2022年10月10日

言志四録

あらためて、「言志四録」を読む。
「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老いて学べば、則ち死して朽ちず」
         (「言志四録」第六十条)
佐藤一斎の「言志四録」と言えば,「三学戒」の名言である。
とくに平成十三年五月、小泉首相が級育関連法案を衆議院で論議している中で述べてから、有名になった。
人間が学問し、精進し、更に学問を重ねれば、一生のそれぞれの季節で花が開くことを教えてくれる。学問の力をこれほど極端に表した言葉はない。
併し、「三学戒」の言葉を知っている人でも、その著作者である佐藤一斉を知っているかと問われたら、おそらく多くの人は、ノーと答えるだろう。
無理もない、かって小泉首相が、当時、外務大臣をしていた田中真紀子氏の、あまりなる言動を諫めるために、佐藤一斉の「重職心得箇条」をプレゼントしたことがあった。
このとき彼女は「こんな江戸時代のカビの生えた話など要らないわよ」と言い放ったそうだが、おそらく彼女は佐藤一斉のみならず「言志四録」など読んだこともなかったのであろう。
「言志四録」を一度でも読んでいれば、とてもじゃないが、こんなセリフは恥ずかしくて吐けないはずである。
何故ならば、この本は、志を立て、自分の運命を切り開き、世のため人のために尽くさんとするリーダーのためのバイブルと言われている本だからである。
子供たちが本を読まなくなったといわれてから久しいが、一国を代表する外務大臣がこのような無教養なのだから、子供たちを責めるわけにはいかない。それは子供が悪いわけではなく、現在の大人たちが本を読まなくなったということなのである。
今日の日本人の精神が、どこがひ弱になり、それとともに国家も社会元気が亡くなり、倫理・道徳は地に落ちたといわれる原因は、じつはこうしたバッグボーンを培って古典としての思想書が読み継がれなくなったからではないのか、と思っている。
正統なる日本人の精神文化が伝承されていないということは、
とりもなおさず、日本人が日本人であることを忘れてしまっているのである。
是非とも一度呼んでほしい一冊です。
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弘心館道場開設

  令和4年10月10日
心身統一合氣道会会員 各位
                           一般社団法人心身統一合氣道会
高槻教室他5教室
主宰 師範 奥 山 弘 邇

この度、弘心塾道場は、一般社団法人心身統一合氣道会弘心館道場と認可されました。此の事は一般社団法人心身統一合氣道会会長、理事並びに本部師範の皆様方のご尽力の賜物でありますこと心から御礼申し上げます。
本部から、藤平光一宗主の写真その他四点が送られて参りました。感謝申し上げます。
今後は、各教室はすべて「弘心館〇〇教室」として位置づけられます。
弘心館道場は、心身統一合氣道の修練道場として、深めたい、極めたいと熱望される会員の為の役割を担うものです。ご来館をお待ちしています。
つきましては、弘心館道場開設は、舞鶴教室(西舞鶴・東舞鶴)の開設二十周年とともに令和4年10月10日と致します。よろしくお願い申し上げます。
(現在までの経過)
2000年3月31日付で高槻市を理事で退職。在職中に防災計画に伴う交流都市について舞鶴市長と協議。市長の紹介で田舎暮らしとして舞鶴市字久田美という約100所帯の村に移住計画。茅葺きの築100の古民家を解体。
2002年、道場併設の自宅を建設。村の代表者に宣伝文書でもって挨拶。即、子供・大人を含めて六人が入会。修練開始。
「特定非営利活動法人都市問題総合研究所農村と都市交流センター弘心塾」並びに「弘心塾道場」として使用。西舞鶴・東舞鶴・高浜(福井県)・十字屋・台湾台北教室を開設、高槻教室(大阪府)は昭和49年に開設済み・宮津教室開設準備中、現在に至る。
道場の現況
 敷地  約1200坪  建物面積 30坪  内道場面積 12坪…22畳
 剣及び杖の修練可能天井高さ確保。
設備関係…エアコン・換気扇・LED照明・オンライン用TV・更衣室・トイレは自宅使用その他。       
                                以上
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2022年06月23日

ボランティア活動23年間の思いで

ボランティア活動23年間の思いでの一端を紹介
高槻市在職期間に特定非営利活動団体高槻ウェルエージング協会(ボランティア活動その他)を立ち上げて23年間にわたって活動をした経緯がある。その中で移動入浴車をもちいて、在宅における寝たきり老人等への入浴援助事業を8年間実施した。勿論ボランティア活動として無償である。
その実績を一冊の本に纏めて提言書として、市議会を動かして市民の権利である「請願書」を出した。各会派へ説明を重ねて全会派が賛同。民間業者に依頼すれば在宅での入浴一回3万円以上かかるものが行政(高槻市)の事業として実施されることになった。このようにすれば出来るという実績にともなう提言書が功を奏したのである。
そういった活動中に、高槻ロータリークラブから講演依頼と共に、文化基金を頂いた。以下はその挨拶文である。
 高槻ロータリークラブからの福祉文化基金贈呈表彰式における挨拶
1999・4/21 西武百貨店バンケットR
ただ今ご紹介いただきました、高槻ウエルエージング協会代表幹事の奥山でございます。
 この度は、皆様方の会から贈呈・表彰を賜り、厚く御礼申し上げます。
 私共の会は、昭和58年3月に6人の発起人で設立いたしました。16年前でありました。しかし、この会が誕生するまでには、胎動機関としてさらに10年ほどさかのぼります。当時、高槻市市街地再開発部の企画室長としておりましたおり、大阪医科大学衛生学公衆衛生学教室の吉田寿三郎教授との出会いが発端であります。国際老年学会の理事などを歴任され、老年学に対しての造詣が大変深く、当時既にわが国の世界でも類を見ない速さで到来する「超高齢化社会」を先進国であります北欧の国、スエーデン等との対比をされ、警告をされると共に、その処方箋を「日本老残」「デイケアーのすすめ」などの著書において、詳しく述べられたのであります。昭和48年、今から、26年前のことであります。
吉田先生の話は、アカデミックな内容で、私のような門外漢には理解をするには大変苦労いたしました。
先生は、大阪医科大学退官後、「日本ウエルエージング協会」会長として活躍されています。4年前国連からわが国最初のNGO(ノンガバメントオーガニゼーション:非政府団体)として、承認されております。
そして私共は地域に根ざした実践の場として、「高槻ウエルエージング協会」を設立いたしました。
この16年間、活動を進めて参りましたが、女性を中心とした30人あまりのボランティアが主力であります。その中でも、「在宅における寝たきり老人等への入浴援助事業」は、最初手作りの機器を用いての入浴援助、そして「愛は地球を救う委員会」から贈呈を受けた移動入浴車での本格的な入浴援助活動を8年間実施いたしました。
そして、人間の命と尊厳にかかわるものは行政がおこなうもの、という結論をもって市議会への請願を行い市の制度化となったのであります。
 このように私共は、ボランティアとは、自由意志の人であると共に、無償性・継続性・提言性に基づいた活動に裏付けられなければならないと考えるのであります。分かりやすく言えば世直しの為の草の根運動の主役でもあります。
 私共の会が発足してから、社会福祉に関して様々な施策や言葉が生まれて参りました。長寿社会大綱から始まって福祉六法の改正、ゴールドプラン、新ゴールドプラン、介護保険法の制定、成年後見法の制定等であります。
 経済面では、バブルの時代からバブル崩壊、低成長、ケインズ経済の終焉、新経済論としてのミルトンフリードマン、小さな政府。不況。リストラ、PFIなど、ボランティアに関しましても、阪神・淡路大震災以降ボランティア元年などと勝手に位置付けて、様々の官主導型のボランティアが生まれました。防災ポランティア、災害ポランティア、砂防ボランティアなど。大阪府がボランティア活用の為の指針とした「おおきにボランティア」など、ある意味では、ボランティア自身充分考えなければならない時期に来ている、と想うものであります。
 その意味で、昨年、設立15周年記念事業と致しまして、俳優加藤 剛主演の「草刈り十字軍」という映画と、モデルであり実践者の足立原實氏の講演会を実施いたしました。内容は、今から二十年前富山の山岳地帯を舞台に、営林省が人手不足から行う農薬散布に反対をして植林された数百ヘクタールの山の下草刈りを全国から集まった若者が刈り上げるというものであります。
決して、阪神・淡路大震災の年がボランティア元年ではないということ、「心に正しい動機付けがなされれば、どんな場合でも人自ら動く」、そういう心を今の若者も含めて,皆持っているんだ、ということを言いたかったのであります。
  わが国にもNPO法が制定され、非営利団体も生まれて参りました。アメリカでは、NPOに当たるCDC(コミュニティ・ベイスト・ディヴィロップメント・コーポレーション)が、まちづくりにまで参画をして、今日のアメリカでは、非常に重要な役割を果たすにいたっているのであります。話がそれてしまいました。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉があります。
私共は未熟であり、経験から学ぶことしかできませんが、今後、皆さん方のお力添えをいただきながら、頑張って参りたいと思っております。
  これを持ちまして、表彰を受けましたことへのお礼の挨拶とさせて頂きます。ありがとうございました。
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2022年06月02日

六老師の恩

今は亡き父からの相伝と老師
父、奥山喜太郎は1916年、岡山県苫田郡で生まれる。小椋喜太郎は大阪市北区池田町の奥山鉄工所、奥山家に養子として入る。奥山鉄工所を継ぐ、後に大北工業株式会社に発展、東京・名古屋・岡山に支店を置く。私が三歳の時から父は工員を相手に不思議な技を用いて修練をしていたのを幼心に記憶があります。これが後になってから解ったのですが、八光流柔術でした。父は、八光流とともに若柳流の名取でもありました。父は、後に自らの流派として「邇心流合氣武術」と名乗っています。私は父から解らないまま工員と一緒に約五年間学びました。一時途絶えた時期があります。これは父と母が離婚をして父は東京支店に滞在することが多くなったからです。私が東京での四年間の生活は邇心流を徹底的に教え込まれた時期でした。さらに、鉄工所の工員は肉体労働のため、體に大きく負担がかかり、足腰を痛めることが日常的でした。その時、父は、「手当」をしている姿がありました。これは人の體の表30裏14の経絡に沿って指圧をするもので、その時既に「氣」について理解していたようです。後に父は武術として「邇心流合氣武術」。八光併伝療術の皇法指圧から整体術として「氣之體壓療法」を創出致しました。八光流の始祖奥山龍峯氏は明治34年に生まれた方で五歳の時脳膜炎を発症。東洋医学を学び、政治活動とともに武術の修行。大東流合氣柔術武田惣角氏に師事。全国を回って多種多様な武術、武芸十八般を学び。医学については、大東盟舍の平田了山、東洋醫道会総裁南拝山について心理療法・東洋医学を学び、後の「皇法指圧」を生みだす。指圧師の浪越徳次郎氏と親交を深める。そして八光流はあらゆる戦技武道、凶器武道を否定し、ひたすら個々の身を護るための新しき日本人の心と人格を築き上げるために伝道されるものと位置づけて世界に伝道されて行きました。八光流の概要です。父が工員に施していた體壓療法は、普通の指圧とは全く異なっていました。勿論、施す相手に自らの「氣」を送り込むことを重要視しますが親指と掌を多く用います。特に親指での體壓には、三指法を用いるものです。三指法とは、@触れてA圧してB離す、のことです。当ては「親指」が主です。即ち三段階で行うことが重要でこの「離す」ことが特に重要なのです。そして上記44の経絡に沿って三指法を行います。一つの経絡への施術が終わりますと、掌での體壓を行い終わります。父は、八光流の併伝療術以外にも西式健康法、日本最初の健康体操である自彊術を学んでいました。その中から氣の體壓療法が生まれたものと思います。平成11年に亡くなりました。亡くなる前に、二つのものを私に託しました。一つは、「邇心流合氣武術」二つ目は、「氣之體壓療法」です。この二つの相伝を、私は絶やさないことを父に誓いました。その為に今、後継者を創ろうとしております。随分と前の話ですが、高槻市在職時に「ミューヘンの小学生」の著者子安美智子先生を高槻市へお招きして、講演会をさせて頂きました。確かその頃に早稲田大教授、高橋 巖先生の「ルドルフ・シュタイナー 教育講座講義」を受講していました。その中で「古代ギリシャの教育と日本の武道(心身統一合氣道)の関係とルーツは古代ギリシャにある…」述べられていました。又、上松裕二先生の著、「世界観からの建築…ルドルフ・シュタイナー論」は私の建築観に大きな変化を与えました。懐かしい想い出です。

昭和31年頃だったと思う、東京日本橋高島屋屋外ステージにおいて、合氣道創始者植芝盛平翁の合気道がはじめて公開された。父に連れられて見たのが合氣道という武道でした。
不思議な動きと技でした。150cmほどの小柄な老人が、驚くような速さで動き、触れただけで投げ飛ばしている…。その後には、このような場面は2度と見ることが出来ない。

この風景が私の武道へ誘った原点でもある。父の技とも違う…。後に合氣会へ入門。真の合氣武道を求めて「氣」を説かれる合氣道会最強の藤平光一先生に師事、中村天風師に心が身体を動かす原理を学び、一九会で山岡鉄舟の高弟日野鐵叟老師に人としての生き方を学ぶ、安岡正篤先生から東洋哲学の真髄を、特に陽明学・呻吟語・東洋倫理概論を学んだ。
更には、大学で原始仏教を学んだことは、物事の真理を見るうえに、一大事となったことは、身の震える思いを今も心に感ずるのである。
これら六人の師は、私の生き方を一大転換をさせた最高の恩師である。感謝以外になにものもない。
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2022年03月28日

話題二つ

話題二つ
〇 やっと春らしい日が…。山すその湧き水水路には、沢蟹が姿を現した…。少し動きがぎこちない。
木瓜が蕾を膨らましている…。侘助も…。滅多にに見ないスズメ…。
今年は上の段々畑に野菜などを…。鹿よけ柵を万全にして。

〇 戦前生まれ…戦争を体験、累々たる死者を見て涙も出ない自分と恐怖に襲われたこと…。大阪大空襲に逃げ回ったこと…。灯火管制、防空壕、警戒警報発令…。アメリカ空軍のB29から、雨の如く焼夷弾がまき散らされて…その光で深夜が真昼のように…。
疎開先の川で泳いでいた時、グラマンから機上射撃を受け、一名をとりとめたこと…。食糧難での買い出し…母は家族のために必至で頑張った…。
そんな戦争は嫌だ!!!。

どんな理由があっても、人が人を殺しあうことは、決してあってはならない。
ましてや国同士の武力争いは、あってはならない。
天はかならずや天罰を与える…。過去、世界の歴史を見ても、主たる人物はその罰を受けている。

私たちは、祈ろう…。
罪のない多くの子供や大人たちの為に…必ずや安らぎのある時期が訪れますように…。

権力をもって悪を働く者たちに鉄槌をくだしたまえ…。
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2022年02月25日

今日の言葉

今日の言葉

天業

「その人の尊い人間内容がにじみ出てくるとこれを徳業という。
それが更に徹底した人間の真理に結びつくようになると道業となる。
ついに自然と人間とを一貫して繁栄することを天業という。」

この言葉は、私の師、安岡正篤先生から学んだ。
齢八十数年にして、八合目にいる…。
しかし、頂きに立つのは、時間の問題と自覚している…。
「人間の真理」とは如何なることか…。さらに、「自然と人間とを一貫…」とは何か。私はまとめてそれは「四無量心」と解釈している。
私は高等学校・大学時代、熱烈な精神的要求から、悶々として西洋近代の社会科学から、宗教・哲学・文学などの本を貪り読んだ。ダンテ、ドストエフスキー、トルストイ、ニーチェ、ワイルド、マルクスなど耽読した。さらにセネカや、モンテインやパスカル,アミエルなども好んで読んだ。
しかしどうしても不満や焦燥の念に駆られ、内心の安立には程遠いものを感じた。やはり少年のころから親しんだ東洋哲学の書にかえった。
私心の的を得たのは、生涯の師、安岡正篤先生から学んだもの以外はない。
「天業」こそ先生が求められたものだと確信した。今、師の後を追っている…。
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2022年02月23日

植芝盛平翁に教わったこと。

九年前の表武……西舞鶴教室の映像…。(フェイスブック参照)

その後、9年間…心について (何のために生まれてきたのか、今、何のために生きているのか、心は何処にあるのか、心とは何なのか) 探求し続けた結果、その真理を得ることが出来た……。「すべて心で始まり、心で終わる」そして、「心が身体を動かす」。
合氣道の技、すべてが大きく変わった…。

植芝盛平翁から四つの言葉を学んだ。
〇「わしの合氣は、米糠二合持つ力があれば出来るんじゃ…」これは、力はいらん、ということであった。氣で行え…心を導きなさい、ということであった。そして、合氣の極意は、力を抜くこと「リラックス」である、と自覚した。

〇「合氣は愛である」…と言われた….これも難解でした。
しかし、これが「争わざるの理」ということであった。
更に、難解なのは

〇「我即宇宙」〇「我舞えば天地舞う」という言葉。
全てにおいて、目的達成には自らが主となれ。心と身体が調和のとれた自然体・統一体となれば、即ち、天地(宇宙)と一体と化しているのである…。その主たるものがひとたび動き出せば、天地(宇宙)舞うのである…。ということである。すなわち、敵がない。

植芝盛平翁は、合氣というものを神がかり的な表現で捉えられたが、実は、意味深い言葉で伝えられた。
翁先生は、「おくやまちゃん、もっと強く持ちなされ…、ほれ、もっと強く…」なぜか転がされた…。今から思えば意味の取り違えをしていた。
力ではなく、氣で強く…ということでだった。

最後に教わったのは、植芝盛平翁は「合氣は呼吸」…相手が息を吸う瞬間の時が相手の隙なんじゃ…おぼえときなはれ。」いかなる時も、先に動き入っておられた。
実はこれが極意……氣の次に大事だったのである。

翁を生涯の師として仕えられた高弟の藤平光一先生は、合氣会退会後、40年経って、合氣道は「力を抜くこと」が極意と述べられている…。
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2022年02月18日

高槻市総合センタ建設のおもいで

高槻市総合センター建設のおもいで

昭和から平成にかけて都市工学・土木工学を専門として、高槻市の多くのビッグプロジェクトに携わってきた。そして、ルドルフ・シュタイナーの人智学とともにゲーテアーヌムとの出会い、わが国に初めて「ルドルフ・シュタイナー」「シュタイナー学校」「シュタイナー教育」を紹介された子安美智子先生、高橋巌先生、上松祐二先生(世界観からの建築)との交流。子安美智子先生を高槻市へ招聘して講演会を開催したことは懐かしい。そのことが建築工学との関わりとなった。

私は高槻市総合センター建設準備室長として、高槻市で一番高い中高層建築物、「高槻市総合センター」の設計を任された。
当時大阪府下で初めての設計コンペによる作品となった。
京都大学川崎清教授を委員長とする「高槻市総合センター設計審査委員会(デザインは京都大学工学部建築学部教授川崎清先生、建築様式は京都大学工学部教授川上貢先生、構造は大阪大学教授鈴木計夫先生、建築計画は大阪大学教授紙野桂人先生、都市計画は大阪工業大学光崎教授…行政関係は高槻市市議会村田君江議長、高槻市奥本務助役)を立ち上げた。
審査委員会をつくるにあたって、各大学にお願いの為、訪問した。委員長にはJR京都駅の設計委員会の委員長をされた京都大学の川崎清教授にお願いをした。先生は意匠・デザインが専門分野。何度も大学にお伺いをして了承を得た。同じ大学の川崎貢教授は、建築様式が専門で高槻市に在住、私の高校の先輩であつた。大阪大学の紙野桂人教授は、建築計画が専門であるが福祉施設の設計を主に手掛けておられた。鈴木計夫教授を紹介された。光崎教授は高槻市の都市計画分野でお世話になっていたためお願いをした。どうしても女性の委員を思い当時高槻市議会委員長をされていた村田君江議員にお願いをした。女性の議長は、当時大阪府でも初めてで話題になった。大阪薬科大学卒で理路整然と話されて議長として素晴らしい方でした。後に叙勲を受けられた。
奥本助役は、元教育委員会の部長を歴任、後に高槻市長。
素晴らしいメンバーを選出させて頂いたと自負している。

一級建築士100名以上を有する等を条件とする五社を選び各社に250万円の設計料を提示してコンペを実施した。この手法は、大阪府下で初めてであった。
私が設計コンペにあたり、示した条件は、
○高槻市のラウンドマークとして評価できるデザインであること。
○名神高速道路、国鉄東海道本線、阪急電鉄、東海道新幹線からの展望に耐えられるデザインであること。
○屋上にヘリポートを有すること。の三点であった。

後日談であるが、何故ヘリポートなのか…、市議会の特別委員会で設計概要等の説明をした時、一議員から此の必要性についての質問が出された。税金の無駄遣い…とでも言いたかったのであろう。言うまでもなくヘリポートは、ヘリコプターの発着場である。火災の時、85mの高さには、はしご車はとどかない、人命第一と考えた場合必要としたからである。
「人の命は地球より重い」と常に標榜している政党の議員に対して、「ヘリポートの費用は約4千万…。此の事業費が安いか、高いか、無駄なのか、人の命をどのように考えておられるのか…。」逆に質問をした。「…………。」納得されたようだった…一件落着。
本来は質疑応答のルール違反なのである。市の吏員は、全く関係の無い質問が出されてもそれに応えなければならないのである。答弁のみで質問はしてはいけないことになっている。前代未聞としてお叱りを受けたが、柳に風と受け流した。
さて、設計コンペの中から最優秀作品の選出であるが、市民会館の一室に審査委員の各先生方を招聘して審査に及んだ
その様子は、まる一日かけて、各社の作品を一堂に展示して、一社ずつの個評と総評を頂いた。口頭で述べられた内容は、さすが大学の教授で素晴らしく要点を確実に表現された内容は、感嘆を覚えたのを今も思い出す。
結果、五社の中から安井設計事務所の作品が選ばれた。

注目すべきは、小さな建物だが構造形式は、東京都庁がスーパーストラクチャーと呼ばれる大架構方式であるので、高槻はメガストラクチャーで行きます、と安井設計の小野構造課長に半冗談交じりで話した。実は、現実になった。
簡単に言えば、両脇に一棟ずつ鉄骨で大架構を造りその架構に各階の床構造を吊り下げていく構造である。この構造は驚くべき効果を表わした。具体的には、通常はコンクリート打ちの床には、小さなクラックが生ずるのであるが
この構造にはそれが生じなかったのである。

設計内容は、市業務スペース、図書館、小ホール(300人)、無柱空間で吹き抜けの大エントランス(小コンサート、展示会など可能スペース)、軽食喫茶、15階にレストラン他…)、そしてヘリポートなどである。
図書館と小ホールの設計は大変勉強になった。小劇場は特に音響装置には氣をつかった。残響音にはクラシックコンサートにも耐えうる内容にした。これらは自慢の一つである。これで高槻市には大ホール・中ホールそして小ホールと揃うことになった。しかし、美空ひばりの公演に大ホールが使用されたが音響装置が悪い為、嫌われた経緯がある。
設備においては、特に空調は、建物内のキャパシティーMAXの人の出す熱量、季節毎の温度・湿度・外気温・日射量など勘案して設計をした。さらにエレベーターは各階に滞留する人員をPCで計測して、多い階に優先して止まるように…。しかし、エレベーターについては、この案は予算の関係で不発に終わったことは残念…。当然耐震設計には充分配慮している。ガラスを多く使ったデザインだがマグニチュード8でも割れない構造とした。中水道は採用出来なかったのは残念…。

スーパーゼネコンO社の技術力と相まって大変好評を得た…。総工事費は、建物、設備等で約250億。建物は今も健在である。
(余談であるが、この建物の地下一階リハーサル室を、「心身統一合氣道高槻教室」として使用させていただいている)
つづく
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2022年02月05日

我が青春時代

我が青春時代

社会に出て、地方公務員として38年を過ごした。在職中での人との出会いは4,721人。「人との出会いは、決して偶然ではなく必然である」と学んだことが自分を大きく変えた。
都市工学を学び、街づくり、道路・橋梁・衛生工学と関連施設、都市公園、都市緑地、市街地再開発事業、鉄道工学と鉄道の連続交差事業、地域防災計画…など多くのプロジェクトを基礎調査・基本計画・実施計画・施工まで携わった。

当時人口十万人の高槻市は、市歌にも唄われているように、
市歌(昭和22年10月15日制定 芳賀 武 作詞 西川得了 作曲)
東真澄める淀の水 西ははるかに妙見の
眺めすがしき北摂に 誇る緑の健康地
沃野の幸の満ところ おお田園の高槻市
おお田園の高槻市
(西川得了先生は、私の一中時代の音楽を習った恩師である。今になれば、田園都市…というのは、はばかれる思いですが…)
当時は、おお田園の高槻市…田んぼばかりで、木造平屋建ての国鉄高槻駅から遥か淀川の向こうの枚方市まで一望できた。

街の骨格作りとして、環状線として市道野田下田辺線を新設。そして市道番田大塚線、西の川原塚脇線、二中西線。都市計画道路阪急北側線、都市公園…、など多くを手掛けた。
今から思えば、エべネーザハワードの田園都市論に沿った街づくりの根幹を総合計画の基本構想とすればよかったのに…と後悔している。

昭和40年代に入って、大きく変貌する。高槻市は、京都大阪の中間に位置し、それぞれ15分で行ける…。その為に人口急増都市として全国的にも有名となった。おおよそ10年で人口が倍になったのである。人口増の為、宅地造成があらゆるところで進み、まさに宅造ラッシュであった。
一つの例として、児童の数が増え、学校の新設の為の費用は市の総予算額の60%を占めるに至った。
その為、教師も全国行脚をして確保。更には、大阪府の教育委員会が不採用とした人員までも確保するに至った。これが後に、教育上の大きな問題を抱えることとなる。
同時に、この為、高槻市のインフラ整備は、大きく後退した。
又、民間のマンション計画が乱立して、日照問題、環境問題など地域住民との係争問題が起こった。
建築主から建築基準法に基づく手続きが市になされた場合、市は一定の条件が成立すれば、二週間以内に許可をせざるを得ない状況が生じた。
当時はまだ環境アセスメントなどの言葉さえなかった時代。市は苦慮することになった。
そこで、高槻市は将来、開発される地域を定めて、先にこのような事業計画であれば許可する、というマスタープランを作成することにしたのである。
それが功を奏して、開発業者と地域住民との係争問題は少なくなった。

しかし、宅地造成事業法に基づく宅地開発は、一定の割合で道路・児童公園などを確保しなければならない仕組みになっている。実際出来上がった児童公園などは、開発区域の一番隅っこに作られたり、断崖絶壁の上に、あるいは長い階段の上に造られたりしている場合が多々ある。そこには、将来住む子供や高齢者のことは、二の次とされたのである。便利なところは、宅地して…という利潤追求が優先した。

私が公園緑地課長をしていた時、宅造法関係の計画には、市が先に造成計画を作り、さらに事業の損益分岐点をはじき出して、造成主に示し、適切な公的敷地を提出して頂いた。そのことにより住民の使い勝手のよい公園などがうまれたのである。

行政は、難に為に存在するのか、地方自治法の理念にあるように、「地域住民の生命と財産を守るため…」にある。
このことを自らの中心において業務を行えば間違いはない。
                            つづく
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2021年12月04日

来年は大変な雪積が…。

今から11,年前に書いた記事が目に入った…懐かしい…。

(2009年01月15日)

修練始め
窓を開ければ、雪だった…。
それも30p以上の積雪である。
まだ降り続いている…。

この調子だと、車での移動は不可能かもしれない。
とりあえず、昼までかかって除雪にかかる。

時折、村の唯一の連絡道に除雪車の音がするくらいである。
人通りもない…。
あたり一面白色の中に静寂が漂う…。

2時間かかって、20mほど除雪した。
何年か前にもあった。その時は、二日かかって除雪して
やっと脱出出来た。
このように道路・屋根の除雪を日課のようにして、冬季を
過ごすことを考えた時、都会の喧噪に慣れた人間には、
到底理解できないであろう。

しかし、現実は限界集落などと言われて、村民の50%が65歳
以上が占めると、自らの生活行動にも支障をきたす。
次第に除雪作業も出来なくなる…。

このような苦しみは、実際にその場に住んでみなければ
その本当の辛さは分からない。

以前にも書いたが昭和40年代、新都市計画法・都市再開発法が
誕生した。
そして、全国の駅前に「市街地再開発事業」が計画された。

高槻市も都市再開発法第1号の事業計画を当時国鉄高槻駅南地区
市街地再開発事業として策定された。

当時、市の都市再開発部企画室長として、国や府と協議を
幾度となく重ねたことは言うまでもない。
その中で、田中角栄氏との会談は忘れることができない。

公共事業の話題になった時、彼は「…一生雪国に住む人間の
苦しみは、到底お分かりではない。道路や隧道の必要性は
あなた方が再開発事業を望まれる以上に切実なのです。
一本の道路・橋への想いはその地域に住む人の先祖代々の
血の滲む想いが積み重なっているのです…」と。
彼の眼が異様に鋭くなったのを昨日のように思いだされる。

事業着工に必要な60億の財源(起債)、キーテナントの
誘致など元御蔵省の銀行局長、町村自治大臣、総理大臣の
子息など…この事業は多くの方の力をお借りして、完成を見た。

当時の人たちには、何か今の官僚、大臣とは異なるものを
持たれていたように思う。光があった。

それは管子が説く、「四維」が働いていた。
即ち、自分造り、人作り、国造りの全ての根本となるもの
礼・義・廉・恥である。

功利に走り、便利さに氣を奪われて、人間というものの
あり方、生き方を見失ってしまっている現代と言っても
過言ではない。

今年も一隅を照らして生きたい。
雪が少し小止みになった…。
天地に向かって、無現の氣を発しよう。


posted by 弘心 at 22:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする