2024年08月11日

我が青春時代

我が青春時代
大阪北区池田町八番地(天神橋五丁目)で生まれて、戦争を体験した。空襲警報…灯火管制…防空壕…大阪大空襲…淀川大橋の下に累々と転がる死体…疎開…田舎における差別…食料品の買い出し…大阪の家(奥山鉄工所)は焼け野原に…プーリーだけがカラン、カランと音を立てていた…。
大阪から高槻へ…母の苦労が始まった…。95歳まで生きた母…しかし、親孝行を十分に出来なかった自分を何時も攻め立てる別の自分がいる…。
生きておられる時に、何故もっと親孝行が出来なかったのか……。
84年生きてきた自分を責める……。
母と共に生きた青春時代は…懐かしい思い出。
五黄の虎年生まれの母は、両親から、この子は後家さんになるから、手に職をといって若い時から日本髪を結う技術を身に着けさせらていた。
それが疎開先の高槻で役に立った。後に山野愛子先生のもとで美容師の免状を取得する…。そして田舎の村での八千代美容室の誕生である。
私が父の会社の東京支店に学業のために四年間旅立つまでは、歌に関心をもつた。卒業後もますますのめりこんだ。
唱和33年から38年にかけては、一番の想いでは、全国ではじめて歌謡大会が大阪市の中央公会堂で開かれた。審査委員長は歌謡界の大御所である林伊佐緒先生。300人の及ぶ参加者があり、予選だけで朝9時から始まり、午後二時までかかった。
予選を通過した者が本選に入ったのは、午後三時過ぎでした。
私は予選通過…。本選で二位に入りました。予選と同じ歌を歌っていれば一位になれたのに違う歌を歌ってしまいました…。三橋美智也の歌、神戸一郎の歌…。それから放送局の歌番組には大方応募して出演した。懐かしい思い出は、藤田まことさんとの出会いでした。
毎日放送での「素人物まねコンクール」。大阪南の映画館、国際会館で市村俊行(ピアニスト)さんの司会で始まりました。その前座に若かりし頃の藤田まことさんが、淡谷のり子の「夜霧のブルース」などを歌っておられました。毎日放送のスタッフの方が「まこっちゃはおもろいおとこやで」と言われていたのが今も耳に残っています。その後、テレビでの芝居「てなもんや三度笠」で大人気に。
その後は、「はぐれ刑事・純情派」など多くの作品にでて人気をはくしました。彼は特に歌が上手で、フランク永井さんの歌は、彼の十八番でした。その後、藤田まことさんとの交流は続きました。
私も音域が二オクターブがでることから、三橋美智也さん(女船頭歌、リンゴ村から、哀愁列車他)の歌からフランク永井さん(有楽町で逢いましょう、霧子のタンゴ、夜霧の第二国道他)、三浦洸一(東京の人、落ち葉しくれ、伊豆の踊子他)、アイ譲二(赤いグラス他)、春日八郎(別れの一本杉他)、三船浩(男のブルース他)などレパートリーは二百曲ほど…。
私はその時、神戸一郎さんの「十代の恋よさようなら」を歌って入賞しました。
当時放送局は、予選などであまり変化がない出場者の場合、電話が掛かってきました。面白くするために対抗馬を出すのです。
何回かかかってきて出た思い出があります。
その後、牛乳石鹸歌謡学校によばれて毎週大阪の電通スタジオへ…。
さらにテレビの普及に従い、コマーシャルタレント養成所の推薦されていきました。その時、フジテレビて゛人気のあったロイジェームスとの共演依頼がありましたがタレントイジメで有名と聞き、断り。
エコー歌謡学院で本格的に歌の勉強…。売れっ子になった松山恵子とは、同級でした…懐かしい思い出です。
大学卒業後は、歌の世界とはきっぱり離れました。
何年か経って…京都のナイトクラブ、ベラ三で松山恵子さんと出会ったのが最後でした。
合氣武道との両立しての歌の世界は、楽しい思い出一杯の時を…過ごしました。何時の日かNHKののど自慢に出るつもりです。
85歳の新人歌手…やる気マンマンです。



38分 ・
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posted by 弘心 at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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