2025年07月02日

体技発表会余話



コロナで一時中断をしていたが再会された。第41回関西地区心身統一合氣道体技発表会。場所は、大阪中央体育館。2025年6月21日(土)。総勢約200人が参加されました。
子供クラスも大勢参加されて、大きな賑わいを見せていた。
この大会を準備から審査後片付け…若手師範、指導員をはじめ多くの方がポランティアで参画された。素晴らしいことで頭が下がる思いです。感謝以外なにものでもありません。
少し、苦言を申し上げます。
それは第38回関西地区心身統一合氣道体技発表会のことでした。
私はその時、大会委員長を仰せつかっていました。その時、小野派一刀流を学んで、一緒だったAさんが見学に来ておられていました…。懐かしくご挨拶をさせて頂いた。その時、Aさんの口から次のような言葉が出た。「奥山さん…あれは武道ですか?」

その時、小学生が「正面打ち呼吸投げ」をしていました。
「投げる側に向かって、受け身をとる者が2mほど離れたところから右手を正面に挙げて、打っていく…。投げる側がすれ違った時、万歳をした左手で相手の背中を押した、すると受け身をとる者が走って行って前受け身をした。
投げる側は、前を見て万歳した腕を下におろした」。
それを見て彼の口から出た言葉でした。
私は返答に苦慮した…。全く技の体をなしていないのです。
心身統一合氣道とはほど遠い技と動きをしているのです。

心身統一合氣道の技は、心身統一合氣道の五原則から成りたっている。そして自らは、心身統一の四大原則を遵守する。そして「全身の力を完全に抜く」ことが極意です。

子どもに完璧なことを求めることは出来ません。
(私は過去25年間で延べ五万人の子供と接してきました。その中で気づいたことがあります。それは教えたことは忠実におこないます。子どもは自然と氣が出ているのです。又、力も自然と抜けています。大人が気付いていないだけなのです)

「正面打ち呼吸投げの場合、相手が打ち込んできた時、相手の腕が動いたとき、素早く腕を相手の腕の外側に上げて(万歳をして)真っすぐに入りなさい。相手の身体と一緒になった時、左手は相手の首の側面に当てて、(手首と肘までを相手の背中に接触させて)、両腕を真下におろす。右手は相手の顔の下にあるので、真上に導き上げるのです。真上に挙げた手は、手の平を返して指先を相手の眉間に向けて下す、その時指先が相手に左の眼をつく、突き刺さる寸前に横に外して下に下ろすのです。すると相手はその氣に導かれて、下に崩れます…。」

これ位のことは、最低説明をして、子ども達にやって見せて、させてみることが必要です。
間違って習ったのか、間違って教えたのか、いずれかの原因でしょう。
大変恥ずかしい思いをした一瞬でした。
しかし、第41回でも同じことが見られました…。残念です。

心身統一合氣道の一つ一つの技には、思想性があります。
このことは、合氣道の技は数百、いや数千あると言われる中で、藤平光一先生が何度も書いては消し,書いては消しされて、纏められたのが30体技なのです。それを横で見てきました。一つの技をきめられた時、先生は何故このような動きになるのか、を説明されました。技一つ一つには、共通したものがある、と言われました。
共通したものとは何か、それを私は「思想性」と感じ取りました。(後に私は『操体感覚20』としてまとめ上げています)

更には、合氣体操から心身統一体操、独り技と名前が変わりました。技と名前が付けば、そこには思想性が生まれます。
独り技には、他の合氣道と類似のものが含まれています。このことも心身統一合氣道では、全く異なった意味を持ちます。
そのことにつきましては、又の機会に説明させて頂きます。
第41回関西地区心身統一合氣道体技発表会が盛大のうちに終られましたこと心から祝福を申し上げ、終わらせて頂きます。
以上
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昇段審査余話



 会長を中心にして、奇数月に行われる師範稽古が終わろうとしている時、「A師範が…B師範の技が効かないと言われた…」との話が出た。一体何の話か判らなかったが…どうやら私のことをいっていることが分かった。
その時はあえて反論しなかった。私は毎日日記をつけてその日に出会った人、話した、聴いたこと等細かに書留めている。
そのお陰で、私は高槻市理事として在職中には、38年間で4721人の方との出会いをさせて頂いた。そして多くのことを学ばせて頂くことが出来た。感謝以外なにものでもない。
阪急電鉄の企画部長で後に阪神電鉄の社長になられた奥田氏、地方自治大臣町村氏、元大蔵省銀行局長大月 高氏、鹿島建設の鹿島正一氏、三苫専務…。
左藤栄作氏の子息佐藤龍太郎氏、田中角栄氏…など、高槻市のビッグプロジェクトを進めるうえでお力を頂戴いたしました。特に「国鉄南駅前市街地再開事業」では、大変苦労をした。都市再開発事業では、キイテナントを探すことが重要となる。イギリスの法律を真似て日本の法律とした「都市再開発法」は昭和49年に施行された。その第一号として取り組んだ事業である。あらゆる人脈を通じての作業であった…。話が横道にそれた。

帰宅してすぐに日記を調べてみた。3月22日大阪中央体育館での講習会でのことである。大変力の入った技をされている方がいた。それとなく助言をしたつもりでした。しかし、「心身統一合氣道の極意は、全身の力を完全に抜くこと」の言葉も知らない方であった。人物とその場のことが判明した。

私は人を褒めることはあっても、人の悪口に罹ることは決して口にしない。いやしたことはない。話の前後を省いて自分の都合に良い言葉だけを口にされたものと分かった。
人としてやってはならないことをされた。直に受け止めて此れからの糧にするか、言われたことに腹が立ったのでその憤りを第三者に話した…。
いずれにしても可哀そうな方である。

早速、会長に伝えると共に、B師範に事の顛末を書き、書簡を出した。
事の真偽がどうであろうとも、人に迷惑をかけたのであればお詫びをするのが人の道である。私はそうして今まで生きてきた。そして人との出会いを大切にしてきた。
B師範から手紙を頂き納得と了解をして頂いた。
こんな些細な事に注視することはないと思ったが、人の名誉に係ることでもあり、又私自身の名誉に関わることであるためにあえて書き記した次第である。
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2025年05月21日

昇段審査


年二回の審査のうち、一回目が行われた。
心身統一合氣道会弘心館道場傘下の東舞鶴教室から二名が合格された。
親子での修練を7年間。まさに継続は力である。
母は二段。娘さんは初段、15歳での合格である。弘心館道場始まって以来の快挙である。
大人に混じって小学二年生の子供が…7年間よく頑張ってくれました。
初段の証書とお祝いの品(袴と帯)品を手渡したとき、目が潤んでしまい証書を読む声が一瞬止まった…。
これも母親いや家族の支えと、修練を共にした多くの人のお陰でのことである。そのことを話した時、本人の目に涙が…。
この経験は、彼女にとって一生の思い出として心に刻み込まれたものと思う。
修練のはじめに誦句集、そして私の生涯の師安岡正篤先生から学んだ「人間」としての生き方、について話をする。
最初はわからないままにじっと耳を傾ける姿が今も思い浮かぶ…。
これからを期待します。


「何のために生まれてきたのか」「今、何のために生きているのか」「心は何処にあるのか」「心とは何なのですか」この四つの提唱を皆さんに示す。
この公案を通過された人は、生活態度も、人に対する態度も、合氣道も大きく変わっていかれる。
特に技が深くなっていかれる。弘心館道場の理念(争わざるの理)そして目的(人格の涵養を図る)に一歩近づかれる。
私は全ての修練生に期待するものです。
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2025年05月06日

伝える者


今から60年前、中村天風先生に出会った。その時に言われた言葉が「お前さんが主人公だよ」の一言。戦争という一つの歴史に翻弄されながら、稀有な運命を生きてこられた人である。
奔馬性結核という肺全体が広範囲にわたって侵される病で、当時抗生物質などなかった。かかれば死に至ると言われた病気であった。その様な中で、天風先生はある人物との出会いをした。その出会いが天風先生の人生を大きく変えることになる。
ヨーガーの大聖人カリアッパ師との出会いである。治療を求めてアメリカへ行った帰りの船中のことであった。
そして、師についてヒマラヤに…。三年にわたる想像絶する修行を経て、病気を治して帰国する。
則ち、心が身体を動かす原理を会得されたのである。
財界に身を挺しては企業のトップにまで上り詰められた。そして後に天風会として、政財界のトップリーダーに大きな影響を与えた。
人に大きな影響を与える人物とは、物事の真理を会得することにより、絶対的自信に溢れた人物である。
振り返って、武道を伝えようとする者は如何であろう。一つの武道を例にとれば藤平光一先生の門下生の話。

社会経験の無いまま或いは希薄のまま、人間としての生き方を学ばないまま道場に入門、一つ覚えのように技を覚えて、高段者と呼ばれそのまま人を指導する…。
人と人との交わりが希薄のまま、さらには素養のない人物が先生と呼ばれて…。そこから人災が始まる。
自分が偉くなったように錯覚を起こして、傍若無人な行いをする…。
あたりかまわず大声をだす。氣にいらなければ怒鳴り散らす…。指導者心得など
読んだこともないのであろう。上には忖度をして、下には威張り散らす…。
そんな姿を二人みてきた。一人は高弟と言われた人物、一人は師範と云われる人物。常識は考えられない言葉と罵倒、行動。
其の為に的にされた人は、「あの人にはついていけません。やめさせて頂きます。」明日が昇段審査日と云う日のことである。
私の道場から四人辞めていかれた。
長い月をかけての修練…本人の胸中は如何なものであったか、今も胸が痛む思いでいる。

人を指導、導こうとするものは、相手の心を知り、相手の氣を尊び、相手の立場
に立ち、共に行こう、共に前進しようと思う心がなくてはならない。
欲を言えば自らに心の師を持つことである。
そして素養と共に人間としての生き方についての哲学を学ぶことである。


  
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2025年05月04日

まなぶ姿勢


心身統一合氣道というものが誕生する以前から、教室を持って多くの人たちと接してきた。藤平光一先生が財団法人合気会の総師範部長をされ海外に指導されていた時期。
1974年、私は合気会で学び、合気会で初段・三段の時に高槻市で「合気道高槻スポーツ少年団」を結成して子供クラス120人を教えていた。

そして藤平光一先生が合気会総師範部長を辞職。私も合気会を辞め藤平先生に師事。藤平先生は心身統一合氣道を創設されたのを機に、心身統一合氣道を学んできた…。
そして現在に至るまで、延べ約15万人の修練生との出会いをさせて頂いた。
感謝以外何物でもない。
その間、合気道を学ぶ人の姿勢が大きく変わってきた。
私は生涯の師として仰いだ陽明学者安岡正篤先生に「人として上に立つものの心得」学び、そして藤平光一先生が創られた「心身統一合氣道の五原則」に従い常に人と接してきた。しかし、年月が経って有段者になってくると、最初の無に近い状態から少しずつ教わったことを忘れて傍若無人な人間になっていく…。
すなわち人と人との繋がりを忘れて自分が一人でできたような錯覚を起こして氣にいらなければ勝手な行動をとる者が多くなった。
悲しく空しい気持ちになる。それが高学歴の人に多くみられる。
その中には、発達障害を持つ者も含まれる。アスペルガー症候群である。これは心の問題ではなく脳の一か所に欠陥がある病気と言われている。
今までに数名が見つかった。高齢に達してから出てくる場合もある。

人の恩を大切にする。人として無くしてはならないものである。武道は師弟関係で成り立つ。
しかし、現在はそのような関係を保つことはむつかしい。ハラスメントなどという概念が入って東洋思想が希薄になりつつある。

人は一人では生きられない、多くの人との関りで生かされていくものである。そのことに対して畏敬の念を抱くのは、当然のことと言わなくてはならない。
そのために私は「真の人間としての人格・品格を創る12の徳目」を表した。
その中でも「朋友の信」「謙遜」「徳器成就」は極めて自らのものとしなければならないことは言うまでもない。
勿論、上に立つ者の人格が求められることは言うまでもない。
人と人との繋がりを大切にする。そこには礼儀が存在する。
学習塾とは決定的に異なることを認識すべきある。

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2025年04月20日

生きるとは



山岡鉄舟の志を継いだ高弟小倉鐡樹が「一九会道場を創られました。
私は、若い時、その一九会道場で、彼の高弟日野鐡叟について修行しました。日野鐵叟先生には、藤平光一先生も習われました。
其の修行たるは、神道十三派のうち、井上正兼先生の禊教と禅宗をミックスした修業で、心の垢をそぎおとすもの、ともいわれています。
麦八分、米二分のご飯に白湯、たくあんのしっぽです。それで一種間修行です。
昼ごはんの時、日野鐡叟先生が静かに言われました。『麦一粒とも粗末になりませぬぞ…、この前に出てくるまでどれ位の人の努力かありましたか…それだけではなく、この割りばしも、茶碗も、お茶も…、全て人のおかげなのです、自分が独り生きている、などと言うことは出来ません。さらに、お天道様はその光を分け隔てなく降り注いでくれます。善人悪人石や木、犬やネズミにも…。
即ち、自分が生きているのではなく、自分はいかされているのです。
そうした万有を愛護し万物を育成する天地の心を、深く感じることです。
そして、その恩を少しでも何かで返していくことが、生かさせて生きて行くことの眼目なのです…と。

舞鶴から心身統一合氣道の修練生一名が一九会道場で初学の修行を終えました。
彼がこの先どのように変わっていくのか見守りたいと思っています。

東洋哲学者・陽明学者安岡正篤先生からは、人間としての生き方を学びました。
人を創る、組織を創る、国を創るための精神的・原理であります「四維」の実践です。即ち、「礼・義・廉・恥」です。
更に、人、組織、国を滅ぼすのは、「四患」即ち「偽・私・放・奢」です。この説明は長くなりますので、宜しければ、ブログ、HPを見て頂ければ幸甚です。

人の為に無私の想いで尽くす、四無量心に生きる。これこそが、今私たちが心しなければならない第一義なのです。
話は変わりますが、台湾で日本の教師が命がけで教育として伝えたもの「道義」なので。
これが台湾の方々の中に、脈脈と伝えられているからこそ、台湾を愛するのです。
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2025年03月27日

植芝盛平が藤平光一(敬称略)に伝えたこと


1974年に「合気ニュース」を創刊された編集長のスタンレーブラニン氏(合気道史家)が語る藤平光一先生の実像。

藤平光一先生との出会いとともに1997年まで藤平光一宗主と7回の会見が行なわれました。その中でのトピックスとしてのニュースは「藤平先生はそれまで武道関係の雑誌のインタビューに応じなかった理由として、「私が昔のことをしゃべったら、彼ら(植芝盛平の弟子たち)がダメになってしまうだろうと思ったから(合気ニュース110号)」と言われています。つまり、植芝盛平翁を神秘化したり超能力者にまつりあげている弟子たちにとって、盛平翁の強かったのは彼が完全にリラックスしていたからだという事実が明らかにされてしまっては……困るわけです。「しかし、本当のことを残しておかなければなりません」ということで『合気ニュースの一連の会見の実現となったのだといわれています。何故、植芝盛平は強いといわれるようになったのか…当時合氣会総師範部長であった藤平光一師範は、「それは完全に力を抜く、即ち、リラックスを会得されていたからなのです」と見抜かれていました。決して神秘的ではなく、当然の結果なのです。既に極意を会得されていた藤平光一師範(合氣道十段位)は、1960年代後半から70年代にかけて藤平先生の海外での活躍には素晴らしいものがあります。事実、当時の私たちにとり、植芝盛平先生は壁に貼ってある写真の人、神秘的な存在でしかありませんでした。しかし、藤平先生は実際に腕をとって投げおしえてくださる現実の人。具体的に解説を交えて教えてくださる堅実のひと、として人の心に入っていきました。そうした合気道普及での藤平先生の活躍は、残念ながら現在出回っている合気道関係の書物には残されていません。私としては、そういう事実を合氣道史上に残しておきたい、現在の若い人たちに知ってほしいと思ったのです。

私(奥山)は、藤平光一先生(合氣道十段位・心身統一合氣道創始者)に師事して約四十数年になります…。その間、合氣にかんして多くのことを学びました。
当時合気会の総師範部長として国内はもとより、海外二十数か国に合氣道を広められた功績は、偉大なものです。そのことを無視して、さらには合気会のあらゆる書物から名前を消し去ったことは、合氣道界の大きな汚点として残りました。海外の道場から藤平先生の写真を取り外し、海外での指導者である藤平先生の立場を取り上げた行為は、決して許されるものではありません。
当時藤平光一先生から頂いた書簡の中には、その経過について、一部始終書かれていました。私は今、その書簡を読むたびに胸が張り裂ける思いになります。(何時の日かその手紙を公表する時がくると思います)
しかし、如何なることをされようとも「植芝盛平翁を生涯の師」として仰がれた姿は、人として人間としての生き方を示されたものして尊敬以外何物でもありません。

藤平光一先生は、合氣道は「完全に力を抜く…リラックス」ことが一番重要であり極意であると説かれました。中村天風翁の心身統一道と「心が體を動かす」と言う言葉、植芝盛平翁の「合気は愛じゃ、わしの合気は米糠二合持つ力があればできるんじゃ」という言葉、更には山岡鉄舟の一九会での禊修行などで、そのことを会得されました。

武田惣角から植芝盛平そして藤平光一と伝えられた合氣道は、人の氣に合わすのではなく、「天地の氣に合する道」が合氣道である…更には真の合氣道とは何か…、相対世界ではなく、絶対的自己を造り上げること、即ち「争わざるの理」と「自らの人格を造る」ことに在ると喝破されました。

私達は藤平光一先生が創建された「心身統一合氣道」を藤平光一先生から直接学び、先生亡き後は、子息の二代継承者藤平信一会長のもとで世界に広められています。藤平信一会長は、父藤平光一先生に想像を絶する教えのもとに耐え、見事に合氣道の真髄を会得されました。私は二代継承者藤平信一会長を4歳の時から見守って来ました。そしてこれからの合氣道界を牽引されるのは彼以外に無いと断言致します。
会友一同、さらに前進されますことを期待致します。

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2025年02月14日

フジテレビの話題

フジテレビの話題
タレントと女子アナの関係についての問題が一企業の存亡に関わる事件に発展している。
テレビのスイッチを入れると、いずれも専門家と称する人たちが我が意を得たりとばかりに喋っている…。
不思議な光景である。

男女間の問題は、いつの世にも変わりはない。
しかし、物事の真理をしることをしない、いや出来ない人間が多くなった。
問題のフジテレビの経営者は、いずれも高齢者であるが素養がない。
佐藤一斎の「言志四録」の一冊でも読んで居れば、企業経営者してまともな判断が出来たであろう。
欲を言えば安岡正篤先生の「『人間』としての生き方」を知れば決してこのような事態にはならなかったのではないか。
人間は、知識だけでは駄目である。それを「見識(智慧)」にして、実行する「胆識」さらには、「節操」を揺るがない自らのものとしなければなりません。
日本には、「品格」「人格」という言葉はないのか。

今、日本人に欠けているのは、この一点につきる。

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2025年01月10日

たそがれ清兵衛

たそがれ清兵衛
 藤沢周平原作を映画化。山田洋次監督の作品。
監督  山田洋次
    朝間義隆
撮影  長沼六男
音楽  富田勲
出演 真田広之(井口清兵衛)、宮沢りえ(飯沼朋江)、小林捻侍(久坂長兵衛),
田中 泯(余呉善右衛門)
本作は、第76回(2004年)アカデミー賞(外国映画賞)にノミネートされました。
素晴らしい時代劇でした。特に、殺陣の場面がリアルに描かれていて、実際にはこのようなことになるのでは…と思わせるものでした。他の時代劇のように20人ほどの切られ役が自分から飛び込んでいるようなものではない。
又、出演者すべてが庄内弁を話していて、その発音も自然なものである。
江戸時代の最後(幕末)を表すような場面も見ていてよくわかる。
最後の場面、井口清右ヱ門が反逆者をうつことを藩命として受け入れて、余呉善右衛門との対決は、目をみはるものがある。余呉善右衛門を演じた田中 泯氏は舞踏家である。
その彼が死を意識しての決闘の場面に、舞踏家として死の表現を全身の動きに表していることに圧倒された。世界的有名な舞踏家田中 泯氏はこの作品で俳優デビューを果たした。
剣を極めた者同士が闘うということは、実際はこのような形になることを…ぎりぎりの形まで、表現した時代劇だと思う。
特に井口清兵衛の心の中にある「生きるとはいかなるものか」との思いが全身に表しての演技は心うつものがあった。権力も金も身分も、しきたりも、人間の生きていく上には本来は不必要。人として、人間として、いかに自然との営みに応じて生きていくことが出来るか、他の人の幸せのために自分の為すべきは何なのか、このことが一番大切なものであると…。
私がふるさとも何もかも棄てて、限界集落と云われるところに一人来た…。そして古い民家を潰して、小さな庵を建てて、山と畑を相手に自然と共に生きる決意をした…。
何故かこの映画の主人公に心惹かれるものがある…。
そして今、新たな多くの心友を得て、大切なものを手に入れた…。
生かされている意味を…。
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2024年12月12日

道場

道 場
 心身統一合氣道会弘心館道場に規約が存在する。
その主なものとして、「争わざるの理」を理念とし「人格の涵養を図ること」が目的としている。そして「四維」遵守して、「四患」は決しておこなってはならない、としている。
このことは、武道(心身統一合氣道他)には、「『人間』としての生き方」を学ぶことにあるからであります。
振り返りますと、私は75年にわたって合氣道なるものの真髄と、物事の真理を求めてきた。
父奥山喜峰、植芝盛平翁、中村天風、日野撤叟、藤平光一、安岡正篤(敬称略)その他多くの先達から学ばせて頂いた。感謝以外なにものでもない。
しかし、小生の未熟さから、過去弘心館道場において、導き得なかった者がいる。残念である。
一人は、性格異常と言わざるをえない者でした。道場に来られている女性会員に今でいうセクハラ行為をしたのである。何故かすぐに辞めていく人が増えだしたのです。被害にあった人に話を聞くと、聞くに堪えないものでした。
破門としました。
もう一人は、発達障害(アスペルガー症候群)であることが発覚しました。
自分のことしか頭にない、話す言葉の内容が理解できない、目を合わさない、話している言葉の行間にあるものを読み取ることが出来ない…など。その為に、人としての守るべき筋道が理解できない為、非常識な行動に出る…他。
専門医の話では、この病気は脳のある部分に障害があり。薬や心の問題では治療できないということでした。
そのことに長年気付かなかった自分自身に荒まじい怒りを感じました。
除籍処分としました。
いずれにしても教える者、学ぶ者は、「啐啄同機」を心中にもつと共に、「教学相長ず」を共感することが重要であります。





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2024年12月07日

体技講習会の開催

2025年から心身統一合氣道会弘心館道場は、一般の修練日以外に体技講習を実施します。
他の道場・教室の皆さんも、奮ってご参加下さい。お待ちしております。
6か月間の日時・内容を表示いたします。

日時・内容    2025年
          1/18(土)  第1体技・第11体技(方手取り)
          2/15(土)  第2体技・第12体技(片手取り両手持ち) 
          3/15(土)  第3体技・第13体技(横面打ち)
          4/49(土) 第4体技・第14体技(両肩取り・肩取り)
          5/17(土)  第5体技・第15体技(子供・中学生)
          6/21(土)  第6体技・第18体技(後ろ技)

修練時間      15:45〜17:00

講師        奥山弘邇師範

参加資格     心身統一合氣道会会員
         他の道場からの参加は、当該道場教室責任者の許可を得て
ください。
受講料      弘心館道場会員は、受講証1枚
         他の参加者は、2000円   
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2024年11月05日

令和六年度台湾台北教室への指導について(報告)


京都府舞鶴市字久田美1618番地
心身統一合氣道会弘心館道場
師範 奥 山 弘 邇

令和六年度台湾台北教室への指導について(報告)

標記の件、台湾への心身統一合氣道の指導は2009年から今回で23回を迎えました。今回の指導経過につきまして報告します。
                   記
日  時    令和6年10月18日(金)〜21日(月)まで。
場  所    中国文化大學 武道場・民生釈社区活動中心・武少林台北道場
目  的    ○原点に戻っての基本的項目について。
○心身統一合氣道指導(初心者向け・初段・二段・三段の体技)
○心身統一道の指導
        台北教室会員の家族との交流・台湾合氣道会との交流その他。
経 過
今回の台湾への目的は、原点に戻って「氣とは何か。心とは何か。心が身体を動かすとは如何なることか。心身統一道とは何か。心身統一の四大原則とは。心身統一合氣道とは何か。心身統一合氣道の五原則とは。操体感覚20項目について
説明。特に理念は「争わざるの理」、目的は「人格の涵養を図る」について説明。
解説表武を通じて伝えました。

第一日、中国文化大學において修練実施。
第二日、武少林台北道場において修練実施
第三日、民生釈社区活動中心において修練実施
参加者総数……約150名



特に藤平光一先生が生涯の師として仰がれた植芝盛平翁。私が盛平翁から学んだ技を、私が142cmに身をかがめて190cm、体重120kgを相手にして一瞬に崩したとき、この技は、藤平光一先生の技と同じなのです。則ち、力を完全に抜くとできるのです、と言いますと大きなどよめきがありました。
それ以降は、参加者の観る目が違いました。
私は台湾での指導は、如何なる人も排除は致しません。すべて来るを拒まず、といたしております。
そして、物事には真理がある、との言葉通り真理が示すものには全ての人の心を引き付けます。台湾の合気道を学んでおられます方々、熟考の上私のもとに参加されますのはそれ所以であります。
最後に参加されました人からメッセージが届きました。その内容は次の通りです。
「先生 昨日の稽古で色々刺激を受けて、大変勉強になりました。今回の講習を受けて、心は行動に影響を与えることを実感し、貴重な経験をいたしました。
また、心とは何か? 合氣道とは何か? 新しい視野で考えさせることが出来ました。本当にありがとうございます。これからも探究と修練を続け、次回会う時少しでも成長が出来るよう頑張ります。 呉」
この言葉で今回の湾台北教室の指導は成功裏に終ることが出来たと確信を得ました。
そして台北教室の会員の皆さんには、ワンゼネレーション30年先を観て活動をして下さい、と伝えております。
これを持ちまして報告とさせて頂きます。

以上

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2024年08月21日

令和六年度高野山夏季合宿について


標記の件、8月17〜18日実施いたしました。
心身統一合氣道会弘心館道場開設記念夏季合宿は、宿坊は天徳院。修練は高野山大学武道場にて実施いたしました。
参加者は、台湾台北教室が五名、弘心館道場から十一名。
夏季合宿はコロナ禍におきまして五年間実施することが出来ませんでしたが今年も弘法大師空海の根本中堂の地において実施できましたこと大変意義がありました。
修練にあたり誦句集を唱和、そして「心とは何か」「心は何処にあるのか」空海の言葉「悟りも真理も全ては自らの心の中にある(般若心経秘鍵)」「心の曇りを取り,ものを正しく見る(弁顕密二教論)」「善行が心を清くする(性霊集)」などを講話。
修練は「操体感覚について」から始まり、規定体技の基本技・通常技を六時間実施いたしました。
最後に弘心館道場の理念は争わざるの理、目的は、自らの人格の涵養を図ることを確認させて頂き、大変有意義なうちに無事おわることができました。
又、奥之院(弘法大師御廟)への参拝、空海入定の地を肌で感じ、空海とともにすごした二日間、参加者の皆さんには心から感謝の意を申し上げるとともに、天徳院、高野山大学の関係者の皆さんに心から感謝とお礼の言葉を申し上げ帰途につきました。
その後、参加者の皆さんから、心身統一合氣道の修練の意味、自らの生き方がはっきりしました、との感想を頂き、感無量な想いをいたしました。

以上
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2024年08月16日

我が熱血時代



山岳道路ほか50路線、橋梁の架け替え20橋梁、都市公園の整備、都市緑地、児童公園、近隣公園等の整備、河川改修、公園墓地整備、都市計画道路、同和地区整備、商店街再開発、放置自転車対策と整備計画の策定、全国で初めての機械式駐輪場の計画と実施、国鉄南地区都市再開発事業の基本構想・基本計画・実施計画と事業実施、阪急電鉄高槻市駅前再開発事業計画・実施、阪急電鉄立体交差事業計画と実施、摂津峡公園整備計画・整備事業、最終処分場整備計画と実施、前島焼却場新設事業、総合センター新設事業計画と実施、地域防災計画の策定……。
高槻市長から招聘されて奉職、在職38年間、数え上げればきりがないほどの事業を手掛けてきた。
そして38年間で出会った人は、4721人。その中で多くのことを学んできた。
高槻市には何の地縁血縁もない者が多くの仕事が出来たのは、素晴らしい人達との出会いであった

シビル・エンジニアとしての自負は、学生時代に多くの専門知識を身に着けたことである。
都市計画・地域計画としての都市工学、道路工学、河川工学、港湾工学、材料工学、橋梁工学、応用力学、水理工学、土木施工、公園工学、鉄道工学、隧道工学、測量工学、機械一般、建築一般、電気一般…など今思い出しても懐かしい。
そして大阪と京都の中間に位置した高槻市は地の理から人口急増都市として全国でも珍しい急成長を遂げる。

昭和30年代、まだ戦後処理が残存…、新しいまちづくりが始まったのである。
私が一最初に手掛けた事業は、摂津峡耶馬渓公園と府道を結ぶ山岳道路であった。
この山岳道路の事業のためには、最初に国土地理院の二千分の一の図面で現地踏査をおこなう、そして次にペーパーロケーションをして、概略平面哃をつくる。次に実施測量にはいる。トランシット、レベルを用いてトラバース測量。次にトラバース測量が完了したら、誤差論をもちいてトラバース(骨格)を閉合をさせる…これが一苦労なのである。今のようにPCも電卓もない時代、計算尺と手回し機械計算機を用いる…これがまた大変な作業でした。いまでは一瞬にしてできます。これが丸一日かけてしかも近似値しかでないのです。
又、測量機械そのものも扱いが大変でした、特にYレベルは絶えず調整が必要なのです…。
そして継ぎにオフセット(平板)測量です。平板にケント紙をピンでとめて汚れないよう氣をつけて行うのです。その作業は通常三人は必要ですが二人でするのです。
出来上がった図面は硫酸紙でトレースして青焼き図面をつくります。
その図面に計画線を入れて、次に縦断図・横断図の為に縦断測量と横断測量を実施。
つぎに道路構造令に従い、幅員、縦断計画と切土盛土のバランスを考えて、全体設計を行います。
計画平面図・計画縦断図、横断面図・構造物詳細図、土量計算書、代価表、内訳書、設計内訳書…。これで実施設計の出来上がりです。
次に、仕様書の作成。決済書類として稟議。
決済が済めば、業者の選択、通知して入札を実施。
工事着工となります。現場管理を行い、工事写真を撮る。完成すれば竣工検査実施。問題がなければ事業完了となります。

このような事業を年間50件もするのです。積算は全て積み上げて代価表を作るのです。土工は当時一日当たり、314円でした。歩掛は手づくりです。
諸経費、一般管理費などは、国が定めた基準に従います。
このようにして、全ての設計作業は市の技術職員が行いました。
今は、測量は測量専門業者に委託。設計は設計コンサルタントに委託、現場管理も業者委託…
何にために市に技術職員が存在するのか…。

私は橋梁が専門でした。橋を設計するのは大変夢がありました。
学生時代には、木橋から始まり、RC喬、ラーメン、合成桁、プレストレストコンクリート喬、Tセクションポストテンション方式橋梁、トラス喬…など数多くの橋梁を設計してきました。これが大変役立ちました。
高槻市で橋長25メートルの橋ですが全国で初めてという橋を設計しました。
中空穴あきホローポストテンショニング方式の橋梁です。一等橋で桁高さ80cmです。非常にシンプルな橋でした。
当時大阪府に軌道橋梁係がありました。その係長が京大出身で橋梁が専門でした。話が合い楽しい仕事でした…。

昭和46年に都市計画法が改正、「新都市家計画法」として発布された。これはいままでとは大きく変わりました。旧都市計画法は、全て国の主導でものごとが決まるような内容でしたが、新都市計画法は、国民が主役となる内容で国民との合意形成が必要とされたのです。
それとともに、面的な街づくりはイギリスの法律を参考にして「都市再開発法」が施行されました。
高槻市は国鉄南地区市街地再開発事業として基本構想・基本計画・実施計画に踏み出しました。
この事業は工事費約400億。キイテナントの誘致など難問に挑むことになる…。その過程で大蔵省元銀行局長の大月 高氏、町村自治大臣、佐藤栄作総理大臣の子息佐藤竜太郎氏、アジア開発の半田氏、鹿島建設三苫常務氏、キイテナント誘致に高槻市長が土座してお願いした岸信介氏と巣鴨プリズンで同房であった松本啓次郎氏…その他多くの人との出会いが私のその後を大きく変えていきました…。その中でも田中角栄氏との出会いは、私には一番の思い出であります。

つづく
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2024年08月11日

昭和歌謡の魅力

私が昭和時代の昭和歌謡曲に惹かれていったのは、詩が素晴らしく感じたからです。
西条八十、石本美由紀、星野哲郎、秋元康、筒美京平、サトウハチロウ、阿久悠…などの作詞家の詩は言葉を非常に大切にしていた…。

たった一行の詩を何日もかかって書き表す…など、まさに心血を注いだ言葉です。
それが作曲家と共有され、名曲が生まれていったのです。

特に好きなのは、岡本敦郎さんの「白い花の咲く頃」です。
作詞寺尾智沙、作曲田村しげる。


白い花が咲いていた
ふるさとの 遠い夢の日
さよならと言ったら
黙ってうつむいていたおさげ髪
悲しかったあのときの
あの白い花だよ


歌っていると何か心に変化がおこる…。
「柿の木坂の家」「上海帰りのリル」「男のブルース」…などの詩は心打たれます。


その後、ハワイアンバンドを結成。名前は「エオノ・レイ ハワイアンズ」六つの花輪の意味。スチールギター、ベース、サイドギター2、ウクレレ2の六人。私はウクレレとボーカル。200曲(ハワイアンメロディ以外に、タンゴ、ワルツ、ブルース、歌謡曲など)のリバートリをひっさげて、12月には松下精工のホールで、関西グリークラブと共演など…。これも懐かしい思いでです。
posted by 弘心 at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

我が青春時代

我が青春時代
大阪北区池田町八番地(天神橋五丁目)で生まれて、戦争を体験した。空襲警報…灯火管制…防空壕…大阪大空襲…淀川大橋の下に累々と転がる死体…疎開…田舎における差別…食料品の買い出し…大阪の家(奥山鉄工所)は焼け野原に…プーリーだけがカラン、カランと音を立てていた…。
大阪から高槻へ…母の苦労が始まった…。95歳まで生きた母…しかし、親孝行を十分に出来なかった自分を何時も攻め立てる別の自分がいる…。
生きておられる時に、何故もっと親孝行が出来なかったのか……。
84年生きてきた自分を責める……。
母と共に生きた青春時代は…懐かしい思い出。
五黄の虎年生まれの母は、両親から、この子は後家さんになるから、手に職をといって若い時から日本髪を結う技術を身に着けさせらていた。
それが疎開先の高槻で役に立った。後に山野愛子先生のもとで美容師の免状を取得する…。そして田舎の村での八千代美容室の誕生である。
私が父の会社の東京支店に学業のために四年間旅立つまでは、歌に関心をもつた。卒業後もますますのめりこんだ。
唱和33年から38年にかけては、一番の想いでは、全国ではじめて歌謡大会が大阪市の中央公会堂で開かれた。審査委員長は歌謡界の大御所である林伊佐緒先生。300人の及ぶ参加者があり、予選だけで朝9時から始まり、午後二時までかかった。
予選を通過した者が本選に入ったのは、午後三時過ぎでした。
私は予選通過…。本選で二位に入りました。予選と同じ歌を歌っていれば一位になれたのに違う歌を歌ってしまいました…。三橋美智也の歌、神戸一郎の歌…。それから放送局の歌番組には大方応募して出演した。懐かしい思い出は、藤田まことさんとの出会いでした。
毎日放送での「素人物まねコンクール」。大阪南の映画館、国際会館で市村俊行(ピアニスト)さんの司会で始まりました。その前座に若かりし頃の藤田まことさんが、淡谷のり子の「夜霧のブルース」などを歌っておられました。毎日放送のスタッフの方が「まこっちゃはおもろいおとこやで」と言われていたのが今も耳に残っています。その後、テレビでの芝居「てなもんや三度笠」で大人気に。
その後は、「はぐれ刑事・純情派」など多くの作品にでて人気をはくしました。彼は特に歌が上手で、フランク永井さんの歌は、彼の十八番でした。その後、藤田まことさんとの交流は続きました。
私も音域が二オクターブがでることから、三橋美智也さん(女船頭歌、リンゴ村から、哀愁列車他)の歌からフランク永井さん(有楽町で逢いましょう、霧子のタンゴ、夜霧の第二国道他)、三浦洸一(東京の人、落ち葉しくれ、伊豆の踊子他)、アイ譲二(赤いグラス他)、春日八郎(別れの一本杉他)、三船浩(男のブルース他)などレパートリーは二百曲ほど…。
私はその時、神戸一郎さんの「十代の恋よさようなら」を歌って入賞しました。
当時放送局は、予選などであまり変化がない出場者の場合、電話が掛かってきました。面白くするために対抗馬を出すのです。
何回かかかってきて出た思い出があります。
その後、牛乳石鹸歌謡学校によばれて毎週大阪の電通スタジオへ…。
さらにテレビの普及に従い、コマーシャルタレント養成所の推薦されていきました。その時、フジテレビて゛人気のあったロイジェームスとの共演依頼がありましたがタレントイジメで有名と聞き、断り。
エコー歌謡学院で本格的に歌の勉強…。売れっ子になった松山恵子とは、同級でした…懐かしい思い出です。
大学卒業後は、歌の世界とはきっぱり離れました。
何年か経って…京都のナイトクラブ、ベラ三で松山恵子さんと出会ったのが最後でした。
合氣武道との両立しての歌の世界は、楽しい思い出一杯の時を…過ごしました。何時の日かNHKののど自慢に出るつもりです。
85歳の新人歌手…やる気マンマンです。



38分 ・
プライバシー設定: あなたの友達
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2024年08月03日

師と友

師と友

 師と友は、私たちにとって第二次の父母兄弟です。「骨肉の親」に対して言えば「道の親」と言えます。それは私たちの疲れ、病む心と意志に尽きることのない力と光を与え、疑いや悩みばかりの人生に、意味と喜びや楽しみを恵んでくれる者であります。
よい師や友を得た時、私たちは、ちょうど塵と埃や喧しい騒がしさや濁った空気の都会を去って深山幽谷に入ったように、思わず清新な氣を深く呼吸し、心身はふたたび健やかに蘇るのであります。

 そして、おのずから生まれた英霊(優れた人の魂)の雰囲気が、私たちの踔歯濫ュ(才気や文章の筆力が風を巻き起こすかと思われるほど勢い強いこと)させて、どうかすれば絶望としていた人生に、また神秘的な生き生きとした気分で会い向かわせ、なえてしまいそうだった両脚に強い力を与え、四股を踏み鳴らさせるのであります。
 
 師は、私たちに先立って人世の大変な苦労と闘い、人生の深い道理を探り、優れた人の魂の高い峰を登りつくしつつある人であります。友は、自分と前後して真剣にその後に続いている者であります。
それだけに、道を修める者の間にはおのずからまた肉親の情とは違った敬愛、いわゆる道情が通い合う。これは、人間にとって肉親の情愛よりさらに高い次元の心の作用であります。私たちに親のないことは耐えがたいほどの不幸であるように、師友のないことは最も深刻な寂寞、寂しさであります。

 孔子の第一の高弟である顔回が亡くなった時、孔子はその家にお悔みに行ってひどく嘆き悲しんだ。如何なる場合にも乱れるこのない孔子が、珍しくも哀傷を極めた姿を見せたのに驚いた従者が、後で「先生は大変なげき悲しまれましたね」と言うと、孔子は、「そうたったか。彼の死を嘆き悲しまずに誰のために嘆き悲しむことがあろうか」とため息をついたという。
師弟の道情の細やかさがしみじみ味わわれます。
 
 このようにして師との縁は実に深く深遠なるものが窺えるので在る故に、「縁を断つ」ということは、師にとって断腸の思い万感の想いが心底にあることを知らねばなりません。
posted by 弘心 at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月02日

破門

破門

心身統一合氣道会弘心館道場には、この言葉はあります。
武道を伝える場として存在するのです。
「破門」という言葉の意味は、「師弟の縁を断って門人から除くこと」とある。
合氣道の道場其の傘下の教室は、学習塾とは異なります。人間関係、人と人との繋がりによって成り立ちます。
当然道場には、理念と目的が定められています。
その理念・目的に離脱した考えや行動をとった場合、当然対象になります。
特に「人間としての生き方」を直視します。

其の為、指導者たる者は「佐藤一斎の重職心得箇条」を熟知するとともに、日常の行動に備わっていなければならない。結果、真の指導者の八つの身体的な風貌がなければならない。

弘心館道場では、過去に破門になった者は二名存在する。
弘心館道場に入門された方々は、今一度心を引き締められて、「何のために入門して、何を学ぼうとするのか」を自問していただきたい。
宜しくお願い申し上げます。

心身統一合氣道会弘心館道場 館長

posted by 弘心 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月29日

手紙

お手紙読ませて頂きました。返事に時間が掛かりました。良く頑張っておられます。大変嬉しい限りです。では一つずつ私の考えをお話しましょう。
そのT、「……日々起こる出来事にあててみて…ピッタリ当てはまる言葉がなかなかみつかりませんが…」について。
 私が今まで道場でお話した中には、沢山のヒントがあります。
私が、師、安岡正篤先生から学んだ幾つかの言葉をお教えしましょう。
「感恩の心………人は思えば思うほどいろいろの「お陰」で自分というものができていることが分かる。そこで、いろいろなお陰でできた自分だから、いろいろ報いなければならない。我々は天地の恩、人間の恩、教の恩など、あらゆる恩の中にある。
これにたえず報いてゆくのが生活である。」
「六中観………忙中閑有り(忙しさの中でも心の余裕を見つける)。苦中楽有り(苦しい時でも楽しみを見つける)。死中活有り(身を棄ててこそ浮かぶ瀬もある。)壺中天あり(どんな境遇にあっても自分だけの世界を作る)意中人有り(心から尊敬する人を持つ。)腹中書あり(心身を養って経綸に役立つ学問をする。)
この言葉から思いを馳せて見て下さい。
次に、ものごとをただ、見るということ、あるがままにみるということ、とらわれずに見る、といことです。
正しくみるということは、純粋に、あるがままにみるということです。
人は普段「見る」と言う行為において、目と言う感覚器官をつかってただみているわけではないのです。過去の経験、体験を通して、又、世の中の常識や、また人や本から学んだ知識のイメージも加わって…、そして「好きだ」「嫌いだ」などと、目に映ったものを見ています。このように物差し、感情等のフィルターを通して見ています。
自分では、目で見ているつもりかも知れませんが、実は心のなかのフィルターを通した「心の目」で見ています。これらを外した状態ね何も色を付けない状態で見ること、それが本当に正しく、あるがままに見ることです。それが正しく見るということなのです。

次に「力を抜く」ということについてです。自分を無いと実感することではありません。
心の中を無にすること共に「力を抜いた」と思うことなのです。
肩の力を抜いて、などといいますね。その時は、いったん両肩をギュッと上に上げて、そして下にストンと落とします、その時の身体の状態を言います。
試してください。

言いわけについて、この本真は、自分の氣づきを持って心の動きを知ることです。
言い訳はしないことです。素直に心の動きを正しい方向にむけることです。
すなわち、純粋な透明な心を持って見ていくことです。
全てのものは変化し、きえていく。そのことに気付くことが大切です。前述のあるがままに見ることなのです。そして、思いを正しましょう。瞑想をして「今ここにいる」ことを習慣づけていくようにします。過去でも未来でもない「今ここにいる」ことで不安や心配のない、しあわせで愛に満ちたあなたになれるのです。
そして見返りを求めず相手の喜びを自分の喜びに…。
次に「…何か起こると…あきらめることでしょうか…」についてです。
あきらめることではなく、自らの外側も内側も正しい教えを実践する、そして常に良い行為を繰り返すことです。間違ったことであれば、それをばねにして二度とおなじことをしないと言いきることです。そして、そのことは全て放下します。忘れてしまうことなのです。なぜ?それは過ぎ去ったことは、最早過去のことなのですから…。

最後に、行動も生活も、内面の修行も、凡て精進です。悪行をせず。自分の心身を大切にすることを続けます。今まで自分を責めていたのなら、その記憶も淨めていきましょう
「ポジティブに考える」のではなく、「どちらにも心を使わない」のが理想の状態です。
心を超えて、愛と一体となる為に瞑想を続けていきましょう。
深く集中した先に、自分の本質の理解があります。
そして、すべて自然の法則に従った生活を行うのです。

まだ、書き足りませんが、ご容赦ください。何からヒントにして頂ければ幸甚です。
                             奥山弘邇 拝


posted by 弘心 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月15日

アスペルガー症候群の特徴


○ アスペルガー症候群の特性は、子どもも大人もかわらない。
○ 暗黙のルールを察するのが苦手なので、言動が問題視されるのは社会に出てからのほうが多くなる。
○ 相手の感情をくみ取ることも、自分の感情を伝えることも不得意である。
○ 話し手の言葉を表面的な意味通りに受け取るので、言外の意味や含みのある言葉、冗談などは通じにくい。
○ 話し方で感情表現するのは苦手なので、単純な話し方になりやすい。
○ 手順やものの配置など、自分のルールが崩れると混乱してしまう。
○ アスペルガー症候群は「孤立タイブ」「積極奇異タイブ」「受け身タイプ」の三つに分けられる。
○ 五感を中心に、感覚の隔たりがある。
○ 周囲とうまくかかわれないことで、強い不安やストレスを感じ続けると、二次障害として別の病気になるこがある。
○ 心の病気ではないが大人になるまで気づかないことがある。
○ 自閉症といわれる症状から広がる一連の障害。
○ 生まれつき脳機能の不全が原因。
○ 薬や手術で治すことはできない。
○ 本人の努力と共に、周囲の理解と適切な関りが必要。
○ 他人とのコミュニケーションがとれない。
○ 心身症、対人恐怖症、気分障害、(うつ症状)、摂食障害、睡眠障害などの病気が二次障害として表れる。
○ 遺伝子による遺伝的要因と化学物質などによる環境的要因によって、脳に障害が起こって生まれてくる。
○ その他
以上ですがアスペルガー症候群を「治す」ことしできる治療法というものは、今のところありません。そもそも「治る、治らない」という考え方が当てはまらないといえます。ただし、心身症や気分障害(うつ病)睡眠障害といった二次障害にたいしては薬物治療なとどが有効な場合もあるので、専門医の診察を進めるとよいでしょう。との専門医の見解でした。       以上
posted by 弘心 at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする