2024年01月11日

新年にあたって

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今年の重要な二つの事業について少しお話致します。

@ 記念表武大会  A 高野山夏季合宿について
心身統一合氣道会弘心館道場高槻教室は、開設して五十年。私が合気会で修行をして植芝盛平翁から段位を受けて指導を始めたのが始まりである。
1974年、合氣道高槻スポーツ少年団として発足。
当時は子供、大人を含めて約120人を指導させて頂いた。二組に分けておこなったが今から思うと大変苦労した。
高槻市立桃園小学校の講堂、高槻小学校の講堂。高槻警察の道場を借りての指導。
高槻警察の道場では、ある子どもが、警察署のトイレットぺーパーに小便をかけて回る子供が現れ警察署長から苦情が出て大変な思いをした。
特に高槻マリア・インマクラダ幼稚園の園児が大半を占めていた。
シスターのいうことを聞かない子供は「奥山先生の合気道を習いなさい」と送り込まれてきたのを覚えている。順番待ちの園児が多数いて苦慮したのも記憶にある。

1977年に「心身統一合氣道高槻スボーツ少年団」と改名。その後高槻スポーツ少年団を退会、現在に至る。
沢山の想いを経て今も高槻教室は続いている…。その教室の開設五十周年を舞鶴教室開設二十周年と共に高槻で開催させて頂く…。感慨深い。
是非皆さんの表武をよろしくお願いいたします。

当時の大阪合気会の合宿は、高野山の宝亀院で行われていました。弘法大師空海が衣替えをしたという井戸がある由緒ある塔頭である。
宝亀院には別棟の武道場(約百畳)があるために重宝された。田中万川氏(合気会師範)が中心となり通年実施されていた。
ある合宿で田中師範はグレーの袴をつけて手には扇子を以て指導されていた。
植芝盛平翁の真似をされたのだと思うが…受けを取る方が正面打ちを仕掛けたころ扇子で受けて扇子が真二つに避けてしまった…。目のやり場にこまったことがあった。
田中万川師範は大阪の合気道発展に大変尽くされた。植芝盛平翁からは、「…技はさておき、わしの精神的なものはよく学んでおった…」と話されていたのを覚えている。

高野山夏季合宿は、創めて何年にもなる…。宿坊は天徳院。道場は高野山大学の武道館にお願いしている。
宿坊天徳院は、前田利常の正室・珠姫の菩提を弔っている由緒ある名刹で、
小堀遠州作の庭園があり素晴らしい景色を有している。
修練は、高野山大学の武道館。
奥の院までの散策はいつも心を和やかにしてくれる。
さらには、歴史上の人物のお墓も多く、いにしえの物語を思い起こさせる…。
子どもを中心とした合宿では、夜の肝試しが好評でした。これも懐かしい思い出。
宿坊での精進料理は、日ごろの飽食にならされていることに懺悔の想いを知らしめさせてくれる。

弘法大師空海の生誕1250年にあたる年、この地に修練の場を求め建立した空海は、私たちに何を伝えようとしているのか…。
空海は、絶対主観・必死一心の想いをして、この山深い里で修行…。
高野山が今の姿となったのは、明治時代以降と伝えられている。
それまでは幽玄の地…修練の場として山の奥深くひっそりと佇んでいた…。
私たちは、日ごろの技を、この地に深く沈め残す心勤めを、この一日に託そうではありませんか。
posted by 弘心 at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック