2025年03月27日
植芝盛平が藤平光一(敬称略)に伝えたこと
1974年に「合気ニュース」を創刊された編集長のスタンレーブラニン氏(合気道史家)が語る藤平光一先生の実像。
藤平光一先生との出会いとともに1997年まで藤平光一宗主と7回の会見が行なわれました。その中でのトピックスとしてのニュースは「藤平先生はそれまで武道関係の雑誌のインタビューに応じなかった理由として、「私が昔のことをしゃべったら、彼ら(植芝盛平の弟子たち)がダメになってしまうだろうと思ったから(合気ニュース110号)」と言われています。つまり、植芝盛平翁を神秘化したり超能力者にまつりあげている弟子たちにとって、盛平翁の強かったのは彼が完全にリラックスしていたからだという事実が明らかにされてしまっては……困るわけです。「しかし、本当のことを残しておかなければなりません」ということで『合気ニュースの一連の会見の実現となったのだといわれています。何故、植芝盛平は強いといわれるようになったのか…当時合氣会総師範部長であった藤平光一師範は、「それは完全に力を抜く、即ち、リラックスを会得されていたからなのです」と見抜かれていました。決して神秘的ではなく、当然の結果なのです。既に極意を会得されていた藤平光一師範(合氣道十段位)は、1960年代後半から70年代にかけて藤平先生の海外での活躍には素晴らしいものがあります。事実、当時の私たちにとり、植芝盛平先生は壁に貼ってある写真の人、神秘的な存在でしかありませんでした。しかし、藤平先生は実際に腕をとって投げおしえてくださる現実の人。具体的に解説を交えて教えてくださる堅実のひと、として人の心に入っていきました。そうした合気道普及での藤平先生の活躍は、残念ながら現在出回っている合気道関係の書物には残されていません。私としては、そういう事実を合氣道史上に残しておきたい、現在の若い人たちに知ってほしいと思ったのです。
私(奥山)は、藤平光一先生(合氣道十段位・心身統一合氣道創始者)に師事して約四十数年になります…。その間、合氣にかんして多くのことを学びました。
当時合気会の総師範部長として国内はもとより、海外二十数か国に合氣道を広められた功績は、偉大なものです。そのことを無視して、さらには合気会のあらゆる書物から名前を消し去ったことは、合氣道界の大きな汚点として残りました。海外の道場から藤平先生の写真を取り外し、海外での指導者である藤平先生の立場を取り上げた行為は、決して許されるものではありません。
当時藤平光一先生から頂いた書簡の中には、その経過について、一部始終書かれていました。私は今、その書簡を読むたびに胸が張り裂ける思いになります。(何時の日かその手紙を公表する時がくると思います)
しかし、如何なることをされようとも「植芝盛平翁を生涯の師」として仰がれた姿は、人として人間としての生き方を示されたものして尊敬以外何物でもありません。
藤平光一先生は、合氣道は「完全に力を抜く…リラックス」ことが一番重要であり極意であると説かれました。中村天風翁の心身統一道と「心が體を動かす」と言う言葉、植芝盛平翁の「合気は愛じゃ、わしの合気は米糠二合持つ力があればできるんじゃ」という言葉、更には山岡鉄舟の一九会での禊修行などで、そのことを会得されました。
武田惣角から植芝盛平そして藤平光一と伝えられた合氣道は、人の氣に合わすのではなく、「天地の氣に合する道」が合氣道である…更には真の合氣道とは何か…、相対世界ではなく、絶対的自己を造り上げること、即ち「争わざるの理」と「自らの人格を造る」ことに在ると喝破されました。
私達は藤平光一先生が創建された「心身統一合氣道」を藤平光一先生から直接学び、先生亡き後は、子息の二代継承者藤平信一会長のもとで世界に広められています。藤平信一会長は、父藤平光一先生に想像を絶する教えのもとに耐え、見事に合氣道の真髄を会得されました。私は二代継承者藤平信一会長を4歳の時から見守って来ました。そしてこれからの合氣道界を牽引されるのは彼以外に無いと断言致します。
会友一同、さらに前進されますことを期待致します。
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