2019年05月10日

平成から令和へ



新元号の出典は、初めての和書となる万葉集から…と。しかし、「出典は国書」との説明も文のひな型を思わせる漢籍を持ち出して疑義を呈するものも…。
新元号の予想騒ぎもネット上での難陳論議も…。国民主権の時代に新しい形としての皇位継承の姿なのでしょう。新しい元号にあやかって、その吉兆は、私達国民の心の持ち方にかかっていることを忘れてはなりません。

さて、我が国は下田沖に黒船が渡来して以来、欧米に追い付き追い越せとの思いで、一億火の玉となって突き進みました…明治・大正・昭和…、「ものづくりの時代」から、「心の時代」と変遷を遂げて来ました…。
しかし、敗戦後、今まで培ってきた日本精神は、総て戦勝国によって、放棄させられました…。

このことが現在の我が国の状況…即ち、一国のリーダーたる者、政財界、教育関係、スポーツ関係者たちの人心の荒廃の根源となったのです。
菅子の唱える四患「偽・私・放・奢」この四つの内、一つでも犯すことは、人を滅ぼし、組織を滅ぼし、国を滅ぼすことになります。
一国のリーダー、政財界、教育関係、スポーツ界、その他の人達の「うそ、いつわり、詭弁、逃避…」は今は目を覆う有様です。改める心氣が求められます。

情報社会に突入して、世界は一変しました。IT社会の到来です。すなわち、新しいものづくりの時代です。すなわち、「心によるものづくり」です。
先駆者の後を手繰っていけば、物が造れた時代とはまったく違うことを自覚しなければなりません。
知識だけに頼った企業経営の時代ではありません。

それは物質主義や市場経済主義による変質的疎外感が蔓延った19〜20世紀が終焉して、新たな価値観をもった視点がおぼろげながら人心に浮かんできたもの…。それは新たな心の時代を模索し始めたと考えられます。

それでは何を頼るのか…。一人ひとりが物を見る目が違ってきたといっても過言ではありません。人の心に潜む「真の美しさ」とは何か…そこにヒントが隠されているのではないでしょうか。偏差値は高いが美意識は低いという人創りは誤った教育といっても過言ではありません。起業者は「美意識」を鍛えることになのです。そして「直観」と「感覚」によるものづくり…。これが「心によるものづくり」と言えるでしょう。

そこには、「真・善・美」がなければなりません。そのためには、リーダーは何をすれば良いのか…新しい価値観の創造、それは、美意識とともに、経営に新たな視点、即ちアート・サイエンス・仏教観なのです。そこに、令和の時代における人間としての生き方も含めて、答えがあると考えます。今一度、自らの心が何処にあるのか…確信されることを望みます。
さぁー、新しい元号とともに、新しい未来を…。
posted by 弘心 at 11:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

T老師宛て書簡

今回の訪台におきましては、お世話になりました。
心から厚く御礼申しあげます。
特に新しい人との交流は、心身統一合氣道会にとって大変有意義でした。
合氣武術は、武田惣角(大東流柔術)から植芝盛平(後に合氣道と命名)、そして藤平光一(心身統一合氣道を創設)に真の合氣道として伝承されました。今、世界から注目されています。

私は台湾へ11年間(訪台22回)参りました。この目的は、只、心身統一合氣道の技だけを伝えるのではなく、心身統一道と共に、心身統一合氣道の理念は「争わざるの理」であります。
そしてその目的は、「自らの人格を造る」ことにあります。
そのことを技を通じて伝えるために台湾へ参っております。
更には、今から12年前に、台湾の長老の方からはじめて「日本精神」という言葉を聞きました。その時は大変驚きました。

明治28年に台湾は「清」から日本渡されました。日本による統治が始まりました。
そして、児玉源太郎・後藤新平・新渡戸稲造らによって日本と同じ教育が実施されました。
このことは上から目線ではなく、植民地としてではなく同等の扱いがなされました…。
しかし、良い事ばかりでは無かったも事実です。
例として、終戦後、日本が台湾から引き上げる時、台湾の人達は次の言葉を吐きました「犬が去って、豚が来た…」と。
台湾へは「教育勅語」を中心とした教育がなされました。

親を大切に、兄弟仲良く、年上を敬い、物を大切に、自分のことより他の人のことを重んじる…など慈・悲・喜・捨、即ち地四無量心を大事にした教育でありました。
このことは昔の日本人が大切にしていた「利他の心」であります。

今の日本人には、このような教育は長い間為されませんでした。その結果が今の日本の精神状況です。哀しいことです。
昔の日本人の精神的支えであった「日本精神」…。このことを今の台湾の若い方に
心身統一道・心身統一合氣道を通じて改めて伝えるために、私は毎年台湾へ伺うのです。
少しずつ心身統一道・心身統一合氣道の理解者が増えて参りました。喜ばしいことです。
感謝の氣持ちで一杯です。

今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。又、次回お会い出来ますこと楽しみにしております。奥山弘邇拝
posted by 弘心 at 11:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月21日

T老師宛て書簡

今回の訪台におきましては、お世話になりました。
心から厚く御礼申しあげます。
特に新しい人との交流は、心身統一合氣道会にとって大変有意義でした。
合氣武術は、武田惣角(大東流柔術)から植芝盛平(後に合氣道と命名)、そして藤平光一(心身統一合氣道を創設)に真の合氣道として伝承されました。今、世界から注目されています。

私は台湾へ11年間(訪台22回)参りました。この目的は、只、心身統一合氣道の技だけを伝えるのではなく、心身統一道と共に、心身統一合氣道の理念は「争わざるの理」であります。
そしてその目的は、「自らの人格を造る」ことにあります。
そのことを技を通じて伝えるために台湾へ参っております。
更には、今から12年前に、台湾の長老の方からはじめて「日本精神」という言葉を聞きました。その時は大変驚きました。

明治28年に台湾は「清」から日本渡されました。日本による統治が始まりました。
そして、児玉源太郎・後藤新平・新渡戸稲造らによって日本と同じ教育が実施されました。
このことは上から目線ではなく、植民地としてではなく同等の扱いがなされました…。
しかし、良い事ばかりでは無かったも事実です。
例として、終戦後、日本が台湾から引き上げる時、台湾の人達は次の言葉を吐きました「犬が去って、豚が来た…」と。
台湾へは「教育勅語」を中心とした教育がなされました。

親を大切に、兄弟仲良く、年上を敬い、物を大切に、自分のことより他の人のことを重んじる…など慈・悲・喜・捨、即ち地四無量心を大事にした教育でありました。
このことは昔の日本人が大切にしていた「利他の心」であります。

今の日本人には、このような教育は長い間為されませんでした。その結果が今の日本の精神状況です。哀しいことです。
昔の日本人の精神的支えであった「日本精神」…。このことを今の台湾の若い方に
心身統一道・心身統一合氣道を通じて改めて伝えるために、私は毎年台湾へ伺うのです。
少しずつ心身統一道・心身統一合氣道の理解者が増えて参りました。喜ばしいことです。
感謝の氣持ちで一杯です。

今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。又、次回お会い出来ますこと楽しみにしております。奥山弘邇拝
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2018年12月19日

書簡

一年があっと言う間に…この一年は一体何をしたのだろうか…。「一年の計が定まったら、先のことを考えるな! 今この瞬間、今の今を考えて生きよ!…」師のこの言葉を大切にして今まで生きて来た…。それで良かったのだろう…。「頭で考えるな…感覚で捉まえよ…。」組織の代表宛ての書簡である。

「拝啓 向寒のみぎり、貴職におかれましては、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。日頃は何かとご指導賜り心から厚く御礼申し上げます。
さて、過日は大変お世話様になりました。心から厚く御礼申し上げます。
貴台から世代交代について話されました。時代の変化に敏感に対応することは組織運営には必須であります。

組織の長として、人選と決断は何時の時にも求められます。今回の判断は的確であったのか…。とすれば彼らは組織上どのような立場で臨んでいるのか…。一個の人間に対して武道(合氣道)の技量を判断することに対して充分な知識と見識、胆識を備えているのか…、など感じることは多々存在致します(せめて「正語」に対する正しい認識は必要と考えます)。
時代も変化していますから「何故…なのか」の問いに対してきちっと答えられるだけの対応は求められるでしょう。

人に真理を認識する見識を伝えるには、四つの難関があります。それをクリァーすることです。その行動学は、次のものです。
@ 人を審らかにする。A 己を審らかにする。B 事を審らかにする。C 時を審らかにする。
そしてその行動は、明白簡易でなければなりません。釈迦に説法ですがご容赦ください。

最後になりましたが私の道場では、特に人生を、運命を、如何にしてプラスに変えるか(立命学)について日々説いております。
その例として「道を志す者の七見識」「仕事の心得七カ条」「六中観」「「人間の九つの品格」「マネジメントに活かす東洋的兵法」「指導者の条件…恥の自覚」「知識主義を棄てて、見識を育てよ」…などであります。

合氣道を始められた方が、一年で人間として大きく変わっていかれることに、感謝の念が堪えません。
引き続きご指導賜りますよう衷心からお願い申し上げます。     敬具

posted by 弘心 at 21:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月13日

S氏への書簡

行動学

向寒のみぎり、お変わりなくお過ごしのことと拝察いたします。
さて、貴台からのメールについて、きづいたことを書き送ります。
「今の私に必要なのは、自分の絶対的自信と相手への絶対的評価であると思います…」と言われています。しかし、一番必要なのは、相手への信頼感です。その為には、「総て清濁併せのむ器量」と「相手を見抜く力」を持たなくてはなりません。
電話の話の中で「利他の心」についてもお話いたしました。又、「何故生まれてきたのか…」「何のために生きているのか」についても話しましたね。もう一度思い出してみて下さい。基本は、どのような時にも自らが「主である」ということを自覚すること、そして如何なる相手にも対等の立場で接することです。そして次の心得を心に叩き込んで下さい。
行動する人・事を行う者が難関を突破する行動学
A 己を審らかにする。
B 事を審らかにする。
C 時を審らかにする。
行動⇒ 明白簡易になって行動
⇒行動の目的や問題の所在を分かりやすく明確にする⇒
クリアーな行動となる
以上の言葉の真の意味を思慮してみて下さい。次回は「仕事の心得七ヵ条」について書き送ります。
 

                                          
                          

                          
posted by 弘心 at 13:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月15日

なぜ親と子に心身統一合氣道を伝えるのか(2)


日本武道のルーツは、古代ギリシャ、都市国家アテネにあると言われています。すなわちアテネにおける教育にその原点がありますが、特に合氣道(心身統一合氣道)とは密接な関係が存在します。
 人口約二万人の都市国家(ポリス)おいて、多数の偉人を輩出していることは歴史を見ればわかりますが、何故この少ない人口の都市に優秀な人物が多く存在したのか、この事実には、古代ギリシャの教育方法にあると考えられています(ルドルフ・シュタイナー 人智学)。 子供が生まれて7歳になると同時に、ギムナストと呼ばれる今で言う体育の教師に預けられます。すなわち「ギムナストによる教育」です。そこで子供たちは自分の体の動きを通じて、一つの大きな宇宙的運動を体験することで、一種の宇宙的なリズムを自分の身に付けるのです。シュタイナーの言葉を使えば、「生命体」(東洋の霊学でいう「氣」の働き)をそれによって強めたと言えるのです。そして闘技と群舞を学びます。その指導の一番の重要視は、呼吸法を通じて、宇宙との一体感の自覚、さらには血液の流れとその役割を学ぶと共に體の仕組みと骨格・筋肉の細部にわたる身体的精神的能力を試されるのです。
 特に、幼時からの宇宙感との関わり、宇宙の浩然の「氣」との呼吸力による一体感は、身体的精神的能力に大きな変革を生じさせるのです。そして子供たちは、大きな自然の流れ、大自然の法則性を身体で覚えていきます。
このような「無意識の教育」がなされることにより、感性の豊かな人間性が培われ、頭脳の持つ全方向性が花開くことに繋がっていくのです。古代ギリシャの都市国家(ポリス)アテネはこのような教育によって、歯が生え換わる時期である7歳から14歳の間に、闘技と群舞により、完全な調和のとれた肉体に鍛え上げることによって、後は、放っておいても上記で述べたようにその頭脳は素晴らしい方向へと展開していくのです。多くの偉人はこのことを学んでいたのです。現代は、「意識の教育」が施され、知識が全てであるような教育の方向に向けられていると言っても過言ではありません。この「意識の教育」が強まれば強まるほど、「無意識の教育」は為されなくなっていくのです。東洋哲学では、全ての生命の根源である「氣」というものの実在を自覚します。現在科学では、素粒子物理論として、物質として一番小さな物を探究しています。現在、その物質「クオーク」が発見されました。科学はまだもっと小さな物質を追い求めています。しかし、今から約3000年前に「氣」という概念ですでに感覚として分かっていました。今のように高度な数式などは無かった時代に、感覚として捉えていたことは驚くべきことです。心身統一合氣道の創始者藤平光一氏は、「万有を愛護し、万物を育成する天地(宇宙)の心を以て我が心としよう。心身を統一し、天地(宇宙)と一体となることがわが修行の眼目である」を座右の銘としているように、「天地(宇宙)の氣に合する道」これが心身統一合氣道です。それには自らの心と氣を自覚することが重要です。心身統一道・心身統一合氣道の修練によって「心が體を動かす」原理を学びます。それは人間本来持っている素晴らしい能力を導きだします。心身統一道・心身統一合氣道は、「争わざるの理」を理念とし、真の人間としての「人格をつくる」ことが目的なのです。我が国において、徳川家康は関ヶ原の戦いの後、官学として「朱子学」を取り入れました。「意識の教育」のです。しかし、その対岸の思想として位置する「陽明学」は、「無意識の教育」です。明治維新へ命を賭けた青年群像は、陽明学者といわれる人物の影響を受けたと言われています。我が国の陽明学の祖の中江藤樹、左藤一斎、岡山の高梁市が生んだ陽明学者山田方谷はその代表です。我が国における東洋哲学の一人者であります安岡正篤氏は陽明学を立命学として体系づけられ多くの人達が学ばれました。古代ギリシャの思想・ルドルフ・シュタイナーの思想・心身統一合氣道の思想・陽明学の思想は同じ原点をもつものなのです。                                                       
                                                                  以上
posted by 弘心 at 22:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私が学んだ三人の師


私は、人生の師として、三人の先生に学びました。一人は、心身統一合氣道の創始者藤平光一先生です。日本の合氣道界では最強の人で、合氣道の創始者植芝盛平翁から最高位十段を授与された先生で、世界25カ国に広められました。
藤平光一先生から心身統一道として、心と體を一つにする手法即ち心身統一の四大原則(@臍下の一点に心を静めて統一する。A全身の力を完全に抜く。B身体の総ての重みをその最下部におく。C氣を出す。)を。心身統一合氣道からは、基本の技を通じて「心が身体を動かす」原理を学びました。武士道とは、「死ぬことと見つけたり」は、葉隠れの有名な言葉です。心身統一合氣道は、試合はありません。心と體を究極まで、修練によって高めて行きます。即ち「試合は死合」となります。心身統一合氣道の理念は、「争わざるの理」。そして其の目的は、「人としての人格をつくる」ことなのです。  心身統一道は、心と體を一つにする為の四大原則を自らの日常に用います。心身統一合氣道は、次の五原則から成立します。@氣が出ているA相手の心を知る➂相手の氣を尊ぶC相手の立場に立つD率先窮行。この一つを間違っても技にはなりません。
二人目は、東洋哲学者安岡正篤先生。先生からは、陽明学を学びました。人創り、組織創り、国を創る為には、「四惟」と言う言葉があります。「礼・義・廉・恥」です。この中でも「廉」は一番重要です。礼とは、国や人でも、その働きが正しい秩序を保ち美しく調和していることです。義とは、礼を支えるものか、自己の意義や使命を社会的に果たしていくという意味の義であります。廉とは、国や社会の為という全体の仕合わせに立つには、自分というものを無にして奉仕すること。即ち、無私になるということです。これが「廉」であります。恥とは、以上のような精神に立てば、自分勝手で利己的な姿は、全体的な「公(おおやけ)」から見れば、深く恥じなければならない。これが「恥」、恥をしることなのです。又、人を滅ぼし、組織、国を亡ぼすものとして、「四患」があります。「偽・私・放・奢」です。特に「偽(嘘、いつわり)」は一度で自らを殺してしまいます。
現在我が国において、最高学府を出て、一流企業を立ち上げた者、或いは政治家・教育関係・スポーツ関係団体が、嘘偽りの為に、マスコミの前で頭を下げて、謝っている姿を数多く目にします。そして姿を消してしまいます。嘆かわしいことです。
三人目は、私が三歳の時から指導してくれた父(奥山喜峰…邇心流合氣武術を創設)です。力を全く使わないで自らの氣の動きで相手を、自在に導く(天と地に)ことでした。相手を掴むのではなく、手を添えるだけでよい。真っ先に相手の心・氣の動きを感覚で捉えよ。感覚を鍛えよ。それにはどのような相手にも慈悲心でもって接することだ。勝とうとは決して思ってはならない。只、「負けない」と言うことを研究せよ…。など、今となってようやくそのことが理解できるようになりました。教え全般を、自らの人生の指針として、更に社会関係、仕事に、家庭生活など全般に用いて頂ければ幸甚です。
            心身統一合氣道師範七段・邇心流合氣武術八段  奥山弘邇
posted by 弘心 at 22:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

七十年を経て辿りついた私の合氣道

七十年を経て辿りついた私の合氣道
ここに私が合氣武道と歩んで参りました経過を少しお話をいたします。1945年から父に学び、そして1961年に東京高島屋の野外ステージで初めて植芝盛平翁の合氣道を目にいたしました。そして現在まで約73年間都市計画技術者として街づくりに専念すると同時に、柔道、剣道、空手、拳法そして合氣道の探求に努めて参りました。この長きにわたる間、出会いと共に多くの修練生が集ってくれました。
私は、父からの教えと、心身統一合氣道創始者藤平光一先生の心身統一の四大原則・心身統一の五原則、誦句集とともに、中村天風師の心身統一法、原始佛教(釈迦の誕生から死までの教え)、安岡正篤師の陽明学(立命学)の教えなど、人間としての在り方、生き方を説いております。 「何のために生れてきたのか、何のために生きているのか…」この根本原理について理解することが最初となります。その上にたって、「心が體を動かす原理」「氣の原理」などを学び理解することが求められるのであります。そして心身統一合氣道の理念は「争わざるの理」、目的は「自らの人格をつくる」ことに帰着いたします。 
私の心身統一合氣道は、決して力で相手を崩したり、投げたりは致しません。そのためには、自らが完全なリラックスに同調する、そして相手を力で掴まない、軽く触れる、そして相手の心・氣を導くのです。すなわち行きたいところに行かせてあげるのです、行きたいところとは何か、天と地です。人は死ぬと體は地に戻り、エーテル体は天(宇宙の彼方に)に。宇宙の氣から生じた私達は又宇宙に戻ります。その意味は、相手の氣を真上真下(天と地)に導くことにあるのです。護手と攻手はその意味で基本技を用いて表武するのです。崩され投げられた攻手は、護手からではなく、何故、崩されたのか分からないまま自らが崩れるのです、ここには、護手と攻手と間には何の思惑もないのであります。相手に攻撃を仕掛けた者がひとりで打ちこんで、ひとりで崩れて転がっている…。ここに「争わざるの理」の一片があるのです。そこに、「我即宇宙」「我舞えば宇宙舞う」「合氣は愛」という言葉が生まれるのです。そのための第一歩として、「氣づき即行」と「清濁併せ呑む」ことを自らのものとしなければなりません。すなわち、相手の心・氣の動きを五感、六感で捉えることです。
私は、生きていく上においての真理を求めています。それは「悟りを求める心」を発することが重要と考えます。真理の教えを聞いて「歓喜の心を生ずること」すなわち悟りを求める心は、人間にとって真実の喜びにつながると思っているのです。慈悲心すなわち、四無量心の四つの心「慈・悲・喜・捨」は、計り知れない広大なものであり、これらがはたらきかける対象となる人々もまたはかり知れない(無量)ところから「四つのはかり知れない利他の心」と言われています。この利他の心をもって、様々な苦しみや悩みを持っている人々を高いところから観るのではなく、苦しんでいる人々と同じ立場に立って共に苦悩し、共感して共に救いの岸を目指していく、という心のあり方を意味しているのです。このことを自らの心の原点にして、先人が艱難辛苦の末に出来た基本技を方便にして自らの人格・品格の向上に努めなければなりません。真の合氣とは何か…合氣道は未だ完成されたものではないと思っております。自らの心身が極限にまで研ぎ澄まされて、心の動き、氣の動きが同一化され、相手の総ての動きが透視され、そして相手と同化した時、初めて真の合氣に近づいたとの認識がなされるものと思慮いたします。そのためには、「自らの身体の完全なリラックス・相手の心と氣を真っ先に読み取る・自らの體を自在に操る術・基本技の集積」が極意です。以上
posted by 弘心 at 22:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月03日

Sさんへの書簡

秋冷の候、貴台におかれましては、益々ご清栄のことと拝察いたします。
過日は合宿にご参加頂き心から厚く御礼申し上げます。
又、心の籠った品を頂戴いたし恐縮に存じております。更には合氣武術などについて、様々な意見交流をさせて頂きましたこと御礼申し上げます。
私共の会員には、藤平光一先生の誦句集とともに、中村天風師の心身統一法、原始佛教、安岡正篤師の陽明学の教えなど、人間としての在り方、生き方を説いております。
「何のために生れてきたのか、何のために生きているのか…」この根本原理について理解することが最初となります。その上にたって、「心が體を動かす原理」「氣の原理」を学び理解することが求められるのであります。そして心身統一合氣道の理念は「争わざるの理」、目的は「自らの人格をつくる」ことに帰着いたします。
私の合氣道は、決して力で相手を崩したり、投げたりは致しません。そのためには、自らが完全なリラックスに同調する、そして相手を力で掴まない、軽く触れる、そして相手の心・氣を導くのです。すなわち行きたいところに行かせてあげるのです、行きたいところとは何か、天と地です。人は死ぬと體は地に戻り、エーテル体は天(宇宙の彼方に)に。宇宙の氣から生じた私達は又宇宙に戻ります。その意味は、相手の氣を真上真下(天と地)に導くのです。護手と攻手はその意味で基本技を用いて表武するのです。崩され投げられた攻手は、護手からではなく、何故、崩されたのか分からないまま自らが崩れるのです、ここには、護手と攻手と間には何の思惑もないのであります。相手に攻撃を仕掛けた者がひとりで打ちこんで、ひとりで崩れて転がっている…。ここに「争わざるの理」の一片があるのです。すなわち、「我即宇宙」「我舞えば宇宙舞う」「合氣は愛」という言葉が生まれるのです。
私は、生きていく上においての真理を求めています。それは「悟りを求める心」を発することが重要と考えます。真理の教えを聞いて「歓喜の心を生ずること」すなわち悟りを求める心は、人間にとって真実の喜びにつながると思っているのです。
慈悲心すなわち、四無量心の四つの心「慈・悲・喜・捨」は、計り知れない広大なものであり、これらがはたらきかける対象となる人々もまたはかり知れない(無量)ところから「四つのはかり知れない利他の心」と言われています。
この利他の心をもって、様々な苦しみや悩みを持っている人々を高いところから観るのではなく、苦しんでいる人々と同じ立場に立って共に苦悩し、共感して共に救いの岸を目指していく、という心のあり方を意味しているのです。このことを自らの心の原点にして、基本技を通じて自らの人格・品格の向上に邁進いたしております。
今後も機会がありますれば、お会いしたく存じますと共に、重ねてお礼申しあげます。                                  敬具
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2018年08月22日

夏の甲子園!秋田県立金足農業高校準優勝おめでとう!


夏の甲子園!金足農業高等学校準優勝おめでとう!!心からお祝いします。

私は、彼らの努力と様々な人達の支えによって成し遂げられた成果に心揺さぶられました…。
ここに、高校野球の原点を見た思いです。金足農業高等学校の野球部員の一人一人は、無名で過去の経歴は皆無です。その彼らが快進撃を行ない優勝は出来ませんでしたがすばらしい活躍をされました…。今大会での一番のヒーローと言っても過言ではありません。おめでとう!おめでとう!心から祝辞をおくります。

過去(昭和6年)の甲子園の大会で、台湾の嘉義農林学校が出場して準優勝(史実)で終わりました…。このことと重なり、涙が止まりませんでした…。

映画「KANO」当時の嘉義農林学校出場のあらまし
「1944年(昭和19年)、錠者大尉ら大日本帝国陸軍の将校たちは、南方の戦場へ向かうために台湾の基隆駅から、台湾南部へ向かっていた。錠者は同行者に「嘉義に着いたら起こしてくれ」と言って、しばしの眠りにつく。

1931年(昭和6年)夏、甲子園球場で行われた第17回全国中等学校優勝野球大会の開会式に、錠者は札幌商業のエースとして参加していた。日本本土の学校だけでなく、大連や京城といった外地の学校のプラカードも見える。そこに交通事情から遅れて参加してきたのが、嘉義農林学校野球部の選手たちであった。

物語はさらに1929年に遡る。のんびりしたチームの「嘉農」野球部は当然連敗続きであったが、新任監督として迎えられた日本人の近藤兵太郎によるスパルタ式訓練により、部員たちの心には徐々に闘争心と甲子園出場への夢が芽生えていった。近藤は日本人のみを贔屓することなく、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、韋駄天の如く足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームを作り上げていく。また、かつて近藤が指導し、その指導に萎縮した松山商業と比べ、嘉農の選手たちが伸び伸びとプレーする姿は、近藤自身を成長させ、チームに対する愛情を深めていくのだった。

少年たちは日本語で教育を受け、日本語を話した。しかし街や仲間内では台湾語を話した。日本の統治下にある街には日本語と漢語があふれ、近代化整備が進みつつあり活気に満ちていた。一方で、農村は治水対策が不十分で、台風のたびに甚大な被害を受けていた。エースピッチャーの呉明捷(愛称は”アキラ”)は山陽堂書店の手伝いをしており、店員である静に憧れを寄せていた。しかし静はやがて台中の医師と結婚して嘉義を去る。アキラは爆竹を燃やして彼女を祝福しつつ寂しげに見送る。

当時、台湾代表として全国中等学校優勝野球大会へ出場するのは、決まって日本人のみで構成された台北一中や台北商業であった。当時は台湾全島で1校のみしか代表として甲子園に行くことが出来ず、その為に台湾大会で優勝する必要があった。「一度も勝ったことがない」チームの快進撃は止まらず、勢いに乗って全島優勝を果たす。台北から凱旋した選手たちは町中から大歓迎を受ける。しかし選手たちは、当時のアジア最大の水利事業であった嘉南大圳完成を知るや、パレードを中断して用水路へ向かう。水が満ちていることに感動すると、視察で用水路を下ってきた八田與一に会い、優勝を報告するとともに、八田から激励を受ける。

迎えた甲子園大会、下馬評では弱すぎて本土のチームには相手にならないのではと危惧されていた。甲子園球場に来た嘉農の選手たちは、「甲子園の土」の質の良さに感動する。初戦の対神奈川商工戦では、3-0の完封に抑え、一躍注目チームとなる。その様子をスタンドから見ていた錠者は、激しく動揺する。マスコミからの取材を受けた嘉農の選手たちには当初「日本人の子は手を挙げて」「日本語は理解できるのか」等と偏見の眼差しが向けられる。近藤は民族を問わず「同じ球児だ」と反論し、生徒たちを守る。

準々決勝の対札幌商業戦は、19 - 7で圧勝。試合中、札商ピッチャーの錠者は茫然自失となり、自分でも理解できないうちに自らマウンドを降りてしまう。

再び、1944年。錠者大尉は、嘉義駅での大砲の積載に時間がかかることを確認すると、嘉農の練習場へ向かった。あの時の彼らの強さの原点は、何だったのか。街には第二次世界大戦中の大日本帝国領として戦意を高揚させる垂れ幕があふれていたが、かつてのような活気はなかった。錠者は、荒れ果てた練習場のピッチャーマウンドに立つ。

準決勝の対小倉工業戦も、10-2で圧勝。魂の篭もった姿勢と素晴らしい強さは本土の野球ファンをも魅了し、応援するファンも増え決勝戦では超満員の観衆が甲子園に詰め掛ける。そして決勝の相手は名門中の名門、中京商業[6]。

地元の嘉義市内ではラジオ中継に熱中し狂喜乱舞する市民たち。静も出産したばかりの子供と共に嘉農を応援する。日本中だけでなく台湾でも大勢のファンが固唾を呑んで見守る中、その試合が始まる。しかし、アキラの指は限界を迎えていた。試合中に出血したアキラを近藤は降板させようとし、チームメイトとともに激しい意見が交わされる。結局、アキラは続投するがフォアボールを連発し、押し出しで得点が入ってしまう。そこに守備の選手たちが「俺たちが守るから、敵に打たせろ」と叫ぶ。ベンチの選手たちはアキラの応援歌を絶唱する。結局、中京商の吉田正男に完封に抑えられ、優勝はできなかった。しかし、嘉農の最後まで諦めない奮闘ぶりは日台それぞれの人々に強い印象を残し、スタンドにいた錠者は健闘を称えて「天下の嘉農」と絶叫する。その声はどんどんと大きくなり、やがて観客席全体から響き渡るのだった。

負けても泣くな、勝っても泣くなと指導された選手たちも、「僕たちはいつ泣いたら良いんですか?」とついに号泣する。選手たちは、準優勝盾と甲子園の土を手に、船で台湾への帰路についた。船上ではしゃぎながら野球をする選手たちの前に、やがて懐かしい台湾の地が近づいて来る。

エンドロールで、近藤や選手たちのその後が紹介される。ある者は日本の野球界で活躍し、ある者は台湾で野球の普及に貢献した。そして、ある者は第二次世界大戦(太平洋戦争)で戦死したのだった。」
posted by 弘心 at 15:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする