2008年02月20日

田舎坊主の愚言

一月に身内の法事があった。その時、来られた僧侶が大変面白い方で、法事の最後に自ら書かれたものを配られた。
紹介しよう。
           田舎坊主の愚言
 昨年は、「偽りの一年であつた」とか。
産地の偽装、消費期限、賞味期限のごまかし等で、「赤福」、「吉兆」等が、マスコミにたたかれました。清水のお坊さんも、「こんな字が選ばれることは、誠になげかわしい」と告げておりました。
だました人や業者のみが、批判されたり、たたかれたりしている中にありながら、一度だって、だまされたり、世の流れに流され、つまらぬ慣習を伝統としていることにならされて、自分自身がだまされたり、だまされていることも氣付かずにいる大衆の「無智」に忠告を与えるマスコミの現状をあなたは、どう思っているのでしょうか。
 だまされ易い素質をもつ日本人が多いから、だます人や業者が絶えない面を大衆は、しっかりと見極めて、「他人が悪い、悪い業者が多すぎる」と言う前に、そのようなものを生み出している己をもっと厳しく問い返さないと駄目でしょうね。
 「こんな字が選ばれて」と嘆いておられるお寺さんやお宮さんにお尋ねいたしたいですね。「あなた自身、お礼やご祈祷が真実、無病息災、家内安全を保障します」と、人間の愚かな期待や不安を「慣習と伝統」の名にかくれて大衆をごまかしていませんか。新学期になると「進学保証の神仏」が流行し、新生児誕生前になると「安産のお礼」が売り出されたり、誠にまやかしいものが多く残存し、多くの日本人の「あまえ、もたれ、願望」からくる「騙され易い素質」を助長してはいませんかと。
 憲法の第9条を守り、平和を求められる人々の中にも、何故か「春闘」とか、「要求貫徹に向かって戦いましょう」と「闘」の語を無批判的に使われたことがありますね。
又、自らの心やさしい親切心を外に見せて、病に倒れて入院中の友を見舞われて、外見温厚そうな素振りをされつつも、心の中にある「病」に対する人間的のな「にくしみ」から、つい「闘病に心がけて下さい」と「闘」の語が出てくるではありませんか。
 親鸞聖人様は、このあさましい人間の心を自らの心の中にも内在していることを嘆かれて、「修善も雑毒なるゆへに、虚仮の行とぞなづけたる」と説かれています。如何に美しい、立派な善の行為としておこなっている人間の行いも、常に内面にはきたない、にごった汚れた人間自性の悪が潜んでいるもので、真の行ではありがたく、偽りの多い虚構の行ではなかろうかと厳しく自らを省みられているのです。
 日本にも、古来より素晴らしい言葉が多く残されていますね。
むやみやたらと相手と争い、たたかう心をもたず、共に目標にむかって努力しましょうという「切磋琢磨」等。角や骨や石等の荒々しいものを磨き上げ、勉めに励んで共にがんばりましょうとね。
又、「闘病」なんて不用意な語ではなく、生きる力を養いましょう。
育てましょうと「養生」という素晴らしい言葉がありますね。
教育は、まことに大切であります。然し、一つ誤って「進学競争」に勝利するなんて考えで、若し、先生がそのことにとらわれて「皆さん、しっかり勉強して、この厳しい進学競争に勝ち抜きましょう」なんて言葉を発したならば、一体どこに「生命の大切さ」なんてあるのでしょうか。
 過日、永平寺の官首宮崎奕保(えきほ)様が、106歳を人生の最期として1月5日に還浄されました。
師は、お弟子達に「人間は、常に栄誉栄達や財力を求め、それを成就することを人生としているが、それはまことに悲しいことであり、欲の中で迷いつつ泳いでいるようのなものだ。実は筍が一枚づつ皮を抜きとる筍の皮を脱ぎ取る如く、その脱ぎ取る如く、その欲を脱ぎ去ることが真の人生であろう」と説論されたと聞いております。 
私は、人間は心にも体内にも「善玉」と「悪玉」を有していて、けっして「善玉」ばかりてはなく、この二つを「共有」し、これをうまく調整している人が、世間では「善い人」であり、「健康な人」と言われているとおもうのです。病気は、「悪玉」の心が「悪玉」の身を過保護して、「暴飲暴食、喫煙」を放置し、身勝手にするから「悪玉」が横着をして「病」になると思います。そして「悪玉」を「敵視」して、にくんだり、闘いを挑んで「薬」で倒そうとすると「悪玉」は、これを拒んで暴れまわり、「副作用」として仕返しにかかるのではないか 「善玉」も「悪玉」も「共生」させて、これを制御し調整することが実は「養生」を続ける人生であり、「聴聞、聞法」の日おくりとおもいますが、如何でしょうか。以上

僧は、齢80最を過ぎておられる。長い間、学校の校長先生として務められておられた。浄土真宗のお寺に生まれて、布教と保護司として地域に携わってこらた方で叙勲を受けられたそうである。
最少限度のお布施とされ、戒名料、食事料、お車代、など一般にとられているような費用は一切取られていない。自らの生活費とお寺の維持費の一部になるものだけを、読経料として、受け取られるだけである。しかし、宗派仏教としての枠組みからは出てはおられない。
釈迦の教えは、「真の人間とての生き方」を説いているものである。
死者を弔うだけのものではないことは、言うまでもない。

 
posted by 弘心 at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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