父、奥山喜太郎は1916年、岡山県苫田郡で生まれる。小椋喜太郎は大阪市北区池田町の奥山鉄工所、奥山家に養子として入る。奥山鉄工所を継ぐ、後に大北工業株式会社に発展、東京・名古屋・岡山に支店を置く。私が三歳の時から父は工員を相手に不思議な技を用いて修練をしていたのを幼心に記憶があります。これが後になってから解ったのですが、八光流柔術でした。父は、八光流とともに若柳流の名取でもありました。父は、後に自らの流派として「邇心流合氣武術」と名乗っています。私は父から解らないまま工員と一緒に約五年間学びました。一時途絶えた時期があります。これは父と母が離婚をして父は東京支店に滞在することが多くなったからです。私が東京での四年間の生活は邇心流を徹底的に教え込まれた時期でした。さらに、鉄工所の工員は肉体労働のため、體に大きく負担がかかり、足腰を痛めることが日常的でした。その時、父は、「手当」をしている姿がありました。これは人の體の表30裏14の経絡に沿って指圧をするもので、その時既に「氣」について理解していたようです。後に父は武術として「邇心流合氣武術」。八光併伝療術の皇法指圧から整体術として「氣之體壓療法」を創出致しました。八光流の始祖奥山龍峯氏は明治34年に生まれた方で五歳の時脳膜炎を発症。東洋医学を学び、政治活動とともに武術の修行。大東流合氣柔術武田惣角氏に師事。全国を回って多種多様な武術、武芸十八般を学び。医学については、大東盟舍の平田了山、東洋醫道会総裁南拝山について心理療法・東洋医学を学び、後の「皇法指圧」を生みだす。指圧師の浪越徳次郎氏と親交を深める。そして八光流はあらゆる戦技武道、凶器武道を否定し、ひたすら個々の身を護るための新しき日本人の心と人格を築き上げるために伝道されるものと位置づけて世界に伝道されて行きました。八光流の概要です。父が工員に施していた體壓療法は、普通の指圧とは全く異なっていました。勿論、施す相手に自らの「氣」を送り込むことを重要視しますが親指と掌を多く用います。特に親指での體壓には、三指法を用いるものです。三指法とは、@触れてA圧してB離す、のことです。当ては「親指」が主です。即ち三段階で行うことが重要でこの「離す」ことが特に重要なのです。そして上記44の経絡に沿って三指法を行います。一つの経絡への施術が終わりますと、掌での體壓を行い終わります。父は、八光流の併伝療術以外にも西式健康法、日本最初の健康体操である自彊術を学んでいました。その中から氣の體壓療法が生まれたものと思います。平成11年に亡くなりました。亡くなる前に、二つのものを私に託しました。一つは、「邇心流合氣武術」二つ目は、「氣之體壓療法」です。この二つの相伝を、私は絶やさないことを父に誓いました。その為に今、後継者を創ろうとしております。随分と前の話ですが、高槻市在職時に「ミューヘンの小学生」の著者子安美智子先生を高槻市へお招きして、講演会をさせて頂きました。確かその頃に早稲田大教授、高橋 巖先生の「ルドルフ・シュタイナー 教育講座講義」を受講していました。その中で「古代ギリシャの教育と日本の武道(心身統一合氣道)の関係とルーツは古代ギリシャにある…」述べられていました。又、上松裕二先生の著、「世界観からの建築…ルドルフ・シュタイナー論」は私の建築観に大きな変化を与えました。懐かしい想い出です。
昭和31年頃だったと思う、東京日本橋高島屋屋外ステージにおいて、合氣道創始者植芝盛平翁の合気道がはじめて公開された。父に連れられて見たのが合氣道という武道でした。
不思議な動きと技でした。150cmほどの小柄な老人が、驚くような速さで動き、触れただけで投げ飛ばしている…。その後には、このような場面は2度と見ることが出来ない。
この風景が私の武道へ誘った原点でもある。父の技とも違う…。後に合氣会へ入門。真の合氣武道を求めて「氣」を説かれる合氣道会最強の藤平光一先生に師事、中村天風師に心が身体を動かす原理を学び、一九会で山岡鉄舟の高弟日野鐵叟老師に人としての生き方を学ぶ、安岡正篤先生から東洋哲学の真髄を、特に陽明学・呻吟語・東洋倫理概論を学んだ。
更には、大学で原始仏教を学んだことは、物事の真理を見るうえに、一大事となったことは、身の震える思いを今も心に感ずるのである。
これら六人の師は、私の生き方を一大転換をさせた最高の恩師である。感謝以外になにものもない。