2008年09月06日

昇級段講習会

久し振りに受験者をつれて参加した。
二代継承者の籐平信一君になってから、形式が変わった。
新しい組織にしたい、との彼の想いが伝わってくる。

参加者約四十人、指導員をも含めるともっと増える。
心身統一合氣道会大阪本部の代表の山本師範が、軽快な
語り口で、話していく…。

統一道のテスト。なかなか時間のいるものだ。
16項目の氣のテストを一人一人行う、これも
根気のいるテストである。

しかし、この受験の効用は、座禅と同じといえる。
受験者の最初の関門、心身統一合氣道の初段の受験である。
それから、このプログを読んでいるという人に会えた。
Sさんという人である。
一度舞鶴をご案内しましょう。是非来て下さい。
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2008年09月03日

夏が終わった…

肌をさすような暑さが、朝夕には肌寒く感じるようになった…。
夏野菜も胡瓜はもう、枯れ始めている。
しかし、万願寺甘唐、茄、伏見の甘唐、青紫蘇、鶴紫はまだ
勢いをつけている。

突然の総理大臣の辞任…。「またか」との思い。
なぜか歴代の首相は二代目、すなわち二世議員である。

昔の企業の経営者は、世襲的に子息を将来、後継ぎと
考えた場合、帝王学を学ばせた。

それを政治家に見た場合、そのような教育は無かった
としかいえない。

責任感のなさ、決断のなさ、即ち精神的中心と
なる哲学が無いと言っても過言ではないだろう。

そして、「言葉」がない。
相手を十分納得させるような、さらには心惹かれる様な
大向こうを唸らせるような言葉がない。

それに比べて、米国の大統領選挙に見られるように、
人を引き付け、感銘をさせるような言葉が吐き出される。
人々は、その言葉に夢を託す決心をする…。

「オバマ」氏が「チェンジ!」の一言で、人々の心を
掴んだように…。

言葉には「言霊」が宿る、と言われている。
前途多難である。
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2008年09月02日

自己を観る

そして、お互いに悟りを得ようとする境地になっていくならば、こんな騒がしい世の中はなかろうじゃないかという、世の中に対する大きな悲願、慈悲が必然的に起きてきます。その悲願とともに、自分に与えられた職業なり何なりに向かって突進していくということは、宇宙の中を非常に浄化せしめ、つまり仏教でいう極楽の世界をつくらんとする眼心であり、おそらくキリストでいうところの天国の再来をつくらんとする気持ちであろうと思います。
そういう気持ちになった場合、それは仏教的にいうならば、仏の立場において人間の世界に飛び出している。ですから他の人間的ないざこざ、人間的なことに対して。びくともしません。それはいうならば、名誉とはいったい何であるか、地位とは一体何であるかというような根本的な原則から解決できていますから、地位にも恋恋とせず、名誉にも恋恋とせず、ただし、地位がある人ならば、世の中を済度していくのに都合がよろしい、名誉があるならば、多くの人たちを済度するのに便利です。そこに地位も認め、あるいは名誉も認めていますが、すでに名誉に拘泥していない。つまり婬して婬することがない。これが根本的な大きな自己の据え方の原則です。ここから出発しなければ自己は定まるものではない。死を常に眼前に追うてびくびくして追って自己の定まることはない。
 まず、生死解脱、生死脱皮、それは無の哲学に徹しることです。無の哲学を頭の上で解剖して、わかったとか、知ったとかではいけない
。それは人間的なひとつの脳の働きにすぎないのであって、かえってじゃまになる。自分は理論的には無の哲学がわかった。ところが死が迫ってきた時に、いっそう自家撞着に陥って矛盾が多い。それなら知らん方がいい。知る以上は、知るという言葉じゃなくて、徹するという言葉、つまり、自分の五体がその中に溶け込んで来て、それを擁する、だからまず自己手段というものから入っていかなければならない。…………省略…………。

このなような内容であつたように思う。
私は「…自己手段というものから入って…」については、
合氣武道を通じて教えます。

そして、陽明学の「知行合一」として実践してく。
つまり、人格を涵養する、そのために心身統一合氣道を
用いているのです。

自らの運命を正しい方向に変えていく、
つまり「立命」とするために…。

たまには、弘心塾にいらっしゃいませんか、
お待ちしております。
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2008年09月01日

自分を観る3

………略………
白隠禅師は、「動中の工夫は、静中の工夫に勝ること百千万倍」といいました。工夫ということは、自己がいかに無であるかどうか、一切の万有であるかどうかということを見極めんとする心構えをいっているのですが、動中の工夫は静中の工夫に勝ることが百千万倍だというのです。これをしいて禅的に言うならば公案とでももうしますか、公案とは一つのなぞを解決せざればおかずというような考え、もし自分が無であり、他も無であるということを主張するならば、はたしてそんなものがあるかどうかを自分が一つの概念として持って、それを果たそうとするその心組みを公案と名付けています。そして自分がじっと考えていくなのらば、それは座禅のときに限らん、飯食っておろうが、セッチンに行ってクソたれておろうが、その工夫を続けていくとは静かな座禅に勝ること百千万倍といいます。
しかしそれは口でいえばそれだけですが、なかなかできるものではない。電車にのっても、あっちの顔も見、こっちの顔も見る、出来事もおこるといったふうで、そんなにじっとかんがえられるものではない
。しかし、本当に注意力があるならばそは可能である。
こうして四六時中自己無なりというものが如何にあるかということを念頭におくと、それは自分を殺している姿だということを言っているのです。自己というものは常に瞬時のひまなく起きている。その起きている自己を、念頭にあるものをじっと殺す。その姿はもう自己を殺し尽くしている姿です。
禅では、その殺してなにもかも自己を殺しきった時、初めて自分が無なら無と思うている公案にガチッと合う日があるというのです。これを悟りといっています。自己を殺して、公案と自己がガチッと一つに打ち解けてしまう。そして起きてきたものが悟りである。その悟りは無の公案に徹したものですから、他も自分もないということがそこで初めて力強くわかるわけです。
まず禅の修行の行き方は自己を殺すその殺し方です。それはちらっと瞬時の間自己を殺すことはできます。けれども、長く続けて本当に徹することは、容易ならん時間を要します。そして自己を殺した中から出てきた自己がほんとうの自己だといっているのです。今までの自己はうその自己だった。他についてまわった自己だった。そこからパッと出てきた自分は本当の自己であって、この自己は宇宙のはじめから終わりに至るまで関連した自己だ。われわれ人間は宇宙のなにもののしわざかしらん。ただ両親いうものをかりてでてきてはおりますが、決して両親の中に私があったのじゃない。両親がまだ赤ん坊のときに、私を生む能力も、私の体のタネも何もないはずです。ところが春季発情期に至って、その恋しい、慕わしいという人間の欲望が起きてきて、これが製造した。
 すると赤ん坊は春季発情期以前にはなかったかというと、そうはいえない。あったじゃないか。形の上からいくと、一体人間はどこから生まれてきたか。これはおそらく宇宙が太陽系統からパッと出てきて、この辺でうまいこと宙ブラリンにぶらさがっていて、その中には一切の万物をつくるところの機能があって、その機能が非常に複雑怪奇に集まって出来上がったものが人間である。そう考えてみると、私どもの生命力は宇宙にあるはずだ。その宇宙にあるもの、天何おかいわず、死わかれ、地なにおかいわず、万物生死せしめるもの、これが生命力というか、宇宙の一切のものをつくるのです。
おそらくキリスト教ではこの万物創造のものを「神」というているのじゃないでしょうか。仏教は創造とは申しません。創造以前です。
 この「一機」というもの…これは言葉に出ないのですが、これは仏と名付けているのです。ですからこの仏は宇宙に遍満しているわけです。猫になり、犬になり、牛になり、馬となり、私になる。これは何かの因縁で姿をかりていますが、同じ元素です。仏教では「草木国土悉皆成仏」という言葉がありますが、草も木も猫も杓子も仏である。セッチンのダラ虫も仏であるといっているのはそこなんです。
「悉仏性」と言っていますが、自己は無なりといったところへパッと来た自分というものは、この宇宙の氣息にふれて生きている。これは本当の自己であり、同時に仏であるということです。宇宙に遍満している自分である。ただここに時間、空間をかりて、ある種の因縁が凝結してそういう形をなしている。この私という形のものは消えていくでしょう。けれどもこの消えていくものがすでにこの宇宙には先に遍満しておったものだということがわかります。そうなると自分はない。同時に一切のものがあるということが、あるがままにここに肯定せられます。これを肯定するならば、この世の中をこんない毎日ケンカばかりして騒がしゅうしていることをなんとか救わなければいけない。
つづく
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2008年08月26日

自己を観る2

そういった面から考えていきますと、自己というものは全部相手と対立していることなのです。もし、相手が世の中にないとしてみたら、果たして自己ありやと考えてみると、自己というものはさようにして相手があった場合に自己がある。そして自己と思うもの自分というものを考えてみた場合、五尺何寸のからだがあって、これはみんな肉であり、皮膚であり、血であり、唾液であり、小便である。本当の自己というものは一口にいってこころだ。精神だ。しかし心、精神というものはあるのかないのか。いくらたたいてもどこにもないじゃないか。頭のてっぺんから足の先まで自己というものはちっともない。ところが相手がでてくるときはそれがふっと出てくる。怒るという自己がないはずの自分が、相手が怒らしたら、怒るという自己が起きてくる。笑うという自己がないはずの自分が、相手が笑わせると、笑うという自己がおきてくる。そうなってみると自己というものははたしてありやいなや。禅では、自己無なりというところに到達する。
自己無なり。自己無ならば相手も無なんだ。一切のものはことごとく無である。ことごとく無であるとするならば、生まれたというのも無であり、死ぬというのも無である。ここに初めて生死というものがない。自己がある場合に死ぬ。自己のない場合は死なない。こういうことなのです。
そうなれは自己がないとした場合、いかようにも相手が自己を脅迫しようと何しようと、ない自己に何をしているのだということで、ちっともこっちはくらつかない…。
有名な快川国師が織田信長に捕えられ、山門の上にのせられて、下から火をかけて焼かれた。一山の僧四十何人ことごとく火で焼かれたときに、あの有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉が出たのです。あの態度は自己無でないと出てこない。自己ありとせば、あるものがなくなるのに恐怖の念がないということはないはずです。自己無というところに立ってあの態度ができた。つづく
posted by 弘心 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自己を観る

昭和36年頃だったように思う。
私は当時、「青春の門」をくぐっていた。

自己に対するというか、人生に対するというか、
生き方に対するこころの葛藤が渦巻いていた。

その時、当時、大徳寺塔頭徳禅寺住職の立花大亀老師の
もとで参禅していた。確か、当時で師は61歳位だと
おもう。痩せて華奢な体つきで、しかし、柔和な中に
眼光鋭く、こちらのこころを射抜くような
面ざしの方でした。

ある日の老師の話が、私のこころを変えた。

「…私たちが飯を三度食うのも、死ぬから食うのであるし、衣服をきるのも、着なくては死ぬから着るので、なにもかも、私ども人間のあらゆる働きに死ぬということにかかっておると思うのです。
だから死ぬことはそれでよいとして、生きている間どうあるべきか。
死ぬことを脱皮したうえの人間の在り方は、生活を極めて単純に、文化的にいきていきたい。生かしていくということです。これが人間の生きていく努力になってくるわけです。
禅宗ではまず何のために修行するかということが第一問題は、生死問題と言っています。…まず、死ぬということを解決する。その上で生きている問題を解決していく。この二つをカギとして修行が行われるわけです。そして、自分というものの今の立場というものはことごとく相手があるのです。そして、自分がすっかりすると、対者にとらわれている場合が大方なのです…。腹が減ったから飯を食う。これはいかにも自分です。
ところが、腹が減ったから飯をくうということになってくると、何を食ったらうまい、何が栄養になるかというような、つまり第二義的な観念がすぐについてきて、それは腹が減ったら飯が食いたいという無意味な感じではなくて、すでに第二義的な課題がそこにできてくる。
それは対者に自己をとらわれてしまっているのです。
はなはだしいものになってくると、自分がパチンコをしたいがためにわずかな金がほしい。それで運転手殺しをやるとか、立派な身分の人がデパートで万引きをしたとかいうことにもなる。それはみな相手に自己を奪われてしまっているのです…。つづく
posted by 弘心 at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

そばにいてね

????????あなたが好きよ 泣きたいくらい
 あなたがいなければ
 生きては行けないの
 そばにいてね そばにいてね
 独りにしないでね
 そばにいてね そばにいてね
 二人きりの 夢を見たいの
 いつもこの手 握りしめて
 そばにいてね

????????あなたが好きよ 眠れぬくらい
 あなたが 恋しくて
 夢でも 逢いたいの
 そばにいてね そばにいてね
 いつまでも変らずに
 そばにいてね そばにいてね
 私だけをずっと愛して
 いつも肩を そっと寄せて
 そばにいてね

????????あなたが好きよ 死にたいくらい
 あなたのぬくもりに
 つつまれていたいの
 そばにいてね そばにいてね
 離れたりしないでね
 そばにいてね そばにいてね
 愛の子守歌を聞かせて
 いつも抱かれ 眠りたいの
 そばにいてね

今年の七月にでた新譜。作詞:朴健浩 作曲:金英光
日本語詞:三佳令二 

この演歌は韓国の人の作詞作曲であることに興味がわいた。
メロディーは、非常に綺麗で、すぐに覚えられた。

繰り返しの言葉に感情を移入することが大事な歌。
何回も何回も詩を読み、好きな人のことをこころに
浮かべ、そして、その人に語りかけるように、囁く。

こころと詩のもつ意味がひとつになった時、メロディーに
乗せる????????

そうそう、歌い手は、「さざんかの宿」などのヒット作品がある
大川栄作氏である。
なぜ、大川氏が歌っているのか、彼は、非常に小節を
まわすことが上手な歌手で、この詩がそこまで小節を必要と
するのかは疑問と思う。

そんな独断と偏見はやめにして、大変上手。やはりプロ
なのである。

禅では人間のことを「半個」ということがある。
そして、半個半個で一個。すなわち、二人で一人という
意味である。人間は一人では生きてゆけない、と
いうことである。

同じ儒教のDNAを持つ東洋人、韓国の詩作り人の感性
に感心した。
今年のヒット曲になること、間違いなし。

年齢関係なしに、大いに歌ってほしい歌でもある。
愛氣で…????????
posted by 弘心 at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月22日

時代の流れ

もの心がついてから、半世紀が過ぎ去った。
そして、ファーストステージが終わり、セカンド
ステージへ何とか軟着陸をした。

二人の人生の師は、一人は亡くなり、ひとりは
その役割を終えようとしている。

一つは、自らの運命と対峙することを教えられ、
もうひとつは、自らのこころと體を直視することを教わった。

東洋哲学としての陽明学と合氣道である。
二つの教えが、今、一つに融合しつつある。

八年前に、舞鶴に新しい庵を設けて、大地との対話
すなわち武農合一「武と農の融合」を実践してきた。

半世紀にわたる合氣武道との関わりは、合氣の会得と
ともに大きく進化した。
いや、まだ進化しつつある。

武道はまさに「こころ」と「こころ」の対峙である。
すなわち、いかに、こころの孤高を保つか、である。

そして、心の触手である氣を相手に予測させない
ことが重要である。

そのためには、すなわち平常心をいかなる時にも
保持することが求められるのである。

體は、全身を弛緩させ、こころを静かに沈めて、
體の内部を意識してその内部を動かす
(205の骨と500の筋肉)

體が覚えている正しい動かし方が一番大事なことは
言うまでもない。

守・破・離
技・体技は體のもつ本来の自然の動きを再度體に確認する
作業に過ぎない。「守」を自覚する

「合氣」を会得し、こころが鎮まれば、技はもう必要ない。
すなわち、「破」である。

宇宙との一体感を自覚したとき、「離」となる。

自覚をして久しい。生きている間に、伝承することが
私に課せられた責務であろう。
posted by 弘心 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月18日

夏野菜

畑の野菜がこれでもか、これでもかと実をつけてくれる。
おすそ分けの意味で、東京の親友宅にお送りした。
喜んで頂いた。大変うれしい。

胡瓜、ピーマン、万願寺甘唐、伏見の甘唐、蔓紫、
青紫蘇…などである。

農薬、化学肥料を一切使わないでの栽培であるので
安心して食することが出来る。

昨日、自然農法を提唱され、アジアのノーベル賞とも
いわれるフィリッピンのマグサイサイ賞やインドの
最高栄誉賞を受賞された福岡正信氏が亡くなられた。
95歳。

米や野菜作りにおいていかに人の手を省き、自然の力に
ゆだねるかを追及、土を耕さず無肥料・無農薬・無除草で
作物を育てることを特徴とする自然農法を確立した。

特に、アジアやアフリカ諸国の砂漠緑化にもかかわった。
海外では宗教哲学者しての評価も高い。

近いうちに、その一端を実践してみたい。
posted by 弘心 at 22:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三冊の本、プラス一冊

順番が逆になりました。先の本の紹介で、姜尚中氏の
本の名前は「悩む力」でした。訂正いたします。

「なぜ生きる」は、明橋大二氏(精神科医)と
伊東健太郎(哲学者)の共書である。
人生の目的は何か、について非常に分かり易く
書かれている。

しかし、人によって取り方が異なることも又事実である。
ひとつ言えることは、私が何時も弘心塾で話させて頂く
ことの中で、「今存在する自分は、必要である故に
生かされて存在している」、
という事実である。

「生かされて生きていることに意味がある」のである。
そのことは、人間だけに当てはまるのではなく、自然界の
全てのものに当てはまる。

そして、「目に見えない世界にこそ意識をおく」ことである。
すると見えないものが見えてくる…。

もう、自分は一人ではない…。命の尊さと生かされている有難さ
が沸き起こってくる。そして、他への働きかけに喜びを
見出す…。

それでは又、弘心塾で話しましょう。
posted by 弘心 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする