山岳道路ほか50路線、橋梁の架け替え20橋梁、都市公園の整備、都市緑地、児童公園、近隣公園等の整備、河川改修、公園墓地整備、都市計画道路、同和地区整備、商店街再開発、放置自転車対策と整備計画の策定、全国で初めての機械式駐輪場の計画と実施、国鉄南地区都市再開発事業の基本構想・基本計画・実施計画と事業実施、阪急電鉄高槻市駅前再開発事業計画・実施、阪急電鉄立体交差事業計画と実施、摂津峡公園整備計画・整備事業、最終処分場整備計画と実施、前島焼却場新設事業、総合センター新設事業計画と実施、地域防災計画の策定……。
高槻市長から招聘されて奉職、在職38年間、数え上げればきりがないほどの事業を手掛けてきた。
そして38年間で出会った人は、4721人。その中で多くのことを学んできた。
高槻市には何の地縁血縁もない者が多くの仕事が出来たのは、素晴らしい人達との出会いであった
シビル・エンジニアとしての自負は、学生時代に多くの専門知識を身に着けたことである。
都市計画・地域計画としての都市工学、道路工学、河川工学、港湾工学、材料工学、橋梁工学、応用力学、水理工学、土木施工、公園工学、鉄道工学、隧道工学、測量工学、機械一般、建築一般、電気一般…など今思い出しても懐かしい。
そして大阪と京都の中間に位置した高槻市は地の理から人口急増都市として全国でも珍しい急成長を遂げる。
昭和30年代、まだ戦後処理が残存…、新しいまちづくりが始まったのである。
私が一最初に手掛けた事業は、摂津峡耶馬渓公園と府道を結ぶ山岳道路であった。
この山岳道路の事業のためには、最初に国土地理院の二千分の一の図面で現地踏査をおこなう、そして次にペーパーロケーションをして、概略平面哃をつくる。次に実施測量にはいる。トランシット、レベルを用いてトラバース測量。次にトラバース測量が完了したら、誤差論をもちいてトラバース(骨格)を閉合をさせる…これが一苦労なのである。今のようにPCも電卓もない時代、計算尺と手回し機械計算機を用いる…これがまた大変な作業でした。いまでは一瞬にしてできます。これが丸一日かけてしかも近似値しかでないのです。
又、測量機械そのものも扱いが大変でした、特にYレベルは絶えず調整が必要なのです…。
そして継ぎにオフセット(平板)測量です。平板にケント紙をピンでとめて汚れないよう氣をつけて行うのです。その作業は通常三人は必要ですが二人でするのです。
出来上がった図面は硫酸紙でトレースして青焼き図面をつくります。
その図面に計画線を入れて、次に縦断図・横断図の為に縦断測量と横断測量を実施。
つぎに道路構造令に従い、幅員、縦断計画と切土盛土のバランスを考えて、全体設計を行います。
計画平面図・計画縦断図、横断面図・構造物詳細図、土量計算書、代価表、内訳書、設計内訳書…。これで実施設計の出来上がりです。
次に、仕様書の作成。決済書類として稟議。
決済が済めば、業者の選択、通知して入札を実施。
工事着工となります。現場管理を行い、工事写真を撮る。完成すれば竣工検査実施。問題がなければ事業完了となります。
このような事業を年間50件もするのです。積算は全て積み上げて代価表を作るのです。土工は当時一日当たり、314円でした。歩掛は手づくりです。
諸経費、一般管理費などは、国が定めた基準に従います。
このようにして、全ての設計作業は市の技術職員が行いました。
今は、測量は測量専門業者に委託。設計は設計コンサルタントに委託、現場管理も業者委託…
何にために市に技術職員が存在するのか…。
私は橋梁が専門でした。橋を設計するのは大変夢がありました。
学生時代には、木橋から始まり、RC喬、ラーメン、合成桁、プレストレストコンクリート喬、Tセクションポストテンション方式橋梁、トラス喬…など数多くの橋梁を設計してきました。これが大変役立ちました。
高槻市で橋長25メートルの橋ですが全国で初めてという橋を設計しました。
中空穴あきホローポストテンショニング方式の橋梁です。一等橋で桁高さ80cmです。非常にシンプルな橋でした。
当時大阪府に軌道橋梁係がありました。その係長が京大出身で橋梁が専門でした。話が合い楽しい仕事でした…。
昭和46年に都市計画法が改正、「新都市家計画法」として発布された。これはいままでとは大きく変わりました。旧都市計画法は、全て国の主導でものごとが決まるような内容でしたが、新都市計画法は、国民が主役となる内容で国民との合意形成が必要とされたのです。
それとともに、面的な街づくりはイギリスの法律を参考にして「都市再開発法」が施行されました。
高槻市は国鉄南地区市街地再開発事業として基本構想・基本計画・実施計画に踏み出しました。
この事業は工事費約400億。キイテナントの誘致など難問に挑むことになる…。その過程で大蔵省元銀行局長の大月 高氏、町村自治大臣、佐藤栄作総理大臣の子息佐藤竜太郎氏、アジア開発の半田氏、鹿島建設三苫常務氏、キイテナント誘致に高槻市長が土座してお願いした岸信介氏と巣鴨プリズンで同房であった松本啓次郎氏…その他多くの人との出会いが私のその後を大きく変えていきました…。その中でも田中角栄氏との出会いは、私には一番の思い出であります。
つづく
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