった時代。市は苦慮することになった。
そこで、高槻市は将来、開発される地域を定めて、先にこのような事業計画であれば許可する、というマスタープランを作成することにしたのである。
それが功を奏して、開発業者と地域住民との係争問題は少なくなった。
しかし、宅地造成事業法に基づく宅地開発は、一定の割合で道路・児童公園などを確保しなければならない仕組みになっている。実際出来上がった児童公園などは、開発区域の一番隅っこに作られたり、断崖絶壁の上に、あるいは長い階段の上に造られたりしている場合が多々ある。そこには、将来住む子供や高齢者のことは、二の次とされたのである。便利なところは、宅地して…という利潤追求が優先した。
私が公園緑地課長をしていた時、宅造法関係の計画には、市が先に造成計画を作り、さらに事業の損益分岐点をはじき出して、造成主に示し、適切な公的敷地を提出して頂いた。そのことにより住民の使い勝手のよい公園などがうまれたのである。
行政は、難に為に存在するのか、地方自治法の理念にあるように、「地域住民の生命と財産を守るため…」にある。
このことを自らの中心において業務を行えば間違いはない。
つづく
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