2008年08月26日

自己を観る

昭和36年頃だったように思う。
私は当時、「青春の門」をくぐっていた。

自己に対するというか、人生に対するというか、
生き方に対するこころの葛藤が渦巻いていた。

その時、当時、大徳寺塔頭徳禅寺住職の立花大亀老師の
もとで参禅していた。確か、当時で師は61歳位だと
おもう。痩せて華奢な体つきで、しかし、柔和な中に
眼光鋭く、こちらのこころを射抜くような
面ざしの方でした。

ある日の老師の話が、私のこころを変えた。

「…私たちが飯を三度食うのも、死ぬから食うのであるし、衣服をきるのも、着なくては死ぬから着るので、なにもかも、私ども人間のあらゆる働きに死ぬということにかかっておると思うのです。
だから死ぬことはそれでよいとして、生きている間どうあるべきか。
死ぬことを脱皮したうえの人間の在り方は、生活を極めて単純に、文化的にいきていきたい。生かしていくということです。これが人間の生きていく努力になってくるわけです。
禅宗ではまず何のために修行するかということが第一問題は、生死問題と言っています。…まず、死ぬということを解決する。その上で生きている問題を解決していく。この二つをカギとして修行が行われるわけです。そして、自分というものの今の立場というものはことごとく相手があるのです。そして、自分がすっかりすると、対者にとらわれている場合が大方なのです…。腹が減ったから飯を食う。これはいかにも自分です。
ところが、腹が減ったから飯をくうということになってくると、何を食ったらうまい、何が栄養になるかというような、つまり第二義的な観念がすぐについてきて、それは腹が減ったら飯が食いたいという無意味な感じではなくて、すでに第二義的な課題がそこにできてくる。
それは対者に自己をとらわれてしまっているのです。
はなはだしいものになってくると、自分がパチンコをしたいがためにわずかな金がほしい。それで運転手殺しをやるとか、立派な身分の人がデパートで万引きをしたとかいうことにもなる。それはみな相手に自己を奪われてしまっているのです…。つづく
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そばにいてね

????????あなたが好きよ 泣きたいくらい
 あなたがいなければ
 生きては行けないの
 そばにいてね そばにいてね
 独りにしないでね
 そばにいてね そばにいてね
 二人きりの 夢を見たいの
 いつもこの手 握りしめて
 そばにいてね

????????あなたが好きよ 眠れぬくらい
 あなたが 恋しくて
 夢でも 逢いたいの
 そばにいてね そばにいてね
 いつまでも変らずに
 そばにいてね そばにいてね
 私だけをずっと愛して
 いつも肩を そっと寄せて
 そばにいてね

????????あなたが好きよ 死にたいくらい
 あなたのぬくもりに
 つつまれていたいの
 そばにいてね そばにいてね
 離れたりしないでね
 そばにいてね そばにいてね
 愛の子守歌を聞かせて
 いつも抱かれ 眠りたいの
 そばにいてね

今年の七月にでた新譜。作詞:朴健浩 作曲:金英光
日本語詞:三佳令二 

この演歌は韓国の人の作詞作曲であることに興味がわいた。
メロディーは、非常に綺麗で、すぐに覚えられた。

繰り返しの言葉に感情を移入することが大事な歌。
何回も何回も詩を読み、好きな人のことをこころに
浮かべ、そして、その人に語りかけるように、囁く。

こころと詩のもつ意味がひとつになった時、メロディーに
乗せる????????

そうそう、歌い手は、「さざんかの宿」などのヒット作品がある
大川栄作氏である。
なぜ、大川氏が歌っているのか、彼は、非常に小節を
まわすことが上手な歌手で、この詩がそこまで小節を必要と
するのかは疑問と思う。

そんな独断と偏見はやめにして、大変上手。やはりプロ
なのである。

禅では人間のことを「半個」ということがある。
そして、半個半個で一個。すなわち、二人で一人という
意味である。人間は一人では生きてゆけない、と
いうことである。

同じ儒教のDNAを持つ東洋人、韓国の詩作り人の感性
に感心した。
今年のヒット曲になること、間違いなし。

年齢関係なしに、大いに歌ってほしい歌でもある。
愛氣で…????????
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2008年08月22日

時代の流れ

もの心がついてから、半世紀が過ぎ去った。
そして、ファーストステージが終わり、セカンド
ステージへ何とか軟着陸をした。

二人の人生の師は、一人は亡くなり、ひとりは
その役割を終えようとしている。

一つは、自らの運命と対峙することを教えられ、
もうひとつは、自らのこころと體を直視することを教わった。

東洋哲学としての陽明学と合氣道である。
二つの教えが、今、一つに融合しつつある。

八年前に、舞鶴に新しい庵を設けて、大地との対話
すなわち武農合一「武と農の融合」を実践してきた。

半世紀にわたる合氣武道との関わりは、合氣の会得と
ともに大きく進化した。
いや、まだ進化しつつある。

武道はまさに「こころ」と「こころ」の対峙である。
すなわち、いかに、こころの孤高を保つか、である。

そして、心の触手である氣を相手に予測させない
ことが重要である。

そのためには、すなわち平常心をいかなる時にも
保持することが求められるのである。

體は、全身を弛緩させ、こころを静かに沈めて、
體の内部を意識してその内部を動かす
(205の骨と500の筋肉)

體が覚えている正しい動かし方が一番大事なことは
言うまでもない。

守・破・離
技・体技は體のもつ本来の自然の動きを再度體に確認する
作業に過ぎない。「守」を自覚する

「合氣」を会得し、こころが鎮まれば、技はもう必要ない。
すなわち、「破」である。

宇宙との一体感を自覚したとき、「離」となる。

自覚をして久しい。生きている間に、伝承することが
私に課せられた責務であろう。
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2008年08月18日

夏野菜

畑の野菜がこれでもか、これでもかと実をつけてくれる。
おすそ分けの意味で、東京の親友宅にお送りした。
喜んで頂いた。大変うれしい。

胡瓜、ピーマン、万願寺甘唐、伏見の甘唐、蔓紫、
青紫蘇…などである。

農薬、化学肥料を一切使わないでの栽培であるので
安心して食することが出来る。

昨日、自然農法を提唱され、アジアのノーベル賞とも
いわれるフィリッピンのマグサイサイ賞やインドの
最高栄誉賞を受賞された福岡正信氏が亡くなられた。
95歳。

米や野菜作りにおいていかに人の手を省き、自然の力に
ゆだねるかを追及、土を耕さず無肥料・無農薬・無除草で
作物を育てることを特徴とする自然農法を確立した。

特に、アジアやアフリカ諸国の砂漠緑化にもかかわった。
海外では宗教哲学者しての評価も高い。

近いうちに、その一端を実践してみたい。
posted by 弘心 at 22:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三冊の本、プラス一冊

順番が逆になりました。先の本の紹介で、姜尚中氏の
本の名前は「悩む力」でした。訂正いたします。

「なぜ生きる」は、明橋大二氏(精神科医)と
伊東健太郎(哲学者)の共書である。
人生の目的は何か、について非常に分かり易く
書かれている。

しかし、人によって取り方が異なることも又事実である。
ひとつ言えることは、私が何時も弘心塾で話させて頂く
ことの中で、「今存在する自分は、必要である故に
生かされて存在している」、
という事実である。

「生かされて生きていることに意味がある」のである。
そのことは、人間だけに当てはまるのではなく、自然界の
全てのものに当てはまる。

そして、「目に見えない世界にこそ意識をおく」ことである。
すると見えないものが見えてくる…。

もう、自分は一人ではない…。命の尊さと生かされている有難さ
が沸き起こってくる。そして、他への働きかけに喜びを
見出す…。

それでは又、弘心塾で話しましょう。
posted by 弘心 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三冊の本

「下流大学が日本を滅ぼす」「夫婦の格式」「なぜ生きる」
の三冊。

少子化による、「大学全入時代」を目前に私立大学の
定員割れが過去最高に、学生をお客様扱いにする大学に
社会に出て生き抜く若者を育てることができるのだろうか?
と「ひよわで、甘ったれ」と酷評。

さらには、今のキャンパスの現状を次のように表現。
・打たれ弱い、すぐ泣く学生が急増
・一人で大学に行けない学生
・批判されると泡を吹いて倒れる
・宿題を出すと怒鳴り込む親
・入学式は、祖父・祖母まで一緒に
・卒論を教授にタイピングさせる…
改めて考えさせられる本でもある。
著者は、下流社会シリーズを書く三浦展氏。

今の男女平等は、この国から何を奪ったのか。
混迷する現代男女関係を一刀両断。
そして、幸せに生きるための二人のルールとは?
・夫婦の間で男女平等はない
・一言あれば、直に女は納得できる
・子供の前で亭主をこき下ろすなど、言語道断…
「男を立てる」「内助の功」…そんな言葉はどこへ行って
しまったのか。今の夫婦に投じる画期的男女論でもある。
著者は、「渡る世間は鬼ばかり」橋田寿賀子氏。

文明がもたらす人間の苦しみを直視した夏目漱石と
マックス・ウェーバを手がかりに、苦悩を通して真に
強さを掴む生き方を提唱。
・何のために働くのか
・変わらぬ愛はあるのか
・何故死んではいけないのか
・信じる者は救われるのか
・悩みぬいて人は強くなる…
著者は、姜尚中氏。

これらの三冊の本を読んでみて、共通したものがあることに
氣が付いた。
それは、その病根として、劣化する現在日本の
経済・社会にある。

我が国は、歴史的に見て、人は一人では生きられない
ことを承知したうえで、血縁による大家族制や
地縁による共同体を形成し濃密な人間関係を築いてきた。

そして、下田沖に黒船が来てから、西欧に追い越せ
追い抜けと努力してきた。

その中で明治維新後の政府は、共同体を崩壊させ、
さらには戦後の外国からの強制的制度改革を受け
長い間にわたって培われた我が国の家族制度、
地域コミニティー。教育制度を一変させた。

特に教育は、日本人独特な思想を根底から変革。
徳川時代に培われた男女の教育思想(具体的には、子女の教育に重点がおかれた。なぜか、子どもはその国の将来を担う…、そして女性はその子どもを生み出す。人を創り出せるのは、女性だからである。その女性(母親)の精神的健全化は、ひいてはその国の存亡に関ることになるからである)を完全に崩壊させた。

橋本政権以降、市場原理主義が格差社会を作り出し、日本人としての精神的骨格を骨抜きにされた国民は建国始まって以来の受難の時代に突入した。すなわち、戦後の高度経済成長は大家族制を解体し、核家族を生み出し、バブル後は、それすら解体しつつある。
国家並びに企業は国民の生存・自由・幸福の保障と追及を自己責任の
もとに帰属させるかのごとく、制度・雇用を変化させてきた。

このような社会にあつては、特に若年層には生きる目的が絶望に変わっても不思議ではない。百数年経た現在、人間性希薄・無機質な社会に生まれ育った若者は残酷な親子・兄妹殺人が起こり、殺すにはだれでもよかった、という言葉となって絶叫する。

今、求められるのは、政治改革でもなく、その前に私たち一人一人の
意識改革てはないだろうか。
三冊の本からは、そんな声が聞こえてくる。
posted by 弘心 at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

目の地蔵尊

敷地内に何故か、お地蔵さんが存在した。
訊ねてみると、「目の地蔵尊」とのこと。

前の所有者が工夫を凝らして、社を作られていたのが、
もう風化しているのを何年も前から、作り直そうと
思って今になった。

そのせいなのか、少し視力が悪くなったようにも想う。
いや、それはさておいて、基礎土台とするブロック、
セメント、建屋の木材などを買っておいた。

高槻からKさんが子供二人を連れて来てくれた。
基礎が出来、材木を刻むことが出来た、感謝。

後、一息で完成である。
敷地内の山裾から湧き出た水が、池の底からも
湧いている小さな池に流れ込んでいる。

昔は、生活水の全てをこの水で賄われていたようである。
今も、日常の洗い物や、畑の水がこの小さな池の水を
用いている。

想像するには、この水で目を洗っておられたのであろう。
その位、水は綺麗。そして不思議なことに腐ることはない。

50m離れた隣の家にも同じように湧き出ている。
調べてもらうと、名水とのことで、企業が買いに
来たそうである。

大切にしたい。
posted by 弘心 at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オリンピック2

日本柔道連盟においてもこれからの柔道の行く末についても
、見解はまとまっていないように思える。

男子柔道にも、日本本来の一本勝ちにこだわる者と
JUDOを迎合する者がいる。しかし、日本のお家芸でもある
柔道として、あらたなルールが求められているのではないか。

レスリングと変わらないようであれば、本来の創始者の
想いは違った方向に行ってしまう。
例えば、相手の両足を両腕で抱え込んで倒す、諸手がり
などはレスリングのタックルと同じようなものである。

こんなもので、背中をつけて一本であれば柔道本来の
意味がない。
「効果」あるいは「優勢」とすべきであろう。

一瞬、その次の一手で相手の生命を断つ、と判断される
ような体制と技は、当然有効、効果とすべきである。
posted by 弘心 at 09:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月17日

オリンピック

北京オリンピックが今、話題である。
以前に柔道について書いた。
男子柔道はあまり振るわなかった。

柔道とJUDOの違いがはつきりとした大会でもある。
我が国の戦国時代における戦いは、武者どうしが
向かい合い、「我こそは…なり、いざ、勝負!」とお互いに
名乗りあって、切り結んだ。そこには、死を決して戦いに
臨む者の誇りと格式が感じ取れる。

その後、織田信長の歩兵による火縄銃の登場により、
如何にして、相手を早くしかも大量に殺すことが出来るか、
に戦い方が変化してきた。

まさに柔道の世界も同じような変化が起きていると
言っても良いのではないだろうか。

超百キロ級で金メダルをとった石井慧選手の言葉に、
「私にとっての柔道は、スポーツではない。戦いだ」
「綺麗な試合を望むなら、床体操に行けばよい。
勝たなければ、意味がない…」

この言葉は、まさに今の柔道の課題を物語っている。
武道で言う「勝ち」とは、どのようなことを指して
言うのであろうか。

「相手の命を先に奪うことで勝つ」ことが本来の
勝つ意味である。しかし、スポーツでは、「作られた
約束事即ちルールを先にクリアーしたものが勝つ。
つづく
posted by 弘心 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月05日

脳活性化術

脳科学者、茂木氏の話では、
「同じことを繰り返すこと」が良いと言われる。

フランスのワインづくりは、何百年も同じことを繰り返して
ワインがつくられてきている。
しかし、同じことでも、観察力が広がり、その過程で
研ぎ澄まされた感性と直観力が働き、新しいものが生まれて
くるのであると…。

「創造すること」創造とは、思い出すことである。
絶えず記憶をたどり、思い出すことが良い。すなわち
側頭葉から前頭葉の働きを活発化させる。

「何事にも意欲があること」が重要。
これらには年齢は関係ないとのことである。

以前に合氣道のホームページでも述べたように、
「止観(しかん)」という言葉がある。
この意味は、一つのことを深く極めて行くことにある。、

一つのことを継続して行じて、深めていくことにより、さらに
その物事の真理が見えてくる。
即ち、継続は力なり、の所以である。

私は、そのことを、農と武を通じて実践している。
合氣武道を通じて、一心不乱に求めていく中に、光明を
観ようとしているのである。
posted by 弘心 at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

攻めの行政

大阪府庁の移転が囁かれている。
今日、大阪市長と大阪府知事が意見交換があった。

現在の大阪府庁の建物は、上町断層のすぐ横に
位置している。
耐震的には、震度6で倒壊するそうだ。

耐震工事費には約160億必要。大阪市が今、
二次破産の憂き目にあるWTCは時価160億。

丁度良い値段である。ワールドトレドセンターは
バブルの時代に立てた総工事費約1200億の建物。

大阪府知事は、道州制を考えて考えているそうだ。
その意味では、位置的には丁度よい。

たしか以前に大阪府庁の建て替え計画は出来ていた。
確か黒川きしょう氏が基本構想・基本計画・
一部実施設計まで手掛けている。

私の在職時に、年次計画が示されていた…。
あの設計料は無駄だったのか。
いずれにしても大阪府は大きく変わろうとしている。

しかし、話題は変わるが、消費者物価指数が昨年の
十月からプラスに転じている。

年の六月で1.9。この数字が2以上になれば、
経済的には危険水位である。

インフレには、収入すなわち給料が上がれば良いので
あるが、上がっていないのに、物価だけが上がっていく…。

もっとこの視点に焦点を合わせた施策を国に求めると
ともに苦言を呈してほしい。

生活に伴う具体的な施策を打ち出すこと、
食糧生産施策を中心にした道州制を…。

その意味で若い知事に期待したい。
posted by 弘心 at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月25日

自然とともに

以前にも話した通り、今、田舎での生活は私が
生まれる前から定まっていたように思う。

勿論合氣武道との出会いも…。父から習った
八光流とも同じであろう。

三週間前に草を刈り、耕運機で耕した場所が20pの
雑草に覆われている。又1からやり直し。

朝、5時に眼が覚める。
畑の草ひき、體の動かし方は人とは異なる。

腕の力は使わない、指は草を軽く挟むだけ。
肩を使う、肩甲骨を使う。疲れない。

鍬で畝をしつらえる。鍬は杖の動きと同じ、體の動きは
大腰筋とハムストリンクス、肩甲骨、股関節、肋骨…、など。

朝食は野菜オンリー。畑から胡瓜、茄、ピーマン、
万願寺甘唐を食べるだけ採る。

万願寺、茄、ピーマンは焼いてポン酢で、胡瓜は塩もみして、
さらに、蔓紫の葉を採って軽く湯がいて、ポン酢で頂く。

玉ねぎを薄くスライスして、少量のオリーブ油で炒める。
白米と発芽玄米のご飯、きのこの味噌汁。

そして1日が始まる。
posted by 弘心 at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月23日

38.6

今日の舞鶴の気温である。観測史上一番高い気温。
38.6度…聞いたことのない数字。

地球の温暖化とはいえ、何処か何かおかしい。
以前にも書いたが、不吉な予感がする…。

天地異変が起こらなければ良いが…。
私のこの弘心塾の建物のある地も、調べてみると、
約40年毎に災害が起こっている。

今から四十年前に大規模な土砂崩れがあって、隣の家が
押し流されたようである。

その為に砂防堰堤が設置されている。
地球全体も、地表を振動させて調和を保たせている。

それと同時に、地域でも小さな身震いをさせて、
ランドスケープを変化させている。

特に、西舞鶴地域には、急傾斜の危険個所が多数存在する。
行政は、年次計画をたてて、その対策としての保全工事を
実施しなければならない。

防災意識は、官民とも都市部とは異なる。
特に自然災害については、意識も対策も格差がある。

限界集落である地域では、何事もじっとして頭の上を
通り過ぎて行くのを待つ。

そんな形で自らを守ることを、代々受け継いできたことが
行政に向けての権利としての要求が出て行かない結果と
なったのであろう。

しかし、暑い。
畑の植物も、枯れないで耐えてくれている…。
学ぶべきことは多い。
posted by 弘心 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月19日

舞鶴港

????????男は波止場へ 来るたびに
過去への階段 下りるのか
その名も舞鶴 風吹く港
俺は魅かれて ここへ来た


????????煙草の赫い火 ブイの灯か
セピアに霞んで 海が鳴る
立たずむその先 連絡船の
姿見えたよ 幻の


????????男と女の 舞台幕
下ろしたとでは もう開かぬ
おまえのその夢 その行末に
なぜに報いて やれぬ奴

????????死ぬ気で生きれば 誰だって
いい日来るもの 見えるもの
その名も舞鶴 旅立つ港
俺もここから もう一度

今年の三月に、TEICHIKU RECORDSから出た曲である。
作詞坂口照幸、作曲弦 哲也、組曲前田俊明氏の作品。

歌手は、三田りょう、低音で歌うメロディーは、
日本海独特のうす曇りのなかのどんよりとした
物悲しい雰囲気の曲。

しかし、よく聴いてみると、舞鶴港の雰囲気を
よく表しており、「岩壁の母」とは、又、一味違った
演歌である。

今から、五十年ほど前に、大阪の中央公会堂で、
審査委員長に当時の人気歌手、林伊佐夫氏が来られての
大阪で初めてのど自慢大会があった。

二百人が喉をきそった。朝十時から始まって、終わったのが
午後四時位までかかったので良く覚えている。

予選を勝ち抜き、本選で二位になった。
同じ歌を歌えば、一位だったと想う。自分だけが曲を
変えた結果であった。

その時は、三浦光一の「東京の人」を歌ったように思う。
今、その時のことを思って舞鶴港を聴くと、
東京の先進都市の華麗な詩と、舞鶴の詩。その違いが
良くわかる。

さすが、作曲家、弦 哲也氏である。
その地方の雰囲気をよく表している。私が以前にブログで
、ジエロのことを、歌謡界の救世師になると紹介、実現した。

その歌、「海雪」の中で「出雲埼」が出てくる。
出雲崎のある自治体は、挙ってレコードの売り上げに
補助金まで出すとのこと。

舞鶴もどうかな…。
詩が少し暗い…。ヒット曲としては少し無理なような…
しかし、応援したい。

この歌に、心惹かれるものがある。
とすれば、詩の持つ意味であろう。

男と女の織りなす恋の切ない心情…
言葉や理屈では、はかり知れない心の葛藤…
言語での表現には限界があることを知りながら
あえて言葉の綾を織りなす。

誰の胸にも、少しは触れる…
苦しい想い、切ない想い、どうにもならない想い…
そんな旋律が、心琴を揺さぶる…
心の襞に忍び寄るような感情が…

一つの場面として、演歌は、演じて見せてくれる…。
その中に、今の現実の自分を置いてみる…

心の若さである。生きる糧でもある。
posted by 弘心 at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月15日

伝承2

様々な方法でもって、心と體を一つにする方法を
説こうとする。
その伝え方がまた大変むつかしい。

「氣」についても、人の「こころ」から出る触手
としての「氣」と、天地煌然の「氣」があることを
認識する。

まず、「心の調和」。
何事にもとらわれないとは言うがなかなかそうはいかない。
しかし、「自然に振舞う」ことを意識することだけで
何も難しいことをくどくどと言わなくてもよい。

「自然」の意味は
・おのずからそうなっている様
・本性・本質
・造化の力によって成った一切のもの、すなわち、
 人間を含めた天地間の万物
・宇宙
とある。

「體全体に散らばって存在する「こころ」を、
正中心軸上にある下丹田の一点。その一点は宇宙の
中心であることを一瞬にして意識する
(心身統一合氣道でいう「氣の意思法」)

そして、「氣」はその一点から四方八方無限に外部に
向かって、迸って出て行く、そのことを意識する」

すなわち、「こころ」は常に内に向かおうとする、
「氣」は外に向かう性質を持っているのである。

次に、「體の調和」

「全身を弛緩させて、即ち、ゆったりとさせて、
宇宙から降り注ぐ垂線と自らの正中心軸とを一致させる
ように意識して、地と接する足の裏全体に均等に重みを
分布させて立つ」

自然の法則に従えば、全ての體の部分は地軸(地球の中心)
に向かって、降りている。
その法則にしたがうだけでよい。

體の各部があるべきところに在ると想えば良い。
唯それだけである。
そして、「こころ」が「體」を動かす、ことに帰着する

最後に、「対峙するものとの調和」

「存在する全てのものは、自然と絶対的関係のもとに
調和されている」まず、このことを認識する。

相対するものとの関係は、双方の「氣」が
交わることなく互いのこころの示すところに向かって
迸っていることをいう。

双方の「氣」が接触する時、二者間の調和は崩れる。

対峙する相手(攻手)が、此方(守手)に「氣」を
当ててくる時(調和を崩そうとするとき)、守手の
「氣」は、真っ向からぶつかることなく、「調和」の
方向(自然・天地・宇宙)に同化させる。

そのことは、相手を「地」に戻すことになる。
即ち、崩してやるのである。
そして相手は再生する。争いはない。

宇宙・自然と一体となることの序曲である。
自らの「氣」と天地の「氣」を同化させる、
すなわち、「我舞えば、天地舞う」のである。
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伝承

私たちは、自らの想いを他に伝える一つの手段として、
言語を用いてる。
しかし、言葉だけでは物事の本質は伝わらないことも
知っている。

一つの目的に向かって、自らの行為を全身全霊で
打ち込み継続して、その過程あるいは結果から
観えてくる本質を自覚する。即ち、止観する
ことである。

さらに、教える側と教わる側との間に、一つの緊張感が
必要なことも分かっている。
即ち、啄同機である。

心身統一道を一つ例にしてみよう。
心身統一道の研修には、いろいろな切り口がある。
しかし、その本質は一つである。

中村天風師の心身統一道から、心身統一合氣道の
籐平宗主はヒントを得られて「心身統一道」と
されたことは周知の事実である。

心身統一の本質は、調和すなわちバランスである。
その調和には次の三点が考えられる
@ 心の調和
A 體の調和
B 対峙物との調和

雷のため中断します。つづく







安岡正篤師は、それらの概念して「中庸」とされた。
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2008年07月10日

自らの存在

これから舞鶴へ帰り
舞鶴での合氣の修練
様々な想いの人たちとのふれあい
素晴らしい人たちばかり
その中にあって、伝えようとする

私は戸惑う
言葉を…體を…視線を…感情を…身振りを
五感いや六感までも
同じことを喋っている
しかし、ことなる

私の體から迸るプラーナが
相手の今の全身をなめる
その味さ加減によって…
内容がかわっている

氣付いてくれるか…難しい…
相手は全身で受け皿をつくる
一つになる…
その人の内部に、一つの節ができる
求めるところ。

まさに魂と魂のぶつかり合い…
妥協はない
力を抜いて、全身を開放する
自らを内観する
體の隅々までを意識して…

あとは、天地(宇宙)にまかせる
波動から何百万年を経て、今この瞬間に
存在する自分…
「無から有は生じえない」とすれば
わたしはわたし以前に何かあったのだ…

そのながい過程で、すりこまれた
自然の動き…
その動きを今、よみがえらす…
その延長線上に合氣の技が存在する
體が受け付けない動きのものも…
無用である。

自己の存在感を見失って彷徨する
現代人…
今、心と體・精神と肉体のドラマが
求められている
心にも體にも自らの潜在心が持っている
全てを取り戻そう…。

止観することにより…
それが得られる
「こころか體を動かす」本当の意味を
そして、自らの運命を宿命とせず
立命としてはばたこう。
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2008年07月08日

生きているいみ

 意識がひかりを求めて動き始めた…
 遠い遠い空間を時間をかけて来た
 そんな意識が残っている
 いつもの見慣れた景色が目の表象
 として意識しだす
 これが現在心なのか…
 
 潜在心になった意識が
 體全体で過去のものといいだす
 全身の細胞かざわめきだす
 これからなにをするのですか…と
 問いかけ始めた…
 
 潜在心のなかから、子供が出てきた
 その顔は、はっきりとは見えない
 しかし、體が悲しみに
 つつまれていくのが、わかる
 亡くした子供…

 みがわりとなった子供…
 どのように変わったのですか…と
 問いかけてくる
 自我を捨てた…自然に生きてきた…
 人のためにと…少しは役に立つようにと…
 精一杯生きてきたよ
 
 頷いてくれた…これからもそうだよ、と
 うれしそうな顔をして、ふりかえって
 行き去った…
 生きるとは、いのちを感ずること…
 ただ肉体だけが、息づいていること
 ではない…

 内なるいのちの躍動を感ずるとき
 そこに真実の生がある…
 いかされていることへの報恩と感謝
 人のために、世の中のために…
 一隅を照らすことへの執着が…
 
 今生きる支え…いのちの尽きるまで…
 そして、あの人を想い続けていたい…。
 
posted by 弘心 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

掃除の心

掃除をするということは、ただゴミを吐き出しあるいは、
拭いて汚れを落とすことだけを意味するものではない。

昔から人は、その中に精神的な何かを感じ取っていた。
掃除を、悟りを開くための修行にまで高めたというのは、
我が国においては天台宗が一番といわれている。

比叡山延暦寺の浄土院では「掃除地獄」と呼ばれる苦行が、
今も続けられている。

浄土院は、宗祖伝教大師最澄の墓所で、この行は最澄の
廊の守り役の「侍真(じしん)」という僧に課せられている。

侍真は、最澄が生きているかのごとく、墓前に食事を捧げ、
経を読み毎日を暮らす。その中でも最大の任務が「掃除」である。

廟がある浄土院には沙羅双樹と菩提樹の木が一本ずつ
植わっている。

拝殿を隔てた前にはには叡山苔が一面に生えている。
そして、これらの庭には、紙屑は勿論、一枚の葉が
おちていることも、一本の雑草が生えていることも
許されない。

「侍真」は木の葉が風に散るやいなやそれを拾い、
草が芽をだすや即座に抜く、その合間にもほかの葉がちり、
ほかの草が芽をだす。

これを追い回して、侍真の一日は明け暮れる。
こんな生活が12年間続く。

「最下鈍の者も、12年を経てば、必ず一験を得る」という
最澄の言葉に由来する年限で、この期間は延暦寺の寺領から
一歩も踏み出してはならないことになっている。

この過酷な修行に挑戦を許されるのは、比叡山の中でも
選ばれた僧だけである。

侍真になるには「好相行」というこれもまた想像を絶した
修行を突破しなければならない。

一日のうちに22時間を唱名と礼拝にすごし、これを仏の
幻を見るまで続けるというもので、そんなことで侍真は
10年に一人出るか出ないかといわれている。

そして、12年間、新聞も読まず、ラジオも聞かず、
もちろんテレビも見ず、ひたすらに掃除に励んでいると、
奇妙な能力が身についてくるといわれる。

掃除地獄を経験したある高僧は、「木の葉がはらりと落ちる
音が、ドーンと、まるで大木が倒れたような音に聞こえる」
といっている。

そして、叡山苔を割ってつくしが芽を出す時は、メリッと、
コンクリートが裂けるかのように響くという。

しかもどのあたりに芽をだしたかまでわかるというのだ。
掃除の奥義は、実にこんな深いところにある。

日常家事に忙殺される一般の主婦も掃除が持つ精神的な
奥深い意味だけは、どこか心の片隅で憶えておきたいものだ。

自分自身の魂を、肉体の中に美しく住まわせるために…。
posted by 弘心 at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

擬きょうだい

「日本社会の基礎構造は、血縁、遅延、社縁の三つの原理によって支えられている。しかし、都市化と過疎化のため、地縁による人的紐帯は急速に崩壊しつつあり、また、核家族・少産の進行によって血縁の絆も極度に弱体化されてしまった。その代わり社縁だけは地縁や家の原理を吸収して肥大する一方で、そのうち非人間化マシンになりかねのない。
地縁と血縁原理を再生するためには、核心的な方策を講ずる必要があろう。
少産社会では、一人っ子どうしが結婚して一人っ子をもうける場合が多くなるだろう。この子には叔父も叔母も従兄もない、血縁的に孤立した人間になる。こうした人たちが、今後多数を占めることになれば、血縁の網目による社会構造を失ってしまう。
子供が健全な心身の発達をとげるには、きょうだいが多いにこしたことはのない。しかし、それが望めぬあらば、擬きょうだいを作ることを推奨したい。それには幼児期に集団生活をさせ、きょうだいとおない゛濃度の親密さで結ばれたの仲間ー擬きょうだいをもつことである。社会の形成は幼児期においてなされることは、サルの隔離実験な野外観察においても実証されている。
擬きょうだい作りには、母親はむしろ職を持つ方がよい。粘着した母子関係や過保護が避けられ、むしろ濃密な親子の愛情を回復ことができるだろう。保育所や幼稚園の重要性は、こうした観点から見直す必要があろう。(京大霊長類研究所教授・河合雅雄)

上記の文書は、1986年(昭和61年)10月29日(水)の新聞への投稿記事です。

今の社会構造の一部をいみじくも予見されている。
それは、所得格差を生み出し、人間としての尊厳性をも
破壊しょうとする雇用形態である。

しかし、母親が仕事を持つことについての意見には、
少し異なる。

我が国が保育園の必要性を全面に打ち出した時には、
福祉国家として北欧のスエーデンでは、廃止論が
大勢をしめ、閉鎖をした。

このことは、「いくら優秀な保母が存在しても、
母親に勝るものはない」との結論からである。

母親が仕事を持つ持たないは別にして、子供を一人の
人格を有する人間として見ることのできる母親を
育成することがまず重要ではないか。

その為に行政は最良の施策を打ち出すことが望まれる
のである。
その上にたっての集団生活としての集合教育の場は
必要であろう。

それ以前に、都市部と地方の現実を直視することが
必要ではないか。

都市部にあつては、人関係の希薄からの孤独死、
あるいは孤立化。コミュニティの弱体化。

地方において、超高齢化による地域の滅亡につながる
「限界集落」問題。

双方に求められるのは、他人同士であっても
「擬きょうだい」関係が出来るような地域の
人関係の構築が一番望まれるのではないか。
posted by 弘心 at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする