2024年07月29日

手紙

お手紙読ませて頂きました。返事に時間が掛かりました。良く頑張っておられます。大変嬉しい限りです。では一つずつ私の考えをお話しましょう。
そのT、「……日々起こる出来事にあててみて…ピッタリ当てはまる言葉がなかなかみつかりませんが…」について。
 私が今まで道場でお話した中には、沢山のヒントがあります。
私が、師、安岡正篤先生から学んだ幾つかの言葉をお教えしましょう。
「感恩の心………人は思えば思うほどいろいろの「お陰」で自分というものができていることが分かる。そこで、いろいろなお陰でできた自分だから、いろいろ報いなければならない。我々は天地の恩、人間の恩、教の恩など、あらゆる恩の中にある。
これにたえず報いてゆくのが生活である。」
「六中観………忙中閑有り(忙しさの中でも心の余裕を見つける)。苦中楽有り(苦しい時でも楽しみを見つける)。死中活有り(身を棄ててこそ浮かぶ瀬もある。)壺中天あり(どんな境遇にあっても自分だけの世界を作る)意中人有り(心から尊敬する人を持つ。)腹中書あり(心身を養って経綸に役立つ学問をする。)
この言葉から思いを馳せて見て下さい。
次に、ものごとをただ、見るということ、あるがままにみるということ、とらわれずに見る、といことです。
正しくみるということは、純粋に、あるがままにみるということです。
人は普段「見る」と言う行為において、目と言う感覚器官をつかってただみているわけではないのです。過去の経験、体験を通して、又、世の中の常識や、また人や本から学んだ知識のイメージも加わって…、そして「好きだ」「嫌いだ」などと、目に映ったものを見ています。このように物差し、感情等のフィルターを通して見ています。
自分では、目で見ているつもりかも知れませんが、実は心のなかのフィルターを通した「心の目」で見ています。これらを外した状態ね何も色を付けない状態で見ること、それが本当に正しく、あるがままに見ることです。それが正しく見るということなのです。

次に「力を抜く」ということについてです。自分を無いと実感することではありません。
心の中を無にすること共に「力を抜いた」と思うことなのです。
肩の力を抜いて、などといいますね。その時は、いったん両肩をギュッと上に上げて、そして下にストンと落とします、その時の身体の状態を言います。
試してください。

言いわけについて、この本真は、自分の氣づきを持って心の動きを知ることです。
言い訳はしないことです。素直に心の動きを正しい方向にむけることです。
すなわち、純粋な透明な心を持って見ていくことです。
全てのものは変化し、きえていく。そのことに気付くことが大切です。前述のあるがままに見ることなのです。そして、思いを正しましょう。瞑想をして「今ここにいる」ことを習慣づけていくようにします。過去でも未来でもない「今ここにいる」ことで不安や心配のない、しあわせで愛に満ちたあなたになれるのです。
そして見返りを求めず相手の喜びを自分の喜びに…。
次に「…何か起こると…あきらめることでしょうか…」についてです。
あきらめることではなく、自らの外側も内側も正しい教えを実践する、そして常に良い行為を繰り返すことです。間違ったことであれば、それをばねにして二度とおなじことをしないと言いきることです。そして、そのことは全て放下します。忘れてしまうことなのです。なぜ?それは過ぎ去ったことは、最早過去のことなのですから…。

最後に、行動も生活も、内面の修行も、凡て精進です。悪行をせず。自分の心身を大切にすることを続けます。今まで自分を責めていたのなら、その記憶も淨めていきましょう
「ポジティブに考える」のではなく、「どちらにも心を使わない」のが理想の状態です。
心を超えて、愛と一体となる為に瞑想を続けていきましょう。
深く集中した先に、自分の本質の理解があります。
そして、すべて自然の法則に従った生活を行うのです。

まだ、書き足りませんが、ご容赦ください。何からヒントにして頂ければ幸甚です。
                             奥山弘邇 拝


posted by 弘心 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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