2025年08月29日
今、あらためて振り返ります、合氣武道のこと。
父から合氣武道を学んだのが、3歳からでした。
大阪大空襲で大阪北区の工場が焼け落ちるまで、工場の片隅の小さな道場で、父が社員の弟子を不思議なを技で崩し投げるのを見て育ちました。
父は、八光流合気武術を習得していました。それから13年が過ぎ…、父親から東京へ行こうと誘われ、東京日本橋の高島屋で合気道の初めての公開講演があるらしい…、とのこと。
其の時の植芝盛平翁の合気道は、私の人生をかえました。
そして、 財団法人合気会に入門、一日6時間の稽古…、三年で三段を允可されました。
その後は、31年に見た翁の技は、稽古の道場では見ることは出来ませんでした…。翁は、「合気は、米糠二合持つ力があれば出来るのじゃ…」と口癖のようにおっしゃっておられました。
しかし、道場では、其の力ではとてもとても不可能でした…。当時の内弟子達は、手首を鍛えるのに、ビール瓶で叩いていた…との話しもあったくらいです。力で強引にねじ伏せるような技でした。
実は後で聞いた話では、翁は本当のこと(極意は、全身の力を完全に抜く)を教えなかったのです。
本当の合気道は、一体どのようなもの…そんな疑問が何時も頭にありました…。
昭和46年に翁が亡くなり、そして当時合気会の総師範部長をされていた藤平光一先生が、東京代々木オリンピックセンターで、氣のことを教える、「心身統一道」の会を創設されて指導を始められました。
藤平先生曰く、「合気道は、天地の氣と合する道が合氣道である」と喝破されました。決して人の氣に合わせるものではない。全身の力を完全に抜くことが極意であると…教えられたのです。
そして、先生は、財団法人氣の研究会を設立。本格的に、心身統一道と心身統一合氣道を広められました。
長年、心の中に、本物を求めて悩んで来た者としては、待望の瞬間でした。
月に一度の研修会千葉県勝浦の日本武道館研修センターには、全国から同じ想いの同士が掛け参じて、熱気が迸るような雰囲気の中、藤平先生の指導を受けていました。
「心が體を動かす」「相手の氣を導く」「氣を出す…」「力を抜くのと抜けたとの違い」など多くの言葉で、合氣の原則を語られ、私たちは、砂に水の如く、吸収していきました…。振り返ります時、「八重の桜」の舞台であります会津藩。会津藩のお留技と言われた合氣柔術。その源流ともいえます大東流合氣柔術武田総角から植芝盛平、そして藤平光一へと引き継がれてきた合氣武道…。その思想は、盛平翁の「「正勝吾勝」「合氣は愛じゃ」「我舞えば宇宙舞う…」「我則宇宙」から藤平光一先生の「心が體を動かす」「心身統一の四大原則」「心身統一合氣道の五原則」さらには、「万有を愛護し、万物を育成する心を持って、我が心としよう、心身を統一し、天地と一体となることが、我が修行の眼目である…」「行修十訓」と言葉は違えども、その真理は同じことなのです。又、心身統一合氣道の理念は「争わざるの理」そして其の目的は「人としての人格の形成」にあります。そして、争わざるの理は、人と争わない、喧嘩をしない、口論をしない…それだけではありません。真理はもっと深いところに存在することに氣付かなければなりません。
約四十数年にわたり。子供・大人クラスで合氣道を指導させて頂いて参りました。その中で多くのことをきづかせていただきました。そして、約50年を経てやっと「真の合氣」に辿りつくことが出来ました。
三人の人生の師、藤平光一先生からは、氣の原理を学び、合氣に導いて頂きました。もう一人は、安岡正篤先生からは、東洋哲学、陽明学を学び、運命は変えることが出来る…すなわち、人生を立命とすることを教わりました。さらに中村天風翁からは、心が體を動かす原理とともに「自らの人生は、心に始まり、心に終わる」「運命は、自分の命を運ぶこと。だからあくでも自分が運命の主人なのだ」との積極的精神を叩き込まれました。今、心身統一合氣道会は、二代継承者(藤平信一)によって、日々修練されています。風貌・人格とも引き継がれています。
あっと言う間の80年でした。
「争わざる理」とは、「四無量心」にあること…。「心とは何か」「心はどこにあるのか」これも初期仏教の注釈書で定義されています。さらには古代ギリシャにおいて…プラトン、アリストテレスなど多く人たちも定義をしています。私は真理を得た今、これからもさらなる「真の合氣」を求めて、行き止まりのない旅は続きます…。
共にプラスの氣を持って前進しましょう。
(五年前の投稿を再投稿いたしました)
吉田寿三郎先生(故)のこと
平成17年五月に一つのボランティア活動団体が閉会をした。23年間続けてきた高槻ウエルエージング協会である。
昭和58年に7人から始めた。シビルエンジニァーが何故福祉を‥といぶかる人が大半であった。この団体を発足させるまでに、さらに十数年遡ることになる。
高槻市は京都と大阪の丁度中間に位置し、昭和40年代には十年で人口が倍になるという全国でも有数の人口急増都市であった。市の予算の半分は教育予算すなわち学校の建設費である。そのためにインフラ整備は他市と比べて低いものとなった。
そのような中にあって公共事業の目玉は、中心市街地を平面交差で分断している私鉄の連続立体交差化事業があった。初代の建設準備室長として国の採択に向けて取り組んでいた。
鉄道の仮線敷きとしての役割も兼ねた都市計画道路を新たに鉄道の北側に計画をした。
大阪医科大学の敷地が少し都市計画道路に掛かった。当医科大学の卒業者で作る仁泉会というのがあり、その代表者の一人が「市民病院の役割もして市には多いに貢献しているのに、その大学の敷地を道路にかけるとはけしからん」と反対の意向を示したのである。その時の大学の反対のための委員会委員長で吉田壽三郎という衛生学公衆衛生学教室の教授がおられた。週に三日は教室に通うことになった。
京都大学の医学部出身で国際老年学会の理事をされており、わが国でも著名な先生であった。
白髪の穏やかなその容姿と先生の説かれるアカデミックな論調は、全ての人を魅了せずにはいられないすばらしい先生でした。私はその吉田学校の最初の生徒でもあった。
当時に「日本老残」「デイケァーのすすめ」「高齢化社会」などの多くの著書があり、昭和40年代にすでに五十年後の超高齢社会を見通されていた。北欧が60年から90年かけてゆっくりと高齢化社会へ移行したのに比べて、日本はわずか25年で同じ状態になることへの危機感をいつも口にされていた。毎日と言ってよいほど、電話が掛かり一時間ほどその話をされる。「奥山さんいよいよ迫ってきましたよ。今、一人の老人を五人で養っていますが、三十年先には二人で一人となります。抜本的な考えをしなければ破綻しますよ。具体的には富の再配分です‥‥」最初は全く分からなかった。当然であろう専門分野が違うのである。
しかし、少しずつ頭の中が変わっていくのが自覚できた。私自身は土木工学科を出て、総合計画・都市計画・橋梁・都市公園・道路・橋梁・高架事業・都市再開発・高層建築…などを専門としていた。私の頭には、構造的な思考が勝っていました。しかし、その構造物や建築物は誰のために造るのか…人間が主となる目的で造らなければならない…その点が欠けていたことに氣がつきました。人間を知ることが大切…ということに氣がついたのです。その意味で吉田先生との出会いは、天が私に与えたものとの想いに達しました。1978年に国際老年学会の後をうけて、京都国際会議場で京都大学総長奥田東先生を中心として、吉田先生は京都国内シンポジウムを開催された。アメリカのバトラー博士など世界から老年学の権威者が集まって来られた。私もその一端を担わせていただいた。僅か三十分でしたが、財団法人氣の研究会の藤平光一先生が「氣について」話された。心が体を動かすことを「折れない手」を壇上で実験され、老年学会で有名なバトラー博士などが腕を出して真剣な顔でテストをしておられたのが目に浮かぶ。
厚生省の時代には同省の課長より先に合格した為に、居づらくなったこと、当時の日本医師会の武見会長から絶大な信頼を受けられたこと、肺結核の治療に新しい画期的な論文を発表、しかし、学閥による抵抗から実際に表に出ることがなかったこと等、いろいろりなお話しをうかがうことが出来た。特に昭和の三十年代から自らスェーデンに行って数十年後に必ずや遭遇する超高齢社会解決策を求められたがその答えはなかった。わが国の福祉施策は北欧をモデルとして作られてきた。失敗もまたそのとおり模倣をしてきたのである。
「先生はアカデミックな分野で活動されています。私は具体的に地域で実践をさせていただきます」、先生が主宰されている「日本ウエルエージング協会」とおなじく「高槻ウエルエージング協会」をつくります。土木技術者の福祉ボランティア活動の始まりであった。
資金がないため、福祉論文などの応募をして稼いだ。大阪社会福祉協議会の福祉論文募集に今までの活動記録を論文にして応募した。第一席に入賞した。その時の審査委員長は、大阪府の福祉計画である。「ファインブラン」の中心であり、地域福祉論で有名な大阪市大の名誉教授である岡村重夫先生であった。大阪社会福祉協議会の講堂で、福祉の専門家や民生委員、行政職員など約800人を前にして、二時間しゃべらせて頂いたことも懐かしい想い出である。その後、愛は地球を救う、の団体から380万円の移動入浴車の贈呈を受ける。読売新聞の愛と光の事業団からの寄贈など、一躍全国ネットとなった。
特別事業部として「寝たきり老人等の在宅における入浴援助事業部」をつくって八年間行った。(移動入浴車で延べ250人の寝たきり老人を在宅において入浴)市議会、自治体への働きかけ(請願)をして制度化へと移行させたことは、ボランティア活動の真髄とも云えるものである。無償性・継続性・提言性‥ボランタリズムの自覚が求められる。
因みに、高槻ウエルエージング協会の設立趣旨は、「人間が、真の人間として尊厳を保ちながら生きることのできる地域社会の創造」である。
シビルエンジニァーとしてその後の街づくりの視点をその主旨をコンセプトにしたことは言うまでもない。そして私は素晴らしい会員に恵まれた。会の発足とともに支えて頂いた橋本事務局長以下会員皆さんの功績なしには、会を語ることは出来ない。感謝で一杯。
私の人生の一部を変えたともいえる吉田先生は、既に鬼籍に入られている…。もっともっと先生と一緒に居て、お話を聞きたかった…そしてもっと役に立たせて頂きたかった…。想いが募るばかり…。先生との出会いには改めて感謝で一杯である。
現在、大阪医科大学は、薬科大学と合併。大阪医科薬科大学と改名されている。
2025年08月14日
心身統一合氣道の思想性について
心身統一合氣道は、合気会の総師範部長として唯一その実力を、植芝盛平翁から合気道最高位十段を允可された藤平光一によって1974年5月に創設されたものである。(敬称略)
心身統一合氣道の技は、他の合気道とは全く異なる思想性をもつ。
藤平光一先生の著書、「写真解説 合氣道(1959年9月)」。「心身統一合気道(1972年4月」。「心身統一原論(1976年10月)」。などにおいて思想性について詳しく語られている。
「写真開設 合気道」の発刊において、中村天風先生が次のような序文を書かれている。
序
いまや燎原の火のように、日本の武道界を風靡しつつある合気道は、古来近来わが邦において創見された各種武道の中で、その優れたる特徴を見るとき、最も近代的武術であると称乎するに値する。
由来この道は、予の年来の盟友であり、現代のわが邦武術者中、夙に儕輩の群を凌ぐ一偉材として嘖名ある、心−氣−力の一致という忽がせにすることのできない名文の上に立脚し、その一つ一つが天地の大道たる順逆の真理にもとづいて組織されているという、まことに高度の実価を保有する合理合法の錬心護身の正法なのである。
そして、本書の著者である藤平光一君は、植芝門下十数万人の中の最高段であって、斯道錬道の点においては、実に現代日本における白眉の人で、既に日の名声は海外に及び、これまで米国政府より招聘を受け、数回にわたって渡米され、この道の実地指導に尽くされ、その功により、現にハワイ警察の名誉キャップテンたる資格を与えられ、厚遇されている。
特に、藤平君は、武道の一切は、その何たるとを問わず、術技は、末葉であって、その大本は「心」なりと明悟されて、慶応義塾大学卒業後、予の主宰する天風会に入門され、爾来実に十数年にわたり、予の創建した第一義的人世道たる心身統一法の実際践行に熱烈に努力され、いまや、如実にその功讃を厳顔し、いわゆる武道百般の極意とする「有事無事常若無心」の大定妙境を悟入し得て無礙心境の堂奥に達入した、予の門人中有数の俊豪となり、予とともに世道人心の誘掖に尽瘁されている。
今、この人にして、まさにこの著あり。
蓋し、達人の説破するところ、必ずや書外の秘韻に触れしめ、不立文字たるこの道の極意の精妙をも、おのずから感得させるところ多々ならんと確信するものである。
よって、ここに敢えて快く序言を載して、委嘱の責を果たす次第である。
一千九百五十九年盛夏
旺喇昆呍陀 中村天風識
この序文において、中村天風先生は真の合氣道とは何か、について喝破されている。
中村天風先生が、この序文を書かれるにあたり、如何に藤平光一先生の技と、その術理が理にかなっているか、について熟知されているのかが窺える。
藤平光一先生は著においては、合気道の根本精神として、次の項目において述べている。
・大自然と合気道
・万有を愛する精神
・争わざるの理
・「氣」の原理
・心身統一法
・心と身体のとの関係・臍下の一点
合気道の技が数百、いやそれ以上に存在すると言われている。その技の中から精査されて三十体技に纏められた。
今から48年前……藤平光一先生から口伝で伝えられたことを伝えたい。
心身統一合氣道は、一つ一つの技・体技には思想性がある。
思想性とは、「ある考え方や主義主張に、思考や信念、価値観などが体系的にまとまっている状態を表す言葉」である。
則ち、思想性があるということは、表面的な理解だけでなく、物事の本質や根源深く考察していることを意味する。
したがって、形だけを真似をするのではなく、その背景にあるものを掴み理解し表現しなければならない。
決して相対的関係を造ってはならない。
技・体技は、決して投げようとしてはならない。相手の氣を導いて、相手の行きたいところに行かせてやる。
則ち、技は相手の氣を上下に導き、崩すことが最終となる。
その為に、心身統一道において、自らの心身の状態を知り、臍下一点に心を沈めることを自覚する。
さらには、「姿勢・視線・間合い」を、技は、「氣・リズム・大きさ」を遵守する。
正しい、正面打ち・横面打ち・突きを会得し、間合いを自らのものとする。
心とは何か、心が身体を動かす原理、を熟知することに努めなければならない。
心身統一合氣道の極意は、「全身の力を完全に抜く」ことにある。
その理念は、「争わざるの理」則ち、四無量心であり、目的は「人格の形成」にあることを肝に命ずることである。
そして、全ては心で始まり、心で終わる。
2025年07月02日
体技発表会余話
コロナで一時中断をしていたが再会された。第41回関西地区心身統一合氣道体技発表会。場所は、大阪中央体育館。2025年6月21日(土)。総勢約200人が参加されました。
子供クラスも大勢参加されて、大きな賑わいを見せていた。
この大会を準備から審査後片付け…若手師範、指導員をはじめ多くの方がポランティアで参画された。素晴らしいことで頭が下がる思いです。感謝以外なにものでもありません。
少し、苦言を申し上げます。
それは第38回関西地区心身統一合氣道体技発表会のことでした。
私はその時、大会委員長を仰せつかっていました。その時、小野派一刀流を学んで、一緒だったAさんが見学に来ておられていました…。懐かしくご挨拶をさせて頂いた。その時、Aさんの口から次のような言葉が出た。「奥山さん…あれは武道ですか?」
その時、小学生が「正面打ち呼吸投げ」をしていました。
「投げる側に向かって、受け身をとる者が2mほど離れたところから右手を正面に挙げて、打っていく…。投げる側がすれ違った時、万歳をした左手で相手の背中を押した、すると受け身をとる者が走って行って前受け身をした。
投げる側は、前を見て万歳した腕を下におろした」。
それを見て彼の口から出た言葉でした。
私は返答に苦慮した…。全く技の体をなしていないのです。
心身統一合氣道とはほど遠い技と動きをしているのです。
心身統一合氣道の技は、心身統一合氣道の五原則から成りたっている。そして自らは、心身統一の四大原則を遵守する。そして「全身の力を完全に抜く」ことが極意です。
子どもに完璧なことを求めることは出来ません。
(私は過去25年間で延べ五万人の子供と接してきました。その中で気づいたことがあります。それは教えたことは忠実におこないます。子どもは自然と氣が出ているのです。又、力も自然と抜けています。大人が気付いていないだけなのです)
「正面打ち呼吸投げの場合、相手が打ち込んできた時、相手の腕が動いたとき、素早く腕を相手の腕の外側に上げて(万歳をして)真っすぐに入りなさい。相手の身体と一緒になった時、左手は相手の首の側面に当てて、(手首と肘までを相手の背中に接触させて)、両腕を真下におろす。右手は相手の顔の下にあるので、真上に導き上げるのです。真上に挙げた手は、手の平を返して指先を相手の眉間に向けて下す、その時指先が相手に左の眼をつく、突き刺さる寸前に横に外して下に下ろすのです。すると相手はその氣に導かれて、下に崩れます…。」
これ位のことは、最低説明をして、子ども達にやって見せて、させてみることが必要です。
間違って習ったのか、間違って教えたのか、いずれかの原因でしょう。
大変恥ずかしい思いをした一瞬でした。
しかし、第41回でも同じことが見られました…。残念です。
心身統一合氣道の一つ一つの技には、思想性があります。
このことは、合氣道の技は数百、いや数千あると言われる中で、藤平光一先生が何度も書いては消し,書いては消しされて、纏められたのが30体技なのです。それを横で見てきました。一つの技をきめられた時、先生は何故このような動きになるのか、を説明されました。技一つ一つには、共通したものがある、と言われました。
共通したものとは何か、それを私は「思想性」と感じ取りました。(後に私は『操体感覚20』としてまとめ上げています)
更には、合氣体操から心身統一体操、独り技と名前が変わりました。技と名前が付けば、そこには思想性が生まれます。
独り技には、他の合氣道と類似のものが含まれています。このことも心身統一合氣道では、全く異なった意味を持ちます。
そのことにつきましては、又の機会に説明させて頂きます。
第41回関西地区心身統一合氣道体技発表会が盛大のうちに終られましたこと心から祝福を申し上げ、終わらせて頂きます。
以上
昇段審査余話
会長を中心にして、奇数月に行われる師範稽古が終わろうとしている時、「A師範が…B師範の技が効かないと言われた…」との話が出た。一体何の話か判らなかったが…どうやら私のことをいっていることが分かった。
その時はあえて反論しなかった。私は毎日日記をつけてその日に出会った人、話した、聴いたこと等細かに書留めている。
そのお陰で、私は高槻市理事として在職中には、38年間で4721人の方との出会いをさせて頂いた。そして多くのことを学ばせて頂くことが出来た。感謝以外なにものでもない。
阪急電鉄の企画部長で後に阪神電鉄の社長になられた奥田氏、地方自治大臣町村氏、元大蔵省銀行局長大月 高氏、鹿島建設の鹿島正一氏、三苫専務…。
左藤栄作氏の子息佐藤龍太郎氏、田中角栄氏…など、高槻市のビッグプロジェクトを進めるうえでお力を頂戴いたしました。特に「国鉄南駅前市街地再開事業」では、大変苦労をした。都市再開発事業では、キイテナントを探すことが重要となる。イギリスの法律を真似て日本の法律とした「都市再開発法」は昭和49年に施行された。その第一号として取り組んだ事業である。あらゆる人脈を通じての作業であった…。話が横道にそれた。
帰宅してすぐに日記を調べてみた。3月22日大阪中央体育館での講習会でのことである。大変力の入った技をされている方がいた。それとなく助言をしたつもりでした。しかし、「心身統一合氣道の極意は、全身の力を完全に抜くこと」の言葉も知らない方であった。人物とその場のことが判明した。
私は人を褒めることはあっても、人の悪口に罹ることは決して口にしない。いやしたことはない。話の前後を省いて自分の都合に良い言葉だけを口にされたものと分かった。
人としてやってはならないことをされた。直に受け止めて此れからの糧にするか、言われたことに腹が立ったのでその憤りを第三者に話した…。
いずれにしても可哀そうな方である。
早速、会長に伝えると共に、B師範に事の顛末を書き、書簡を出した。
事の真偽がどうであろうとも、人に迷惑をかけたのであればお詫びをするのが人の道である。私はそうして今まで生きてきた。そして人との出会いを大切にしてきた。
B師範から手紙を頂き納得と了解をして頂いた。
こんな些細な事に注視することはないと思ったが、人の名誉に係ることでもあり、又私自身の名誉に関わることであるためにあえて書き記した次第である。
2025年05月21日
昇段審査
年二回の審査のうち、一回目が行われた。
心身統一合氣道会弘心館道場傘下の東舞鶴教室から二名が合格された。
親子での修練を7年間。まさに継続は力である。
母は二段。娘さんは初段、15歳での合格である。弘心館道場始まって以来の快挙である。
大人に混じって小学二年生の子供が…7年間よく頑張ってくれました。
初段の証書とお祝いの品(袴と帯)品を手渡したとき、目が潤んでしまい証書を読む声が一瞬止まった…。
これも母親いや家族の支えと、修練を共にした多くの人のお陰でのことである。そのことを話した時、本人の目に涙が…。
この経験は、彼女にとって一生の思い出として心に刻み込まれたものと思う。
修練のはじめに誦句集、そして私の生涯の師安岡正篤先生から学んだ「人間」としての生き方、について話をする。
最初はわからないままにじっと耳を傾ける姿が今も思い浮かぶ…。
これからを期待します。
「何のために生まれてきたのか」「今、何のために生きているのか」「心は何処にあるのか」「心とは何なのですか」この四つの提唱を皆さんに示す。
この公案を通過された人は、生活態度も、人に対する態度も、合氣道も大きく変わっていかれる。
特に技が深くなっていかれる。弘心館道場の理念(争わざるの理)そして目的(人格の涵養を図る)に一歩近づかれる。
私は全ての修練生に期待するものです。
2025年05月06日
伝える者
今から60年前、中村天風先生に出会った。その時に言われた言葉が「お前さんが主人公だよ」の一言。戦争という一つの歴史に翻弄されながら、稀有な運命を生きてこられた人である。
奔馬性結核という肺全体が広範囲にわたって侵される病で、当時抗生物質などなかった。かかれば死に至ると言われた病気であった。その様な中で、天風先生はある人物との出会いをした。その出会いが天風先生の人生を大きく変えることになる。
ヨーガーの大聖人カリアッパ師との出会いである。治療を求めてアメリカへ行った帰りの船中のことであった。
そして、師についてヒマラヤに…。三年にわたる想像絶する修行を経て、病気を治して帰国する。
則ち、心が身体を動かす原理を会得されたのである。
財界に身を挺しては企業のトップにまで上り詰められた。そして後に天風会として、政財界のトップリーダーに大きな影響を与えた。
人に大きな影響を与える人物とは、物事の真理を会得することにより、絶対的自信に溢れた人物である。
振り返って、武道を伝えようとする者は如何であろう。一つの武道を例にとれば藤平光一先生の門下生の話。
社会経験の無いまま或いは希薄のまま、人間としての生き方を学ばないまま道場に入門、一つ覚えのように技を覚えて、高段者と呼ばれそのまま人を指導する…。
人と人との交わりが希薄のまま、さらには素養のない人物が先生と呼ばれて…。そこから人災が始まる。
自分が偉くなったように錯覚を起こして、傍若無人な行いをする…。
あたりかまわず大声をだす。氣にいらなければ怒鳴り散らす…。指導者心得など
読んだこともないのであろう。上には忖度をして、下には威張り散らす…。
そんな姿を二人みてきた。一人は高弟と言われた人物、一人は師範と云われる人物。常識は考えられない言葉と罵倒、行動。
其の為に的にされた人は、「あの人にはついていけません。やめさせて頂きます。」明日が昇段審査日と云う日のことである。
私の道場から四人辞めていかれた。
長い月をかけての修練…本人の胸中は如何なものであったか、今も胸が痛む思いでいる。
人を指導、導こうとするものは、相手の心を知り、相手の氣を尊び、相手の立場
に立ち、共に行こう、共に前進しようと思う心がなくてはならない。
欲を言えば自らに心の師を持つことである。
そして素養と共に人間としての生き方についての哲学を学ぶことである。
2025年05月04日
まなぶ姿勢
心身統一合氣道というものが誕生する以前から、教室を持って多くの人たちと接してきた。藤平光一先生が財団法人合気会の総師範部長をされ海外に指導されていた時期。
1974年、私は合気会で学び、合気会で初段・三段の時に高槻市で「合気道高槻スポーツ少年団」を結成して子供クラス120人を教えていた。
そして藤平光一先生が合気会総師範部長を辞職。私も合気会を辞め藤平先生に師事。藤平先生は心身統一合氣道を創設されたのを機に、心身統一合氣道を学んできた…。
そして現在に至るまで、延べ約15万人の修練生との出会いをさせて頂いた。
感謝以外何物でもない。
その間、合気道を学ぶ人の姿勢が大きく変わってきた。
私は生涯の師として仰いだ陽明学者安岡正篤先生に「人として上に立つものの心得」学び、そして藤平光一先生が創られた「心身統一合氣道の五原則」に従い常に人と接してきた。しかし、年月が経って有段者になってくると、最初の無に近い状態から少しずつ教わったことを忘れて傍若無人な人間になっていく…。
すなわち人と人との繋がりを忘れて自分が一人でできたような錯覚を起こして氣にいらなければ勝手な行動をとる者が多くなった。
悲しく空しい気持ちになる。それが高学歴の人に多くみられる。
その中には、発達障害を持つ者も含まれる。アスペルガー症候群である。これは心の問題ではなく脳の一か所に欠陥がある病気と言われている。
今までに数名が見つかった。高齢に達してから出てくる場合もある。
人の恩を大切にする。人として無くしてはならないものである。武道は師弟関係で成り立つ。
しかし、現在はそのような関係を保つことはむつかしい。ハラスメントなどという概念が入って東洋思想が希薄になりつつある。
人は一人では生きられない、多くの人との関りで生かされていくものである。そのことに対して畏敬の念を抱くのは、当然のことと言わなくてはならない。
そのために私は「真の人間としての人格・品格を創る12の徳目」を表した。
その中でも「朋友の信」「謙遜」「徳器成就」は極めて自らのものとしなければならないことは言うまでもない。
勿論、上に立つ者の人格が求められることは言うまでもない。
人と人との繋がりを大切にする。そこには礼儀が存在する。
学習塾とは決定的に異なることを認識すべきある。
2025年04月20日
生きるとは
山岡鉄舟の志を継いだ高弟小倉鐡樹が「一九会道場を創られました。
私は、若い時、その一九会道場で、彼の高弟日野鐡叟について修行しました。日野鐵叟先生には、藤平光一先生も習われました。
其の修行たるは、神道十三派のうち、井上正兼先生の禊教と禅宗をミックスした修業で、心の垢をそぎおとすもの、ともいわれています。
麦八分、米二分のご飯に白湯、たくあんのしっぽです。それで一種間修行です。
昼ごはんの時、日野鐡叟先生が静かに言われました。『麦一粒とも粗末になりませぬぞ…、この前に出てくるまでどれ位の人の努力かありましたか…それだけではなく、この割りばしも、茶碗も、お茶も…、全て人のおかげなのです、自分が独り生きている、などと言うことは出来ません。さらに、お天道様はその光を分け隔てなく降り注いでくれます。善人悪人石や木、犬やネズミにも…。
即ち、自分が生きているのではなく、自分はいかされているのです。
そうした万有を愛護し万物を育成する天地の心を、深く感じることです。
そして、その恩を少しでも何かで返していくことが、生かさせて生きて行くことの眼目なのです…と。
舞鶴から心身統一合氣道の修練生一名が一九会道場で初学の修行を終えました。
彼がこの先どのように変わっていくのか見守りたいと思っています。
東洋哲学者・陽明学者安岡正篤先生からは、人間としての生き方を学びました。
人を創る、組織を創る、国を創るための精神的・原理であります「四維」の実践です。即ち、「礼・義・廉・恥」です。
更に、人、組織、国を滅ぼすのは、「四患」即ち「偽・私・放・奢」です。この説明は長くなりますので、宜しければ、ブログ、HPを見て頂ければ幸甚です。
人の為に無私の想いで尽くす、四無量心に生きる。これこそが、今私たちが心しなければならない第一義なのです。
話は変わりますが、台湾で日本の教師が命がけで教育として伝えたもの「道義」なので。
これが台湾の方々の中に、脈脈と伝えられているからこそ、台湾を愛するのです。
2025年03月27日
植芝盛平が藤平光一(敬称略)に伝えたこと
1974年に「合気ニュース」を創刊された編集長のスタンレーブラニン氏(合気道史家)が語る藤平光一先生の実像。
藤平光一先生との出会いとともに1997年まで藤平光一宗主と7回の会見が行なわれました。その中でのトピックスとしてのニュースは「藤平先生はそれまで武道関係の雑誌のインタビューに応じなかった理由として、「私が昔のことをしゃべったら、彼ら(植芝盛平の弟子たち)がダメになってしまうだろうと思ったから(合気ニュース110号)」と言われています。つまり、植芝盛平翁を神秘化したり超能力者にまつりあげている弟子たちにとって、盛平翁の強かったのは彼が完全にリラックスしていたからだという事実が明らかにされてしまっては……困るわけです。「しかし、本当のことを残しておかなければなりません」ということで『合気ニュースの一連の会見の実現となったのだといわれています。何故、植芝盛平は強いといわれるようになったのか…当時合氣会総師範部長であった藤平光一師範は、「それは完全に力を抜く、即ち、リラックスを会得されていたからなのです」と見抜かれていました。決して神秘的ではなく、当然の結果なのです。既に極意を会得されていた藤平光一師範(合氣道十段位)は、1960年代後半から70年代にかけて藤平先生の海外での活躍には素晴らしいものがあります。事実、当時の私たちにとり、植芝盛平先生は壁に貼ってある写真の人、神秘的な存在でしかありませんでした。しかし、藤平先生は実際に腕をとって投げおしえてくださる現実の人。具体的に解説を交えて教えてくださる堅実のひと、として人の心に入っていきました。そうした合気道普及での藤平先生の活躍は、残念ながら現在出回っている合気道関係の書物には残されていません。私としては、そういう事実を合氣道史上に残しておきたい、現在の若い人たちに知ってほしいと思ったのです。
私(奥山)は、藤平光一先生(合氣道十段位・心身統一合氣道創始者)に師事して約四十数年になります…。その間、合氣にかんして多くのことを学びました。
当時合気会の総師範部長として国内はもとより、海外二十数か国に合氣道を広められた功績は、偉大なものです。そのことを無視して、さらには合気会のあらゆる書物から名前を消し去ったことは、合氣道界の大きな汚点として残りました。海外の道場から藤平先生の写真を取り外し、海外での指導者である藤平先生の立場を取り上げた行為は、決して許されるものではありません。
当時藤平光一先生から頂いた書簡の中には、その経過について、一部始終書かれていました。私は今、その書簡を読むたびに胸が張り裂ける思いになります。(何時の日かその手紙を公表する時がくると思います)
しかし、如何なることをされようとも「植芝盛平翁を生涯の師」として仰がれた姿は、人として人間としての生き方を示されたものして尊敬以外何物でもありません。
藤平光一先生は、合氣道は「完全に力を抜く…リラックス」ことが一番重要であり極意であると説かれました。中村天風翁の心身統一道と「心が體を動かす」と言う言葉、植芝盛平翁の「合気は愛じゃ、わしの合気は米糠二合持つ力があればできるんじゃ」という言葉、更には山岡鉄舟の一九会での禊修行などで、そのことを会得されました。
武田惣角から植芝盛平そして藤平光一と伝えられた合氣道は、人の氣に合わすのではなく、「天地の氣に合する道」が合氣道である…更には真の合氣道とは何か…、相対世界ではなく、絶対的自己を造り上げること、即ち「争わざるの理」と「自らの人格を造る」ことに在ると喝破されました。
私達は藤平光一先生が創建された「心身統一合氣道」を藤平光一先生から直接学び、先生亡き後は、子息の二代継承者藤平信一会長のもとで世界に広められています。藤平信一会長は、父藤平光一先生に想像を絶する教えのもとに耐え、見事に合氣道の真髄を会得されました。私は二代継承者藤平信一会長を4歳の時から見守って来ました。そしてこれからの合氣道界を牽引されるのは彼以外に無いと断言致します。
会友一同、さらに前進されますことを期待致します。

