国会を無視した形で、一国の総理が辞任…、国技?である相撲界での横綱の品格としごき死亡事件…、ボクシング試合でのあきれたパフォーマンス…、自分の子供を単車の荷物入れに閉じ込めて死なせてしまった親…、子供を殺す大人…、親を殺す子供…など、殺伐とした世相は、いったい日本人の心に何が起こっているのか。
マスコミでさまざまの分野の方が話をされている。しかし、どれももう一つ核心を突いたものではない。
それでは、日本人の心とは一体何なのか。どのような心をいうのか。
浅学の私が思うには、識としての心の本質は人種・民族の違いなど関係なく変わりはない。
しかし、人間が存在している位置関係には大いに影響されると考える。日本という国は、四面を海に囲まれて、自然発生的には混血は生じえない。島国の特徴でもあろう。特に、教育の影響はおおきい。
以前にも、述べたように、日本人には、徳川家康が関ヶ原の戦いの後、官学として儒教・儒学としての朱子学を用いたのは周知の事実である。少なくとも昭和の初めまでは、清貧に甘んじながらきりっとした精神的きだかさがあった。
最近特に、「癒し」という言葉が盛んに巷にあふれだした。
私か子供の時代、そして昭和30、40、50、60年代にもなかった様に思う。
広辞苑には「癒し」はない(第4版)。動詞の「癒す」はある。意味は
「病気や傷をなおす、飢えや心の悩みなどを解消する」と記載されている。
なぜ、今、「癒し」にこだわるのか。京都大学名誉教授河合隼雄氏は
「…仏の救いを求めて人々が喘いだ中世と何か事情が似ている…」と
言われている。
「飽食の時代などと言われているが、何かが欠けている、何かが足りない、そこに生じる不安を解消してほしいという願いが、現代日本人のなかに相当強くなっている…」すなわち、「心の癒し」を求める人たちが充満しているのが現代社会であると。
先に述べた日本人の心は、「衣食住足りて礼節を知る」とは逆に、
「衣食住足りて心の癒しを求める」という状態になってしまったことに、根本的な原因がありそうである。
今の日本人には、自分自身に自信がない、ことが大きな原因となっている。
最高学府を出て、一国の総理大臣にまでなった人物が、知識を見識・胆識とまで昇華できずに引責。さらには、三教育(家庭教育・地域教育・学校教育)で充分な徳育が培われなかったことが禍となり生じたといっても過言ではない様々な事件…。
そのことを予測してではないが、武士道、品格と名をつけた本が人気を博している。
今日のテレビで、ガッツ石松氏が「…どのようなスポーツでも、心が伴わなければ上手くならない…」と言われていたことが印象的であった。
「物の時代」から「心の時代」と言われて久しい。そろそろ本格的に「心の時代」を克服して、次の時代を模索すべきではないか。
2007年10月18日
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