2022年02月25日

今日の言葉

今日の言葉

天業

「その人の尊い人間内容がにじみ出てくるとこれを徳業という。
それが更に徹底した人間の真理に結びつくようになると道業となる。
ついに自然と人間とを一貫して繁栄することを天業という。」

この言葉は、私の師、安岡正篤先生から学んだ。
齢八十数年にして、八合目にいる…。
しかし、頂きに立つのは、時間の問題と自覚している…。
「人間の真理」とは如何なることか…。さらに、「自然と人間とを一貫…」とは何か。私はまとめてそれは「四無量心」と解釈している。
私は高等学校・大学時代、熱烈な精神的要求から、悶々として西洋近代の社会科学から、宗教・哲学・文学などの本を貪り読んだ。ダンテ、ドストエフスキー、トルストイ、ニーチェ、ワイルド、マルクスなど耽読した。さらにセネカや、モンテインやパスカル,アミエルなども好んで読んだ。
しかしどうしても不満や焦燥の念に駆られ、内心の安立には程遠いものを感じた。やはり少年のころから親しんだ東洋哲学の書にかえった。
私心の的を得たのは、生涯の師、安岡正篤先生から学んだもの以外はない。
「天業」こそ先生が求められたものだと確信した。今、師の後を追っている…。
コメント0件


posted by 弘心 at 13:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年02月23日

植芝盛平翁に教わったこと。

九年前の表武……西舞鶴教室の映像…。(フェイスブック参照)

その後、9年間…心について (何のために生まれてきたのか、今、何のために生きているのか、心は何処にあるのか、心とは何なのか) 探求し続けた結果、その真理を得ることが出来た……。「すべて心で始まり、心で終わる」そして、「心が身体を動かす」。
合氣道の技、すべてが大きく変わった…。

植芝盛平翁から四つの言葉を学んだ。
〇「わしの合氣は、米糠二合持つ力があれば出来るんじゃ…」これは、力はいらん、ということであった。氣で行え…心を導きなさい、ということであった。そして、合氣の極意は、力を抜くこと「リラックス」である、と自覚した。

〇「合氣は愛である」…と言われた….これも難解でした。
しかし、これが「争わざるの理」ということであった。
更に、難解なのは

〇「我即宇宙」〇「我舞えば天地舞う」という言葉。
全てにおいて、目的達成には自らが主となれ。心と身体が調和のとれた自然体・統一体となれば、即ち、天地(宇宙)と一体と化しているのである…。その主たるものがひとたび動き出せば、天地(宇宙)舞うのである…。ということである。すなわち、敵がない。

植芝盛平翁は、合氣というものを神がかり的な表現で捉えられたが、実は、意味深い言葉で伝えられた。
翁先生は、「おくやまちゃん、もっと強く持ちなされ…、ほれ、もっと強く…」なぜか転がされた…。今から思えば意味の取り違えをしていた。
力ではなく、氣で強く…ということでだった。

最後に教わったのは、植芝盛平翁は「合氣は呼吸」…相手が息を吸う瞬間の時が相手の隙なんじゃ…おぼえときなはれ。」いかなる時も、先に動き入っておられた。
実はこれが極意……氣の次に大事だったのである。

翁を生涯の師として仕えられた高弟の藤平光一先生は、合氣会退会後、40年経って、合氣道は「力を抜くこと」が極意と述べられている…。
posted by 弘心 at 17:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年02月18日

高槻市総合センタ建設のおもいで

高槻市総合センター建設のおもいで

昭和から平成にかけて都市工学・土木工学を専門として、高槻市の多くのビッグプロジェクトに携わってきた。そして、ルドルフ・シュタイナーの人智学とともにゲーテアーヌムとの出会い、わが国に初めて「ルドルフ・シュタイナー」「シュタイナー学校」「シュタイナー教育」を紹介された子安美智子先生、高橋巌先生、上松祐二先生(世界観からの建築)との交流。子安美智子先生を高槻市へ招聘して講演会を開催したことは懐かしい。そのことが建築工学との関わりとなった。

私は高槻市総合センター建設準備室長として、高槻市で一番高い中高層建築物、「高槻市総合センター」の設計を任された。
当時大阪府下で初めての設計コンペによる作品となった。
京都大学川崎清教授を委員長とする「高槻市総合センター設計審査委員会(デザインは京都大学工学部建築学部教授川崎清先生、建築様式は京都大学工学部教授川上貢先生、構造は大阪大学教授鈴木計夫先生、建築計画は大阪大学教授紙野桂人先生、都市計画は大阪工業大学光崎教授…行政関係は高槻市市議会村田君江議長、高槻市奥本務助役)を立ち上げた。
審査委員会をつくるにあたって、各大学にお願いの為、訪問した。委員長にはJR京都駅の設計委員会の委員長をされた京都大学の川崎清教授にお願いをした。先生は意匠・デザインが専門分野。何度も大学にお伺いをして了承を得た。同じ大学の川崎貢教授は、建築様式が専門で高槻市に在住、私の高校の先輩であつた。大阪大学の紙野桂人教授は、建築計画が専門であるが福祉施設の設計を主に手掛けておられた。鈴木計夫教授を紹介された。光崎教授は高槻市の都市計画分野でお世話になっていたためお願いをした。どうしても女性の委員を思い当時高槻市議会委員長をされていた村田君江議員にお願いをした。女性の議長は、当時大阪府でも初めてで話題になった。大阪薬科大学卒で理路整然と話されて議長として素晴らしい方でした。後に叙勲を受けられた。
奥本助役は、元教育委員会の部長を歴任、後に高槻市長。
素晴らしいメンバーを選出させて頂いたと自負している。

一級建築士100名以上を有する等を条件とする五社を選び各社に250万円の設計料を提示してコンペを実施した。この手法は、大阪府下で初めてであった。
私が設計コンペにあたり、示した条件は、
○高槻市のラウンドマークとして評価できるデザインであること。
○名神高速道路、国鉄東海道本線、阪急電鉄、東海道新幹線からの展望に耐えられるデザインであること。
○屋上にヘリポートを有すること。の三点であった。

後日談であるが、何故ヘリポートなのか…、市議会の特別委員会で設計概要等の説明をした時、一議員から此の必要性についての質問が出された。税金の無駄遣い…とでも言いたかったのであろう。言うまでもなくヘリポートは、ヘリコプターの発着場である。火災の時、85mの高さには、はしご車はとどかない、人命第一と考えた場合必要としたからである。
「人の命は地球より重い」と常に標榜している政党の議員に対して、「ヘリポートの費用は約4千万…。此の事業費が安いか、高いか、無駄なのか、人の命をどのように考えておられるのか…。」逆に質問をした。「…………。」納得されたようだった…一件落着。
本来は質疑応答のルール違反なのである。市の吏員は、全く関係の無い質問が出されてもそれに応えなければならないのである。答弁のみで質問はしてはいけないことになっている。前代未聞としてお叱りを受けたが、柳に風と受け流した。
さて、設計コンペの中から最優秀作品の選出であるが、市民会館の一室に審査委員の各先生方を招聘して審査に及んだ
その様子は、まる一日かけて、各社の作品を一堂に展示して、一社ずつの個評と総評を頂いた。口頭で述べられた内容は、さすが大学の教授で素晴らしく要点を確実に表現された内容は、感嘆を覚えたのを今も思い出す。
結果、五社の中から安井設計事務所の作品が選ばれた。

注目すべきは、小さな建物だが構造形式は、東京都庁がスーパーストラクチャーと呼ばれる大架構方式であるので、高槻はメガストラクチャーで行きます、と安井設計の小野構造課長に半冗談交じりで話した。実は、現実になった。
簡単に言えば、両脇に一棟ずつ鉄骨で大架構を造りその架構に各階の床構造を吊り下げていく構造である。この構造は驚くべき効果を表わした。具体的には、通常はコンクリート打ちの床には、小さなクラックが生ずるのであるが
この構造にはそれが生じなかったのである。

設計内容は、市業務スペース、図書館、小ホール(300人)、無柱空間で吹き抜けの大エントランス(小コンサート、展示会など可能スペース)、軽食喫茶、15階にレストラン他…)、そしてヘリポートなどである。
図書館と小ホールの設計は大変勉強になった。小劇場は特に音響装置には氣をつかった。残響音にはクラシックコンサートにも耐えうる内容にした。これらは自慢の一つである。これで高槻市には大ホール・中ホールそして小ホールと揃うことになった。しかし、美空ひばりの公演に大ホールが使用されたが音響装置が悪い為、嫌われた経緯がある。
設備においては、特に空調は、建物内のキャパシティーMAXの人の出す熱量、季節毎の温度・湿度・外気温・日射量など勘案して設計をした。さらにエレベーターは各階に滞留する人員をPCで計測して、多い階に優先して止まるように…。しかし、エレベーターについては、この案は予算の関係で不発に終わったことは残念…。当然耐震設計には充分配慮している。ガラスを多く使ったデザインだがマグニチュード8でも割れない構造とした。中水道は採用出来なかったのは残念…。

スーパーゼネコンO社の技術力と相まって大変好評を得た…。総工事費は、建物、設備等で約250億。建物は今も健在である。
(余談であるが、この建物の地下一階リハーサル室を、「心身統一合氣道高槻教室」として使用させていただいている)
つづく
posted by 弘心 at 15:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年02月05日

我が青春時代

我が青春時代

社会に出て、地方公務員として38年を過ごした。在職中での人との出会いは4,721人。「人との出会いは、決して偶然ではなく必然である」と学んだことが自分を大きく変えた。
都市工学を学び、街づくり、道路・橋梁・衛生工学と関連施設、都市公園、都市緑地、市街地再開発事業、鉄道工学と鉄道の連続交差事業、地域防災計画…など多くのプロジェクトを基礎調査・基本計画・実施計画・施工まで携わった。

当時人口十万人の高槻市は、市歌にも唄われているように、
市歌(昭和22年10月15日制定 芳賀 武 作詞 西川得了 作曲)
東真澄める淀の水 西ははるかに妙見の
眺めすがしき北摂に 誇る緑の健康地
沃野の幸の満ところ おお田園の高槻市
おお田園の高槻市
(西川得了先生は、私の一中時代の音楽を習った恩師である。今になれば、田園都市…というのは、はばかれる思いですが…)
当時は、おお田園の高槻市…田んぼばかりで、木造平屋建ての国鉄高槻駅から遥か淀川の向こうの枚方市まで一望できた。

街の骨格作りとして、環状線として市道野田下田辺線を新設。そして市道番田大塚線、西の川原塚脇線、二中西線。都市計画道路阪急北側線、都市公園…、など多くを手掛けた。
今から思えば、エべネーザハワードの田園都市論に沿った街づくりの根幹を総合計画の基本構想とすればよかったのに…と後悔している。

昭和40年代に入って、大きく変貌する。高槻市は、京都大阪の中間に位置し、それぞれ15分で行ける…。その為に人口急増都市として全国的にも有名となった。おおよそ10年で人口が倍になったのである。人口増の為、宅地造成があらゆるところで進み、まさに宅造ラッシュであった。
一つの例として、児童の数が増え、学校の新設の為の費用は市の総予算額の60%を占めるに至った。
その為、教師も全国行脚をして確保。更には、大阪府の教育委員会が不採用とした人員までも確保するに至った。これが後に、教育上の大きな問題を抱えることとなる。
同時に、この為、高槻市のインフラ整備は、大きく後退した。
又、民間のマンション計画が乱立して、日照問題、環境問題など地域住民との係争問題が起こった。
建築主から建築基準法に基づく手続きが市になされた場合、市は一定の条件が成立すれば、二週間以内に許可をせざるを得ない状況が生じた。
当時はまだ環境アセスメントなどの言葉さえなかった時代。市は苦慮することになった。
そこで、高槻市は将来、開発される地域を定めて、先にこのような事業計画であれば許可する、というマスタープランを作成することにしたのである。
それが功を奏して、開発業者と地域住民との係争問題は少なくなった。

しかし、宅地造成事業法に基づく宅地開発は、一定の割合で道路・児童公園などを確保しなければならない仕組みになっている。実際出来上がった児童公園などは、開発区域の一番隅っこに作られたり、断崖絶壁の上に、あるいは長い階段の上に造られたりしている場合が多々ある。そこには、将来住む子供や高齢者のことは、二の次とされたのである。便利なところは、宅地して…という利潤追求が優先した。

私が公園緑地課長をしていた時、宅造法関係の計画には、市が先に造成計画を作り、さらに事業の損益分岐点をはじき出して、造成主に示し、適切な公的敷地を提出して頂いた。そのことにより住民の使い勝手のよい公園などがうまれたのである。

行政は、難に為に存在するのか、地方自治法の理念にあるように、「地域住民の生命と財産を守るため…」にある。
このことを自らの中心において業務を行えば間違いはない。
                            つづく
posted by 弘心 at 13:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月04日

来年は大変な雪積が…。

今から11,年前に書いた記事が目に入った…懐かしい…。

(2009年01月15日)

修練始め
窓を開ければ、雪だった…。
それも30p以上の積雪である。
まだ降り続いている…。

この調子だと、車での移動は不可能かもしれない。
とりあえず、昼までかかって除雪にかかる。

時折、村の唯一の連絡道に除雪車の音がするくらいである。
人通りもない…。
あたり一面白色の中に静寂が漂う…。

2時間かかって、20mほど除雪した。
何年か前にもあった。その時は、二日かかって除雪して
やっと脱出出来た。
このように道路・屋根の除雪を日課のようにして、冬季を
過ごすことを考えた時、都会の喧噪に慣れた人間には、
到底理解できないであろう。

しかし、現実は限界集落などと言われて、村民の50%が65歳
以上が占めると、自らの生活行動にも支障をきたす。
次第に除雪作業も出来なくなる…。

このような苦しみは、実際にその場に住んでみなければ
その本当の辛さは分からない。

以前にも書いたが昭和40年代、新都市計画法・都市再開発法が
誕生した。
そして、全国の駅前に「市街地再開発事業」が計画された。

高槻市も都市再開発法第1号の事業計画を当時国鉄高槻駅南地区
市街地再開発事業として策定された。

当時、市の都市再開発部企画室長として、国や府と協議を
幾度となく重ねたことは言うまでもない。
その中で、田中角栄氏との会談は忘れることができない。

公共事業の話題になった時、彼は「…一生雪国に住む人間の
苦しみは、到底お分かりではない。道路や隧道の必要性は
あなた方が再開発事業を望まれる以上に切実なのです。
一本の道路・橋への想いはその地域に住む人の先祖代々の
血の滲む想いが積み重なっているのです…」と。
彼の眼が異様に鋭くなったのを昨日のように思いだされる。

事業着工に必要な60億の財源(起債)、キーテナントの
誘致など元御蔵省の銀行局長、町村自治大臣、総理大臣の
子息など…この事業は多くの方の力をお借りして、完成を見た。

当時の人たちには、何か今の官僚、大臣とは異なるものを
持たれていたように思う。光があった。

それは管子が説く、「四維」が働いていた。
即ち、自分造り、人作り、国造りの全ての根本となるもの
礼・義・廉・恥である。

功利に走り、便利さに氣を奪われて、人間というものの
あり方、生き方を見失ってしまっている現代と言っても
過言ではない。

今年も一隅を照らして生きたい。
雪が少し小止みになった…。
天地に向かって、無現の氣を発しよう。


posted by 弘心 at 22:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月19日

我が人生に悔いなし…。


1940年大阪市北区池田町天神橋五丁目)八番地に生まれる。
稼業は奧山鉄工所(大北工業株式会社の前身)。軍事景気で岡山支店、名古屋支店、東京支店と拡大。若柳流の名取でもあった父は、昼休みや就労後に若い職人を相手に、武術の稽古をしていたのを覚えている。私が五歳のころ受け身などを教わった記憶がある。それは邇心流合氣武術というものでした。
大阪大空襲がある、とのことで菩提寺のある高槻へ疎開。大八車に荷物を乗せて…歩いて高槻へ。空襲後に家を見に戻った時、長柄大橋の下に、死者が累々とある中を、歩いて行ったのを強烈な印象として残っている。
疎開先の田舎暮らしでの母の苦労は、言葉で言い表すこともできないものでした。戦中,戦後を生きてきた…
昭和31年頃だったと思う父から東京へ来なさい、合氣道なるものが東京日本橋高島屋で初めて公開されるから…とのことで見たのが最初でした。
強烈な印象でした。小柄な老人があんなに早く動き、投げることが出来るのか…が第一印象。合氣道創始者植芝盛平翁を見た最初でした。
東京支店での父との生活と学業が終わり、母のもとへ…。
昭和38年高槻市へ奉職。都市工学専門家として、都市計画、まちづくりに専念。国鉄南地区市街地再開発事業、阪急電鉄京都線連続立体交差事業、総合センター建設、前島焼却場建設、都市緑地、地域防災計画…など、主にビッグプロジェクトを担当…。その間、4、721人の方との出会い…多くのことを学ばせていただいた。特に1995年1月17日の阪神淡路大震災は、市長特命の防災担当理事として、その後の私の街づくりに大きな影響を与えました。
昭和46年3月26日…私のデスクに一本の電話、「和樹が…事故で死んだ…」

土筆とりに隣の子供と行っての帰り道…東海道本線の踏切事故でした。マリア・インマクラダ幼稚園を卒業して、小学校入学十日前のことでした。
それからの数年間は、私は肉体的にも精神的にもボロボロになっていきました。
 自らを取り戻すため、合氣道にのめり込んでいきました。
昭和46年「合氣会」で植芝盛平翁、藤平光一師範部長との出会い。合氣道を本格的に始動。49年五月に初段允可。52年三段允可。52年6月25日に(財)氣の研究会へ移籍。
 心身統一合氣道創始者藤平光一宗主のもとで修行。
合氣道の指導は、高槻教室から始まりました。事故で長男を亡くしたことがきっかけとなった。1974年(昭和49年)に始まり実に47年になる。
 私は三歳の時から、父奥山喜峰に邇心流合氣武術を学んでいた。そして植芝盛平翁(合気道之創始者)に合気道、藤平光一宗主に氣・統一道・心身統一合氣道、中村天風老師に心が身体を動かす原理、日野鐵叟老師に人としての生き方、安岡正篤老師に陽明学・知行合一などを学んだ。
 生涯の師である藤平光一宗主の指示で日野鐵叟老師のもとで修業をした時、日野鐵叟老師の言葉が、私の生き方を180度変えた。
それは麦八分米二分の麦飯をいただいていた時、「此の麦があなた方の前に出てくるまで如何ほどの人の手を煩わせたのか…お分かりかな。自分一人の力で生きているなどと言えたものではない…生かされていることを自覚しなさい」「そして生かされている恩を他の人にかえしなさい」その一言でした。
 高槻教室は当時子供クラスで120人、二組にわかれて二部制での指導。それでも60人…大変な思いをした(無償で指導)。高槻警察署の道場を借りていた。ある時,警察署長から「トイレットペーパーに小便をかけている子供がいる。注意してほしい」との苦情が出た。
幼稚園児が三割を占めていた。高槻では有名な私立幼稚園でシスターの手におえない園児はみんな「奧山先生のところへ行きなさい」と言われて来ていました。その中の一人Aさんでした。母親と一緒に入会の手続きに来られた時、二人ともブランド物の服…きちっとした座り方、テレビは見ない、何時も本を読んでいる…などと模範的親子でした。その子供が何故…。母親は泣かれました。
「一昨日の午後三時ごろAさん何処におられましたか?」「はい、○○さんの家に…」
母親は何時いかなる時も、子供の行動を把握していたのである。自分の手の平からは出さなかった。
そして、Aさんは、どの様にすれば、どう答えれば親は喜ぶか…を。
しかし、道場へきて、様々な子供と接するうちに、子供本来のいたずら行動をとっていたのです。
子供は七年ごとに変わる。それは行動・感情・思考の順に…第一反抗期、第二反抗期など話をさせて頂きました。それからは、Aさんの目に輝きが戻ったことは言うまでもありません。
 その後、大阪市北区天神橋五丁目八番地の実家で一階の道場(弘心塾道場)で指導。

2000年高槻市を定年退職、みずほ信託銀行を経て2004年、総てを捨てて、高槻市から舞鶴市へ…。一からの出直しと言ってよいほどの状態でした。
剣を鍬に持ち替えて畑を耕していました。
総数130戸ほどの小さな小集落…、その村の区長(自治会長)宛てに、合氣道教室を開催する旨の案内書を持って挨拶に伺った。
古民家を買い解体して新しい自宅を建て併設した道場(弘心塾道場)で村の子供六人が来てくれました…。
そして更に発展させるため、市が管理する仮設の柔道場を借用して始めたのが後の東舞鶴教室なのです。
大人の会員は一人で二人の修練は長く続きました…。
2007年の2月の雪の降る日に、男性と女性来られました。
台湾からの来客、台湾合氣道五段の呂承榮老師。「氣」のことを教えてほしい、とのことで来られたのでした。
それから台湾との交流が始まりました。
 台湾の80歳以上の方は日本語を喋られます。
台湾は日本が明治27年に清から譲渡されました。
児玉源太郎を総統として、後藤新平、新渡戸稲造らと共に日本と同等の教育を行ってきたのです。
 その意味で今の日本人が忘れられている古き良き時代の日本精神を培っておられることが分かりました。
 私は台湾の若い人たちに古き良き日本精神について、心身統一道・心身統一合氣道を通じて伝えようとしたのです。それが私を台湾へ駆り立てる原点なのです。
 そして東呉大學、文化大學、台湾大學、台湾教育大學など更には一般道場との交流。年二回の訪台での指導と、月一回のスカイプでの指導。14年が経ちました。
 二段一名、初段二名、一級一名、四級一名、五級一名。コロナ禍がなければ皆さんの段位もあがって台北教室が充実できたのですが…。コロナ禍がおさまれば、台湾では、台南市、高雄市、花蓮市に教室を。国内では、宮津教室、与謝野教室、豊岡教室を開設する計画です。
                                                以上





posted by 弘心 at 23:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月13日

今日の言葉


「心の落ち着きと真理を理解する力をもつ」

真理を理解する力がない人は心に落ち着きがない。
心に落ち着きがない人は真理を理解できない。
 真理を理解する力がなければ、様々な欲や感情に惑わされてしまい、心は荒れる海のようにざわめき、何時も不安な気持ちがつきまといます。それでは落ち着いて物事を判断することは出来ないでしょう。
 又、感情やよくに従い、心を落ち着かせることがなければ、真理を理解する力を得ることはできません
心の落ち着きと、真理を理解する力
兼ね備えてこそ、心の平安を得られるのです。

その為には、次の四つの問いに、答えなければなりません。
@ あなたは、何のために生まれてきたのですか。
A 今、あなたは何のためにいきているのですか。
B あなたの心は、何処にあるのですか。
C 心とは何なのですか。

即ち、「すべてはに始まり、で終わる」という真理を自らのものとしなければなりません。
「人生のすべては自分の心が映し出す」からであります。
posted by 弘心 at 22:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月28日

昇段された皆さんへの伝言

おめでとうございます。
さて、皆さんに伝えなければならないことを書き記します。
今回の昇段審査での皆さんの昇段は一人で成されたものではありません。多くの方の力添えと、心遣いを受けての結果です。そしてその恩を返していくという心がなければなりません。
 
 心身統一合氣道の基本となるものは、「争わざるの理」。目的は「人格を造る」ことにあります。このことを理解してください。そして、目的に向かって実践してください。

 一般社団法人心身統一合氣道会では、会員規則、指導者規則など細かくその責務について定められています。
一度、読んで頂き理解してください。会則、規約を不履行として、退会や除名処分になった方が少なからず存在します。
昇段したからといって、言葉遣い、非常識な行動、指導者に対する不遜な言動などは、本会が一番忌み嫌うことです。
有段者は、心してください。
 
 将来、会の指導員として、活躍して頂くことを望みます、しかし、その為には、日常の生活の中に、心身統一合氣道の真理を活かすと共に、自らのものとしなければなりません。
その意味では、総ての方が指導員的立場になるとは限りません。統一道・合氣道の技を自らのものとしているか、人を導くことが出来るか、人格の涵養がなされているか、などについて厳しく精査いたします。

 他の武道について少しお話いたします。高段者がその上の段を允可されることになりました。しかし、高段者は、辞退されました。その理由は「允可をうけることにより、今以上に日常におけるすべての言動が白日のもとで見られていくことに、自信が持てません」というものでした。
この方が允可を承諾されます時、素晴らしい人格者となっておられることと推測致します。

このように真の人間としての真理に目覚めることこそが一大事であります。
今後の皆さんに期待申し上げます。


posted by 弘心 at 21:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月02日

今から60年ほど前の話 二題


フランク永井・「霧子のタンゴ」

大阪で初めて歌謡大会がありました。審査委員長は当時一大人気の林伊佐緒氏.確か中央公会堂で参加者は50人。一日かかりでした。
予選本選と同じ曲を歌えばよかったのに、曲を変えました。
結果二位に終わりました。若かりし頃の懐かしい想い出です。
その後は、牛乳石鹸歌謡学校のメンバーとして、週一回電通スタジオへ行っていました…。又、コマーシャルタレント養成に参加…、当時フジテレビのロイジェームスと共演してほしい、と言われましたが…断り。その後、エコー歌謡学院で松山恵子氏と一緒でした。彼女とは京都のベラミーでお会いしたのが最後でした…。何年も前に亡くなりましたが…。
私は今も歌は続けています。一時は、プロになるつもりでした…しかし、父親にいわれて東京へ…懐かしいですね…。

神戸一郎・「十代の恋よ さようなら」

大阪南の国際会館(映画館)で映画の前に公開録音がありました。市村俊行の司会。素人物まねコンクールにこの曲で出ました。一位入賞。
公開録音の前に、まだ駆け出しの藤田まこと氏が淡谷のり子の物まねで出ておられました…。毎日放送の人が「まこっちゃんておもろい男やで!」と言われていました…。しばらくして、「てなもんや三度笠」後年には、「はぐれ刑事純情派」「必殺仕事人」など人気がでました。彼は歌手のフランク永井氏とも昵懇で彼の歌も歌っています。又、彼の歌「十三のねぇちゃん」は当時、十三のクラブなどで大ヒットしました…。
神戸一郎氏とは大阪北のクラブで交流を深めました…懐かしい思い出です。

お二人とも今は亡き方ですが、私の心には永遠です…。



posted by 弘心 at 12:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月27日

「武」を極める



次に「…自らの人生は、自らの心がきめる。そして、すべて心で始まり心でおわる…」という言葉があります。
私は心の法則について、修練場で三年間話をさせて頂いた。
武道、華道、茶道など全てにおいて、自らのものとするためには、その根本は「心」の問題を解決しなければならないことを伝えました。
いくら技を習得して上手くなったとしても、真の意味で役には立たない。
合氣道を例にとれば、理念は「争わざるの理」。目的は「人格を造る」ことにあります。
最初に、
・何のためにうまれてきたのか
・今何のために生きているのか
・あなたの心はどこにあるのですか
・心とは何なのですか
・幸せとはどの様なことを云うのですか
・心を清らかにするとはどういうことを云うのですか
・真善美、善とはどのようなことですか
・氣づき即行、現実大肯定・清濁併せ呑む、とはどの様なことですか
このことについて、即座に答えがかえってこなければならない。

すなわち、以上の言葉を頂点にして、自らのものとして、確固たる不動心を得なければならない。
真・善・美の持つ真理を掴むことが重要です。
「心が身体を動かす」という原理を日常生活の中において、実践することです。
いま目にしたこと、出会ったこと。いまおこっていること、など一瞬の変化に全てが決して偶然ではなく必然である、と認識することが最重要です。
すると心と身体が今までとは全く異なった反応を示すようになります。「心が身体を動かす」ということに意識が働きだすのです…。
ここまでが一段階です。つづく
posted by 弘心 at 21:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする